第2話
「……ずっと、会いたかった」
私の手を両手で包み込み、熱っぽい眼差しを向けてくる男性。
隣国の軍を統べる大公にして、最強の竜騎士。冷酷無慈悲と恐れられるレオンハルト・ヴァルグレイヴ閣下である。
……なのだが。
「アリア。もう二度と、君を見失いたくない」
紫色の瞳はきらきらと輝き、私の手を握る仕草は驚くほど優しい。
まるで、十年間ご主人様の帰りを待ちわびていた大型犬だ。
(……待って)
私は内心で頭を抱えた。
(私、今日やっと自由になったばかりなんですけど!?)
つい一時間ほど前まで、私は十年間に及ぶブラック労働から解放され、人生最高のベーコンサンドを堪能していた。
これからは誰の世話も焼かず、好きなものを食べ、行きたい場所へ行く。
王都で食べ歩きをして、気が向いたら温泉へ行き、ふかふかのベッドで好きなだけ眠る。
そんな完璧な人生設計が、ようやく実現するはずだった。
それなのに。
「アリア?」
「は、はいっ!」
「どうした? 顔色が優れないようだが」
「いえ、人生設計が音を立てて崩れていく気配を感じただけです」
「……人生設計?」
「こちらの話です」
危ない。
思わず本音が漏れた。
私はそっと彼の手から自分の手を引き抜こうとした。
「あの、大公閣下。お怪我も治りましたし、私はこれで失礼いたしますね」
「待ってくれ、アリア!」
レオンハルトは、今にも捨てられそうな子犬のような声で私を引き止めた。
いや、あなた、冷酷無慈悲の大公閣下ですよね?
敵国の将軍すら震え上がらせる竜騎士ですよね?
どうして今、そんなに必死なのですか。
「命の恩人である君に、何の恩返しもせず別れるなど、ヴァルグレイヴ家の名折れだ。どうか私の城へ来てほしい。国賓として迎え、最高の礼を尽くさせてくれ」
「お気持ちはありがたいのですが、私はこれから王都へ向かいまして……」
「城には、大陸一と名高い専属料理長がいる」
「……え?」
ぴくり、と私の耳が動いた。
今、何と?
「王都で食べ歩きをする予定だと聞いたが、私の城にも腕の立つ料理人がいる。幻の霜降り竜牛を使ったステーキも、港から魔法で運ばせた新鮮な海の幸も、望むだけ用意させよう」
「…………」
「もちろん、三食昼寝付きだ。君が望むなら、専属の侍女もつけよう。温泉質の湯浴み場もある。疲れた体を癒やすためのマッサージも、最高のものを用意する」
十年間の野営生活。
泥水で顔を洗い、硬い携帯食料をかじり、魔物の気配に怯えながら浅い眠りを繰り返す毎日。
たまの休息も、クランの体調管理や装備の点検に消えていた。
それがどうだろう。
三食昼寝付き。
一流の料理人。
広い湯浴み場。
ふかふかのベッド。
しかも、誰かの世話をする必要がない。
(……これは、悪くないのでは?)
いや、待て。
私は自由を求めていたのだ。
誰かに依存せず、自分の足で歩き、自分の人生を楽しむ。
それが目標だったはず。
しかし、よく考えてみてほしい。
美味しい料理を食べることも、温かいお風呂に入ることも、ふかふかのベッドで眠ることも、自由な人生の一部ではないだろうか。
しかも、私は彼の命を救った。
恩返しを受けることに、何の問題があるというのか。
「……三食昼寝付き、ですか?」
「ああ。君はもう、息をしているだけでいい」
「それは少し大袈裟では……」
「何なら、私が君の代わりに息をしよう」
「それは私が死んでしまうので、ご自分でしてください」
「わかった。では、君が息をしている間、私は君を幸せにすることに専念しよう」
「どうしてそうなるんですか!?」
思わず声が裏返った。
レオンハルトは、なぜか嬉しそうに微笑んでいる。
……駄目だ。
この人、話が通じているようで、肝心なところが通じていない。
けれど。
「……わかりました。お言葉に甘えさせていただきます」
「本当か!?」
レオンハルトの顔が、ぱあっと明るくなった。
あまりにもわかりやすい反応に、私は思わず目を瞬かせた。
冷酷無慈悲という二つ名は、いったいどこへ行ったのだろう。
「では、すぐに城へ戻ろう。馬車を用意させる。いや、君の体に負担がかかるといけない。転移魔法のほうがいいだろうか。食事は到着に合わせて用意させよう。今夜は何が食べたい?」
「……ローストビーフ」
考えるより先に、口が動いた。
「承知した。料理長に最高のものを用意させよう」
「あと、デザートも」
「もちろんだ」
「……本当に、三食昼寝付きなんですね?」
「約束しよう」
私は深く頷いた。
よし。
まずは三日。
いや、一週間。
せっかくの好待遇なのだから、少しくらい満喫しても罰は当たるまい。
そう自分に言い聞かせながら、私は差し出されたレオンハルトの手を取った。
その瞬間、彼は世界一の宝物を手に入れたかのような笑顔を浮かべた。
(……なんだか、少し嫌な予感がする)
私の勘は、こういうときだけ妙に当たるのだった。




