第1話
「アリア。俺はアリスと付き合うことになった」
魔王討伐の最前線、野営地の天幕。
目の前でふんぞり返る男の隣には、プラチナブロンドの髪を揺らすA級聖女アリスがいた。
彼女は俺様系の英雄にふさわしい恋人を得た、と言わんばかりの勝ち誇った笑みを浮かべている。
「だが、安心しろ。お前を追い出そうというわけじゃない。確かにC級のお前は戦闘じゃ役に立たないが、裏方なら務まるだろう? これまで通り、俺を支えろ」
男の名はクラン。
十年前、男爵家の三男にすぎなかった彼は、今や魔王討伐の英雄にして剣聖と呼ばれている。
その隣で得意げに笑うアリスは、回復魔法に秀でたA級聖女。
そして私は、C級聖女のアリア・ローゼンベルク。
公爵家の次女でありながら、十年間、この男のために自分の魔力と生命力を削り続けてきた女である。
……といっても、クランはそんな事実を知らない。
彼は自分の剣技だけで強くなったと思い込んでいるし、アリスもまた、彼を支える私のことを役立たずの裏方だと見下していた。
おかげで私の肌は荒れ、髪はパサつき、かつて銀糸のようだと褒められた容姿は見る影もない。
それでも、私はずっと耐えてきた。
なぜなら。
「アリア。ショックなのはわかる。だが、これもパーティーのためだ。俺の側仕えとしてなら、これからも英雄のそばに置いてやる」
クランが、いかにも慈悲深い男の顔で言った。
私は唇をぎゅっと引き結んだ。
――笑ってしまわないように。
(き、来たぁぁぁっ!! 待ってました、解雇宣告!!)
心の中で盛大なファンファーレが鳴り響く。
十年。
長かった。本当に長かった。
ようやく、この日が来たのだ。
そもそも、私がクランにかけ続けてきた『命力譲渡』は、普通の強化魔法とは違う。
対象と魔力の回路を繋ぎ、術者の生命力まで分け与えることで、相手の能力を限界以上に引き上げる特級魔法。
ただし、一度結んだ契約は術者の意思だけでは解除できない。
無理に切断すれば魔力回路が暴走し、最悪の場合、術者も対象者も命を落とす。
安全に契約を破棄する唯一の方法。
それは、対象者から明確な拒絶か裏切りを受けることだった。
つまり、クランが私を必要としている間、私は彼に魔力を供給し続けるしかなかったのである。
……そう、彼が私を必要としている間は。
(だから私は、あなたが浮気して私を捨てる日を十年間待ってたんですよ!)
もちろん、ただ指をくわえて待っていたわけではない。
彼が強くなればなるほど、私の魔力供給は増えた。
周囲から称賛されるたびに、彼は自分の才能を信じ込んだ。
私の助言を聞かなくなり、私の功績を忘れ、ついには私を足手まといと呼ぶようになった。
ここまで来れば、あとは時間の問題。
そして今日、ついに彼は恋人を作り、私を拒絶してくれた。
おめでとう、クラン。
あなたは今、十年間で一番役に立つことをしてくれました。
「クラン様のお気持ちはわかりますわ。アリアさんも、いつまでも彼に依存していてはいけませんものね」
隣のアリスが、わざとらしく心配そうな顔をした。
「私が彼を支えますから、安心してください。あなたは裏方のお仕事に専念なさって?」
その言葉を聞いた瞬間、私は危うく拍手しそうになった。
ぜひとも、そうしてほしい。
彼の食事の管理も、装備の点検も、魔力切れの兆候を見抜くことも、戦闘後の疲労回復も。
十年間、私が一人でこなしてきた仕事のすべてを。
「はいっ! 喜んで離脱させていただきます!」
「……は?」
「アリスさん、残りの激務と彼の介護、よろしくお願いしますね! あ、私物はすべて持っていきますので、ご心配なく。それでは!」
「ちょ、ちょっと待て、アリア!」
クランが慌てて立ち上がった。
「だ、誰が離脱していいと言った! お前はこれからも俺のそばで――」
「えっ? だって、私を必要ないとおっしゃったのはクラン様ですよね?」
にっこり。
「まさか、ご自分の発言をお忘れになったわけではありませんよね?」
「そ、それは……!」
「では、失礼いたします!」
私は優雅に一礼すると、天幕を飛び出した。
背後から何か叫ぶ声が聞こえたけれど、振り返る気はなかった。
だって、十年ぶりの自由なのだ。
一秒だって無駄にしたくない。
◆
野営地を離れ、王都へ続く街道に足を踏み出した瞬間だった。
ガシャンッ。
体の奥で、重い鎖が外れる音がした。
「……っ!」
胸の奥が熱くなる。
十年間、クランへと繋がれていた魔力回路が、ようやく解放されたのだ。
枯れ果てていた泉に水が満ちるように、私の中へ膨大な魔力が流れ込んでくる。
荒れていた指先に潤いが戻り、傷んでいた髪がさらさらと肩を滑った。くすんでいた肌にも血色が戻り、体の奥に押し込めていた生命力が全身を満たしていく。
私は近くの水たまりを覗き込んだ。
そこに映っていたのは、十年前の自分よりも、さらに美しくなった銀髪の少女だった。
「……私、こんな顔だったんだ」
思わず頬に触れる。
ずっと、自分のことを醜いと思っていた。
けれど、それは私が弱かったからではない。
誰かを強くするために、自分の力を使い果たしていただけだったのだ。
「ふふっ……」
自然と笑みがこぼれた。
もう、誰かのために自分をすり減らす必要はない。
誰かの顔色をうかがう必要もない。
これからは、自分の人生を自分のために使っていいのだ。
「ああ……空気が美味しい!」
私は両手を広げ、思いきり深呼吸した。
そして、ふと思い出す。
「……あっ。お腹すいた」
感動的な解放の瞬間に申し訳ないけれど、こればかりは仕方がない。
十年間、戦場での食事といえば、冷めた携帯食料か、味の薄い栄養スープばかりだった。
たまに温かい料理が出ても、クランの好みに合わせて調整する必要があったし、私自身は食事の時間さえ惜しんで彼の世話をしていた。
今日くらいは。
今日くらいは、自分の食べたいものを、自分のために作って食べよう。
私は街道沿いの木陰に腰を下ろし、荷物から小さな鉄板を取り出した。
町で買っておいた厚切りベーコン、ライ麦パン、とろけるチーズ。
材料はたったそれだけ。
でも、今の私にとっては、王宮の晩餐会よりも豪華なご馳走だった。
火を起こし、熱した鉄板にベーコンを乗せる。
ジュワァァッ!
勢いよく脂が弾け、香ばしい燻製の匂いが立ち上った。
ああ、この音。
この匂い。
もう、これだけで幸せになれる気がする。
ベーコンの端がカリッと色づき、透明な脂が黄金色に輝き始めたところで、私はライ麦パンを半分に切った。
焼きたてのベーコンを挟み、上からチーズをたっぷり乗せる。
鉄板の余熱でチーズがとろりと溶け、ベーコンの脂と混ざり合った。
準備完了。
私は両手でそれを持ち、大きく口を開けた。
「いただきます!」
サクッ。
ライ麦パンの香ばしい歯ごたえ。
続いて、厚切りベーコンから熱い肉汁がじゅわっと溢れ出す。
燻製の深い旨味に、チーズの濃厚な塩気。
カリカリに焼けた端の香ばしさと、脂身の甘みが口いっぱいに広がった。
「~~~っ!」
言葉にならない。
美味しい。
美味しすぎる。
思わず目を閉じて、ゆっくり噛みしめた。
誰かのために命を削らない食事。
誰かに許可を取らなくてもいい食事。
自分が食べたいから、自分のために作った食事。
たったそれだけのことが、こんなにも幸せだなんて。
「……もう、絶対に戻らない」
私は残りのサンドイッチを大事に頬張った。
これからは、好きな場所へ行こう。
好きなものを食べよう。
行ってみたかった街にも行きたいし、いつか自分のお店を持つのもいいかもしれない。
公爵令嬢としての義務はあるけれど、幸い、実家には私を心配してくれる家族がいる。
少なくとも、クランの世話係に戻る必要はない。
「よし。まずは王都で美味しいものを食べ歩いて、それから――」
その時だった。
ふわり、と風が吹いた。
香ばしいベーコンの匂いに混じって、鉄錆のような臭いが鼻をかすめる。
血の匂い。
私は食べかけのサンドイッチを置き、木立の奥へ目を向けた。
「……誰かいるの?」
返事はない。
けれど、確かに人の気配がした。
念のため周囲に結界を張り、慎重に近づく。
木々の陰に倒れていたのは、黒いマントをまとった大柄な男性だった。
漆黒の髪に、彫刻のように整った顔立ち。
ただし、顔色は死人のように青白く、胸元には深い傷が刻まれていた。傷口から流れる血は、通常の赤ではなく、どす黒い色を帯びている。
しかも、皮膚の下を黒い筋が這っていた。
「呪毒……!」
私は息を呑んだ。
ただの毒ではない。
魔力に干渉し、生命力そのものを侵食する高位の呪毒だ。通常の治癒魔法では毒を押さえ込むことさえ難しく、放っておけば数分と持たないだろう。
男性の呼吸は浅く、意識もない。
このまま見捨てれば、確実に命を落付す。
「……困った人ね」
私は小さくため息をついた。
せっかく自由になれたのに、最初に出会う人が瀕死の重傷者だなんて。
でも、見つけてしまった以上、放っておくわけにもいかない。
私は男性の胸元に手をかざした。
「大丈夫。もう少しだけ、頑張って」
掌に魔力を集める。
その瞬間。
眩い銀白色の光が、周囲一帯を包み込んだ。
「えっ……?」
自分でも驚くほどの魔力だった。
クランに供給していた時とは比べものにならない。
溢れ出す魔力が呪毒を包み込み、黒い筋を一つずつ消し去っていく。傷口は瞬く間に塞がり、損傷した組織が再生し、乱れていた呼吸も徐々に落ち着いていった。
数秒後。
男性の胸から、完全に傷が消えた。
「……うそ」
私は自分の掌を見つめた。
今の治癒魔法は、間違いなく特級以上のものだ。
しかも、ほとんど魔力を消費した感覚がない。
「私の魔力って……こんなにすごかったの?」
十年間、ずっと自分の力が足りないと思っていた。
C級だから。
才能がないから。
もっと頑張らなければいけないから。
けれど、違ったのだ。
私の力は、誰かを支えるために使い果たされていただけだった。
「……なんだか、泣きそう」
嬉しいような、悔しいような。
胸の奥がじんわりと熱くなった。
その時。
「……ん」
男性のまぶたが、かすかに動いた。
「気がつきましたか?」
私は慌てて顔を覗き込んだ。
「傷は治しましたが、呪毒が完全に抜けているか確認したいので、しばらく安静に――」
「……君は」
低く、掠れた声。
男性はゆっくりと目を開いた。
深い紫色の瞳が、まっすぐに私を捉える。
そして。
「……銀の髪」
その瞳が、驚きに見開かれた。
「まさか……」
男性は上半身を起こそうとした。
「ちょ、ちょっと! まだ動いちゃ駄目です!」
慌てて肩を支えると、大きな手が私の手首をそっと掴んだ。
強い力だった。
けれど、私を傷つけないように、ひどく慎重な手つきだった。
「……君の名を、聞かせてほしい」
「アリアです。アリア・ローゼンベルク」
その瞬間、男性の表情が変わった。
まるで、長い間探し続けていた宝物を、ようやく見つけたかのように。
「アリア・ローゼンベルク……」
彼は私の名前を、噛みしめるように繰り返した。
「やはり、君だったのか」
「……え?」
「ずっと、探していた」
紫色の瞳が、熱を帯びて私を見つめる。
「幼い頃、死にかけていた私を救ってくれた、銀の髪の少女を」
その言葉に、私は記憶を探った。
幼い頃。
死にかけていた少年。
銀の髪。
……あれ?
もしかして、あの時の子?
私がまだ幼く、聖女としての力に目覚めたばかりの頃。
隣国への訪問に同行した際、森の中で傷ついた少年を助けたことがある。
あの時の少年は、確かに黒い髪と紫色の瞳をしていた。
けれど、まさか。
私は男性の腰に帯びた剣へ視線を落とした。
鞘に刻まれているのは、竜の紋章。
隣国の軍を統べる、最強の竜騎士。
そして、冷酷無慈悲の大公閣下として知られる男。
レオンハルト・ヴァルグレイヴ。
「……レオンハルト大公閣下?」
「覚えていてくれたのか」
彼は、ほっとしたように微笑んだ。
その顔は、戦場で敵を震え上がらせる冷酷な大公とは、とても思えない。
「もう二度と、君を見失いたくない」
「えっ?」
「私の命を救ってくれた、たった一人の聖女。……アリア」
彼は私の手を両手で包み込み、そっと頬を寄せた。
まるで、主人の帰りを待ちわびていた大型犬のように。
「……ずっと、会いたかった」
私は固まった。
いや、待って。
待ってほしい。
私は今日、十年間の束縛から解放されたばかりなのだ。
これから美味しいものを食べて、自由気ままに暮らす予定だった。
恋愛?
結婚?
ましてや、隣国の大公閣下に溺愛される人生なんて、予定表のどこにも書いていない。
「……あの、大公閣下?」
「レオンハルトでいい」
「いえ、そういう問題ではなくてですね……」
「アリア」
彼は、私の手をぎゅっと握り直した。
「もう二度と離さない。――私の聖女」
(……待って)
私は空を仰いだ。
(私、自由になったばかりなんですけど!?)
◆
「……おい、クラン。何をしている!」
魔物の群れを前に、クランは剣を振り下ろした。
しかし。
ガキンッ!
耳障りな音が響き、魔物の硬い皮膚に弾かれた剣が大きく跳ね返る。
「なっ……!?」
いつもなら、一振りで両断できる相手だった。
なのに、剣が重い。
体が思うように動かない。
「どうしたのよ、クラン!」
アリスが叫びながら回復魔法を放つ。
しかし、淡い光はクランの体を包んだものの、疲労はほとんど回復しなかった。
「な、なんで……? 私の魔力が足りない?」
「アリス、もっと回復しろ! 俺は剣聖だぞ!」
「わかってるわよ! でも、いつもみたいに力が戻らないの!」
クランは自分の手を見つめた。
十年間、どんな敵も打ち倒してきた。
どれほど傷ついても立ち上がれた。
それが自分の才能と努力の結果だと、疑ったことなどなかった。
けれど今、彼の体からは、あの圧倒的な力が消え失せていた。
「……アリアは?」
ふと、彼は呟いた。
いつもなら、戦闘が終わる頃には彼の疲労を見抜き、必要な魔法をかけてくれる女。
装備の不備を指摘し、体調を管理し、誰よりも早く異変に気づいていた女。
その姿が、どこにもない。
「アリアを呼べ! 今すぐだ!」
しかし、返事をする者はいなかった。
彼はまだ知らない。
自分が十年間、当たり前のように享受してきた強さが、誰の犠牲によって成り立っていたのかを。
そして、その力を失った今、彼に残されたものが何なのかを。
――アリアはもう、二度と戻らない。
彼女は今、人生で一番美味しい食事と、一番厄介な出会いを同時に手に入れていたのだから。




