第10話
「……ああ、幸せです」
私は、目の前のパフェを見つめていた。
透明なグラスの中には、瑞々しいメロンの果肉がたっぷりと詰まっている。
その上に、ふんわりと絞られた生クリーム。
薄く焼き上げられたクッキー。
そして、頂上には、宝石のように艶やかな赤い苺が飾られていた。
私は長いスプーンで、メロンとクリームを一緒にすくい取った。
ぱくり。
「……んんっ!」
冷たいメロンから、濃厚な甘みが広がった。
生クリームは軽やかで、果汁の爽やかさを邪魔しない。
そこにクッキーのほろりとした食感が加わり、口の中で絶妙なハーモニーを奏でている。
「美味しい……!」
「それはよかった」
向かいのレオンハルトが、穏やかに微笑んだ。
「アリアが喜んでくれるなら、王都中の果樹園を買い取ってもいい」
「買い取らなくていいです!」
「……そうか」
「そうです!」
私はスプーンを握り直した。
まったく、この人は油断も隙もない。
美味しいものを食べていると、すぐに国土規模の話を持ち出してくる。
「そもそも、私が食べたいのは、このお店のパフェです。果樹園を買い取っても、同じものが食べられるとは限りません」
「なるほど。確かに、料理人の技術も重要だな」
「そういうことです」
「では、店主に感謝を伝えよう」
「普通に美味しかったと伝えるだけで十分ですからね?」
「……善処しよう」
絶対に何かをしようとしている。
私は、じっと彼を見つめた。
レオンハルトは、何食わぬ顔でコーヒーを飲んだ。
……まあ、いい。
今はパフェに集中しよう。
そう思った、そのときだった。
「アリアぁぁぁっ!」
聞き覚えのある声が、通りに響き渡った。
私はスプーンを止めた。
まさか。
いや、まさかね。
こんな平和な午後に、そんな都合よく現れるはずがない。
「アリア! 探したぞ!」
……来た。
私はゆっくりと顔を上げた。
テラス席の柵にしがみつくようにして、ひとりの男が立っていた。
泥で汚れた服。
乱れた髪。
青ざめた顔。
肩には、雑に巻かれた包帯。
そして、こちらを必死に見つめる、血走った目。
クランだった。
「……あの」
私は、できる限り穏やかな声で尋ねた。
「どちら様でしょうか?」
「なっ……!?」
クランの顔が引きつった。
「何を言っているんだ、アリア! 俺だ! クランだ!」
「ああ」
私は、ようやく思い出したように頷いた。
「元職場の、クラン様ですね」
「も、元職場……?」
「はい。お久しぶりです」
私はにっこりと微笑んだ。
「その節は、十年間にわたる無給の業務委託、誠にありがとうございました」
「ぎ、業務委託!?」
「はい。おかげさまで、先日ようやく契約解除となりました。今は自由の身ですので、どうぞお気遣いなく」
「何を言っているんだ! 俺たちは恋人だっただろう!?」
周囲の客たちが、ざわざわと騒ぎ始めた。
クランは、そんな視線を気にする余裕もないらしい。
「アリア、聞いてくれ! 俺が悪かった!」
彼は、テーブルに手を伸ばそうとした。
その瞬間。
「触れるな」
低く、冷たい声が響いた。
レオンハルトだった。
先ほどまでの穏やかな表情は、跡形もなく消えていた。
紫色の瞳が、クランを射抜く。
「私の連れに、無断で触れようとするな」
「なっ……」
クランは、反射的に手を引っ込めた。
その顔に、恐怖が浮かぶ。
隣国の大公。
戦場で数多の敵を退け、冷酷無慈悲と恐れられる男。
そんな人物が、今、自分を見下ろしている。
クランは唾を飲み込んだ。
だが、すぐにアリアへと視線を戻した。
「アリア! 頼む、話を聞いてくれ!」
「お話でしたら、今お聞きしていますが」
「そうじゃない! 俺は、お前に戻ってきてほしいんだ!」
「……戻る?」
私は、首を傾げた。
「どこへですか?」
「俺のところに決まっているだろう!」
クランは、必死に言葉を続けた。
「アリスとは別れた! 俺が間違っていた! お前がいなきゃ、俺は駄目なんだ!」
「…………」
「頼む! もう一度、俺を支えてくれ!」
私は、ゆっくりとスプーンを置いた。
なるほど。
ようやく理解した。
この人は、自分が何をしたのか、まだわかっていないのだ。
「クラン様」
「……アリア?」
「私が、あなたに何をしていたのか。覚えていらっしゃいますか?」
「もちろんだ! お前は俺の恋人で、俺を支えてくれていた!」
「では、私が何を失っていたのかは?」
「……え?」
「魔力です。体力です。時間です。あなたを支えるために、私は自分の力を使い続けていました」
私は、静かに言葉を重ねた。
「あなたが疲れずに戦えたのも、敵の攻撃に反応できたのも、傷を負いながら戦い続けられたのも、すべて私の魔法があったからです」
「……っ」
「もちろん、あなた自身の努力がなかったとは申しません。剣を振るったのはあなたですし、戦場で危険を冒したのもあなたです」
クランが、わずかに顔を上げた。
だが、私は続けた。
「けれど、その力を自分ひとりの実力だと思い込み、私を足手まといと呼んだ。それが、あなたの間違いです」
「違う! 俺は……!」
「違いません」
私は、はっきりと言った。
「私は、あなたの役に立つことが嫌だったわけではありません。あなたを支えることそのものを、憎んでいたわけでもありません」
十年間。
私は、確かに彼を支えてきた。
彼が剣の腕を磨く姿を、すぐそばで見ていた。
初めて討伐を成功させた日。
仲間に称賛された日。
剣聖と呼ばれるようになった日。
そのすべてを、私は覚えている。
だからこそ、わかる。
クランには、クラン自身の努力があった。
けれど、彼はいつしか、その努力だけですべてを成し遂げたと思い込むようになった。
自分を支える者の存在を、当たり前だと考えるようになった。
「……私は、あなたのために自分の人生を使い続けることを、やめたかったんです」
私は、彼を見つめた。
「だから、あなたが私を必要ないとおっしゃったとき、本当に嬉しかった」
「……え?」
「ようやく、自由になれたのですから」
クランの顔から、血の気が引いていった。
「そんな……」
「あなたがアリス様を選んだことも、私を追い出したことも、もう何とも思っていません。むしろ、感謝しています」
「感謝……?」
「はい。おかげさまで、私は今、自分の人生を楽しんでいます」
私は、テーブルの上のパフェに視線を落とした。
メロンはまだ瑞々しく、生クリームも美しい形を保っている。
よかった。
まだ溶けていない。
「ですから、クラン様」
私は、再び彼を見た。
「もう二度と、私を頼らないでください」
「……っ!」
「あなたが私を必要ないとおっしゃったのです。私はその言葉を、ありがたく受け取らせていただきました」
クランは、口を開いた。
だが、何も言えなかった。
「それとも、あの言葉は嘘だったのでしょうか?」
「違う! あれは……!」
「では、何だったのですか?」
私は、穏やかに尋ねた。
「私を傷つけるための言葉ですか? それとも、本当に私が必要ないと思っていたのですか?」
「…………」
「どちらにしても、もう遅いのです」
クランの肩が、震え始めた。
「俺は……ただ……」
「私は、もうあなたの便利な道具ではありません」
それだけ告げて、私は紅茶のカップを手に取った。
これ以上、話すことはなかった。




