最終話
「……アリア」
クランは、呆然と立ち尽くしていた。
彼女はもう、自分を見ていなかった。
目の前のパフェを楽しそうに眺め、レオンハルトと何かを話している。
まるで、自分など最初から存在していなかったかのように。
「……待ってくれ」
声が震えた。
「俺は……お前がいなきゃ、どうすればいいんだ……」
その言葉に、アリアが顔を上げた。
そして、少しだけ困ったように微笑んだ。
「それを考えるのは、クラン様ご自身のお仕事です」
「……っ!」
「私の人生は、もう私のものですから」
その瞬間、クランは何も言えなくなった。
自分が彼女に何を求めていたのか。
ようやく、わかった気がした。
彼女の愛情ではない。
彼女の幸せでもない。
自分が今までどおり、強い剣聖でいられること。
周囲から称賛され、英雄として扱われること。
そのために、アリアが必要だったのだ。
彼女自身が何を望んでいるのかなど、一度も真剣に考えたことがなかった。
「……俺は……」
クランの膝が、がくりと折れた。
「俺は、何を……」
「もういいだろう」
レオンハルトの声が、冷たく響いた。
彼は立ち上がり、アリアをかばうように前へ出た。
「彼女は、お前と話す意思がない。これ以上、迷惑をかけるな」
「待ってくれ! 俺は、アリアに……!」
「その名を気安く呼ぶな」
レオンハルトの瞳が、鋭く細められた。
「彼女は、お前の所有物ではない」
その言葉に、クランは息を呑んだ。
「彼女が誰と会い、どこで暮らし、どんな人生を送るか。それを決めるのは彼女自身だ。お前に口を出す権利はない」
「…………」
「それとも、まだ理解できないか?」
レオンハルトの声は静かだった。
それなのに、周囲の空気が凍りついたように感じられた。
「彼女は、お前を選ばなかったのではない。お前に選ばれる必要そのものが、なくなったのだ」
クランの顔が、真っ青になった。
その言葉は、剣で斬りつけられるよりも深く、彼の胸に突き刺さった。
「……衛兵」
レオンハルトが呼ぶと、近くで待機していた大公家の護衛がすぐに姿を現した。
「この者を、店の外へ案内しろ。本人が抵抗するなら、冒険者ギルドまで送り届けて構わない。ただし、必要以上に手荒な真似はするな」
「はっ!」
護衛たちがクランの両脇に立った。
「ま、待ってくれ!」
クランは必死に声を上げた。
「アリア! 頼む! もう一度だけ、話を……!」
だが、アリアは振り返らなかった。
彼女は、パフェの最後の一口をすくい上げていた。
「……ああ、もったいない」
小さく呟き、口に運ぶ。
ひんやりとしたメロンの甘みが、口いっぱいに広がった。
うん。
やっぱり、美味しい。
「アリア……!」
クランの声が、少しずつ遠ざかっていく。
やがて、テラス席には再び穏やかな午後の空気が戻ってきた。
私はスプーンを置き、ほっと息を吐いた。
「……終わりましたね」
「ああ」
レオンハルトが、私の顔を覗き込んだ。
「気分を害していないか?」
「大丈夫です。もう、何とも思っていませんから」
「……そうか」
彼は少しだけ表情を和らげた。
「それなら、よかった」
私は、空になったパフェのグラスを見つめた。
クランと過ごした十年間。
長かった。
本当に、長かった。
けれど、今はもう、その時間を取り戻そうとは思わない。
過去をなかったことにはできない。
それでも、これからの時間は自分で選べる。
誰のために生きるのか。
何を食べるのか。
どこへ行くのか。
誰と笑うのか。
そのすべてを、自分で決めていい。
「……レオンハルト様」
「何だ?」
「パフェ、とても美味しかったです」
「そうか」
「また食べに来てもいいですか?」
「もちろんだ」
彼は即答した。
「君が望むなら、いつでも連れてこよう」
「ありがとうございます」
私は笑った。
すると、レオンハルトは少しだけ目を伏せ、それから意を決したように口を開いた。
「……アリア」
「はい?」
「先ほど、私は君をかばうために、つい……」
「つい?」
「……君を、婚約者と呼んでしまった」
私は、ぴたりと動きを止めた。
「…………はい?」
レオンハルトは、珍しく気まずそうに視線を逸らした。
「すまない。あの場では、そのほうが彼を遠ざけられると思ったのだ」
「……なるほど」
私は、ゆっくり頷いた。
「それで?」
「……それで?」
「本当に、婚約者だと思っていらっしゃるんですか?」
レオンハルトが固まった。
しばらくの沈黙。
やがて、彼は真剣な顔で私を見つめた。
「……私は、君と婚約したいと思っている」
「…………」
「だが、君が望まないなら、無理強いはしない」
その言葉に、私は少しだけ目を見開いた。
彼は続けた。
「君が自由であることが、何より大切だ。私のそばにいることが君の幸せにつながるなら、これ以上嬉しいことはない。だが、君が別の道を選ぶなら、それも尊重する」
……ずるい。
そんなことを真剣な顔で言われたら、簡単に断るのも難しくなるではないか。
私は、少しだけ頬が熱くなるのを感じた。
「……レオンハルト様」
「はい」
「とりあえず、今は保留です」
彼は、目を瞬かせた。
「……保留?」
「はい。まだ知り合って間もないですし、私はこれから、やりたいことがたくさんありますから」
「……そうか」
一瞬だけ、彼の肩が落ちた。
けれど、すぐに顔を上げる。
「わかった。待とう」
「……そんなに簡単に?」
「君が決めることだからな」
彼は微笑んだ。
「それに、君と過ごす時間は、これからいくらでも作れる」
……本当に、この人は。
私は、思わず笑ってしまった。
「では、まずは明日の予定を決めましょう」
「明日?」
「はい。王都には、まだまだ行ってみたいお店があるんです」
「……わかった」
レオンハルトの瞳が、ぱっと輝いた。
「どこへでも付き合おう」
「ありがとうございます。では、明日は焼きたてのアップルパイが評判のお店へ――」
「店を予約しよう。いや、貸し切りのほうがいいか?」
「普通に行きます!」
「……そうか」
彼は少しだけ残念そうに頷いた。
私は笑いながら、席を立った。
青空はどこまでも澄み渡り、王都の通りには、焼きたてのお菓子の甘い香りが漂っている。
明日は何を食べよう。
どこへ行こう。
何をして過ごそう。
考えるだけで、胸が弾んだ。
十年間、誰かの人生を支えることばかり考えてきた私。
これからは、自分の人生を楽しむ番だ。
そして、その隣には。
どうやら、私を甘やかすことに全力を注ぐ、大型犬のような大公閣下がいるらしい。
……まあ。
美味しいご飯を一緒に食べてくれるのなら、悪くない。
ただし、婚約するかどうかは、また別のお話である。




