離した手
狐の面は、石段の上で小さく跳ねた。
からん。
乾いた音が、夕方の空気に転がる。
赤い鼻先。
欠けた耳。
黄ばんだ紐。
それは、子どもの顔ほどの小さな面だった。古びているのに、捨てられずに何十年も誰かの手元に残されてきたものの色をしていた。
葵は、その面から目を離せなかった。
さっきまで巾着を握っていた佐代の手は、宙に止まったままだった。拾おうとするでもなく、隠そうとするでもなく、ただ指先だけが小さく震えている。
灯真も、動かなかった。
少年は面を見ていた。
見ている、というより、そこに何かを置き忘れてきた人のような目だった。
「……これ」
灯真の声が、かすかに漏れた。
葵は彼を見る。
さっきまで薄かった右手が、面に反応するように一瞬だけ濃くなった。けれどすぐに、また輪郭が揺れる。
「知ってるの?」
葵が聞くと、灯真は首を振ろうとした。
けれど、振れなかった。
喉の奥で、何かが引っかかっているみたいだった。
「……狐」
彼は言った。
「狐の面」
その言葉を聞いた瞬間、佐代の顔が歪んだ。
ほんの一瞬だった。
けれど、葵には分かった。
この面は、ただの古い祭りの道具ではない。
灯真と佐代の間に、ずっと落ちたままになっていたものだ。
「おばあちゃん」
葵は、ゆっくりと呼んだ。
太鼓の音が、神社の奥から低く響いている。
どん。
どん。
盆踊りの始まりを知らせる音。
けれど今の葵には、それがどこか遠い昔から鳴っている音のように聞こえた。
「灯真は、おばあちゃんの弟なの?」
佐代は答えなかった。
答えないかわりに、口元を固く結ぶ。
その沈黙だけで、答えはほとんど出ていた。
それでも、葵は聞かなければならなかった。
「夏目灯真」
新聞記事にあった名前を、もう一度口にする。
灯真の身体が小さく震えた。
「五十六年前のお盆に、神社の裏で行方不明になった男の子。一緒にいたのは、夏目佐代」
葵は祖母を見た。
「おばあちゃんの、昔の名前だよね」
佐代の目が、初めて葵をまっすぐに見た。
その目には、怒りがあった。
けれど、その下にはもっと深いものがあった。
恐れ。
そして、長い時間をかけて石のようになった後悔。
「その名を」
佐代の声は掠れていた。
「軽々しく呼ばないで」
「軽々しくなんかない」
葵は言った。
自分の声が震えていることに気づいた。怒りのせいなのか、怖さのせいなのか、自分でも分からなかった。
「誰も呼ばなかったから、灯真は自分の名字も忘れてたんでしょ」
灯真が葵を見る。
その目には、驚きと、少しの痛みがあった。
佐代は一歩だけ後ろへ下がった。
草履が石段を擦る。
「違う」
佐代は言った。
「あなたには分からない」
「じゃあ、分かるように言ってよ」
葵は前に出た。
「どうして隠してたの。どうしてお父さんのことも、灯真のことも、何も言わなかったの」
佐代の唇が震えた。
けれど、言葉は出てこない。
そのとき、灯真が小さくしゃがみ込んだ。
狐の面に手を伸ばす。
触れようとした指先が、面の表面をすり抜けた。
灯真は驚いたように自分の手を見る。
それから、もう一度、面を見た。
「これ」
声が少し変わっていた。
今ここにいる少年の声ではなく、もっと遠くから聞こえてくる声だった。
「買ってくれるって、言った」
佐代の肩が大きく揺れた。
葵は息を止めた。
灯真は、面を見つめたまま続けた。
「佐代が……買ってくれるって」
その名前を呼んだ瞬間、太鼓の音が遠くなった。
神社の石段も、赤い夕焼けも、町の提灯も、薄い膜の向こう側へ沈んでいく。
葵の視界の端で、父の提灯がかすかに揺れた。
かさり。
紙の音がした。
次の瞬間、景色が変わった。
神社の境内は、人で溢れていた。
赤い提灯が列になって揺れている。
屋台の煙が低く流れている。
焼きとうもろこしの匂い、甘い蜜の匂い、汗と土の匂い。
太鼓が鳴っていた。
どん。
どん。
どん。
今よりずっと近い。
葵はそこに立っているはずなのに、誰も彼女に気づかない。人々は葵の身体をすり抜けていく。浴衣の袖が頬をかすめた気がしても、温度はない。
これは記憶だ。
葵はすぐに分かった。
誰かの記憶。
灯真の中から、狐の面に引き出された記憶。
その中に、少年がいた。
十二歳の灯真だった。
今と同じ顔。
でも、今より少し日焼けしている。頬には汗が光り、手には綿あめの割り箸を握っている。
隣に、少女がいた。
十六歳の佐代。
髪は黒く、背筋は今と同じように伸びている。浴衣の帯は少し崩れていて、口元には苛立ちがあった。
「佐代姉ちゃん」
灯真が袖を引いた。
「狐の面、見たい」
「あとで」
少女の佐代は、前を向いたまま答える。
「さっきもあとでって言った」
「あとでって言ったら、あとでなの」
「でも、店しまっちゃうかもしれない」
「しまらないわよ」
佐代の声には、疲れが混じっていた。
葵は、胸の奥が小さく痛むのを感じた。
今の佐代と同じ声ではない。
けれど、言い方の硬さは同じだった。
祭りの人波は、二人の周りで絶えず動いている。
大人たちの背中。
浴衣の柄。
団扇。
笑い声。
太鼓。
全部が混ざり合って、夜になる前の熱を作っていた。
「母さんが、ちゃんと見てろって言ったの」
佐代は言った。
「勝手に走らないで」
「走ってない」
「同じことよ」
灯真は唇を尖らせた。
「佐代姉ちゃん、今日ずっと怒ってる」
「怒ってない」
「怒ってる」
「灯真」
佐代が立ち止まった。
振り向いた顔には、苛立ちだけではないものがあった。
子どもでいたいのに、もう子どもではいられない人の顔だった。
「姉ちゃんは、あんたの世話係じゃないの」
灯真の目が揺れた。
葵は思わず息を呑んだ。
佐代自身も、言ってすぐに少し後悔したように見えた。
けれど、言葉は戻らない。
灯真は綿あめの棒を握りしめた。
「じゃあ、僕ひとりで見る」
「灯真」
「狐の面、ひとりで見る」
彼は人波の方へ身体を向けた。
佐代が手を伸ばす。
掴んだ。
灯真の小さな手を。
その手は、確かに繋がれていた。
葵は見た。
佐代の指が、灯真の手首を包んでいる。
灯真の手が、その中で少し暴れる。
「離して」
「離したら迷子になるでしょう」
「離してよ」
「いい加減にして」
太鼓が強く鳴った。
どん。
人の波が、二人の間を押した。
灯真がよろける。
佐代も、横から来た大人に肩をぶつけられる。
その瞬間、佐代の指が緩んだ。
ほんの一瞬だった。
怒りで。
疲れで。
自分も押されて、転びそうになったから。
それでも、確かに緩んだ。
灯真の手が、佐代の手から抜けた。
葵の胸が、凍った。
佐代はすぐには振り向かなかった。
一歩。
もう一歩。
人波に押されるまま、前へ進んだ。
灯真は、そこにいるはずだった。
手を離しても、すぐ後ろにいるはずだった。
小さな弟は、いつも文句を言いながらも、結局は姉の後ろをついてくる。
だから、佐代は一瞬だけ、そう思ってしまったのだ。
葵には分かった。
それが、すべてだった。
悪意ではない。
殺意でもない。
ただの一瞬。
取り返しのつかない、一瞬。
「灯真」
少女の佐代が、振り向いた。
そこには誰もいなかった。
綿あめの白い糸が、地面に落ちていた。
人の足に踏まれて、泥と砂がついている。
「灯真?」
佐代の声が、少し高くなる。
さっきまでの苛立ちはもうなかった。
「灯真」
太鼓が鳴る。
どん。
どん。
人が笑う。
屋台の男が客を呼ぶ。
子どもたちが走る。
世界は何も知らないみたいに、祭りを続けていた。
「灯真!」
佐代が叫んだ。
葵は動けなかった。
目の前で、十六歳の佐代が人波をかき分ける。転びそうになりながら、何度も名前を呼ぶ。
けれど、返事はない。
赤い提灯の列の向こうで、神社の裏へ続く細い道が口を開けていた。
誰も見ていない。
誰も気づいていない。
その暗がりの奥へ、小さな影がひとつ、吸い込まれていった気がした。
景色が揺れた。
太鼓の音が遠ざかる。
かわりに、水の音が聞こえた。
ざあ。
ざあ。
葵はまばたきをした。
夜だった。
祭りの明かりはもう遠い。
足元には湿った土がある。
川の匂いがした。
灯真が、そこに座っていた。
十二歳の灯真。
膝を抱えて、泣いている。
顔を腕に埋めて、小さく肩を震わせている。
「佐代姉ちゃん」
声は、ほとんど水の音に消えていた。
「ごめんなさい」
葵の喉が詰まる。
灯真は、怒っていなかった。
迷子になった子どもが、叱られる前に謝っているだけだった。
「狐の面、いらないから」
彼は泣きながら言った。
「帰りたい」
川の向こうで、火がひとつ揺れた。
小さな灯りだった。
迎え火のようにも見えた。
誰かが家の前に置いた提灯の火のようにも見えた。
灯真は顔を上げた。
涙で濡れた目が、その火を見る。
「家……?」
彼が立ち上がろうとした瞬間、景色は白く弾けた。
葵は神社の石段に戻っていた。
息が荒い。
膝が震えている。
目の前には、今の灯真が立っていた。
彼もまた、何かを見た後の顔をしていた。
佐代は、石段の途中で動かない。
足元には狐の面。
赤い鼻先が、夕闇の中で小さく光っている。
誰もすぐには話せなかった。
最初に口を開いたのは、灯真だった。
「佐代姉ちゃん」
その呼び方に、佐代の顔が崩れた。
ほんの少し。
けれど、葵は見た。
七十二歳の祖母の中に、十六歳の少女がまだ閉じ込められているのを。
「僕」
灯真は、自分の胸に手を当てた。
「怒ってたんじゃないです」
佐代は何も言わない。
「面、欲しかっただけで」
灯真の声が震えた。
「帰り道、分からなくなって」
彼の右手が、また薄くなった。
葵は思わず名前を呼んだ。
「灯真」
輪郭が少し戻る。
けれど、完全ではない。
灯真はゆっくりと佐代を見上げた。
「僕、悪いことしましたか」
その問いは、あまりに小さかった。
小さすぎて、佐代の胸をまっすぐに貫いた。
佐代は一歩、灯真へ近づこうとした。
けれど、足が動かない。
手だけが伸びる。
何十年も前に、離してしまった手を、今度こそ掴もうとするみたいに。
でも、その手は灯真に触れなかった。
指先は、彼の肩の少し手前で止まる。
「違う」
佐代の声は、かすれていた。
「悪かったのは、あんたじゃない」
灯真の目が揺れた。
葵は、祖母の横顔を見ていた。
聞きたいことは山ほどあった。
どうして言わなかったのか。
なぜ灯真の名前を呼ばなかったのか。
なぜ父の写真まで隠したのか。
でも、今聞けば、佐代は壊れてしまう気がした。
それほどに、祖母の顔は脆かった。
太鼓の音が、また鳴った。
どん。
その音で、佐代の目が現実へ戻る。
彼女は急に顔を上げ、神社の奥を見た。
そして、低く言った。
「ここで呼んではいけない」
葵は眉をひそめた。
「何を」
「灯真を」
佐代は言った。
「この子の名前を、ここで何度も呼んではいけない」
「名前を呼ばなかったから、消えかけてるんじゃないの?」
「名前だけでは足りない」
佐代の声が震えた。
葵は息を止めた。
その言葉は、以前の禁止よりも、ずっと深い場所から出てきたように聞こえた。
「名前だけで火を灯せば、違うものにも道を開く」
父の提灯が、鞄の中でかすかに鳴った。
かさり。
葵は思い出す。
玄関の磨りガラスに立っていた、顔のない影。
父の声で名前を求めてきたもの。
「違うものって」
佐代は答えなかった。
その沈黙の中に、父の名前があった。
蓮。
葵はそれを感じた。
この沈黙は、灯真だけのものではない。
父にも繋がっている。
「お父さんは」
葵はゆっくりと言った。
「灯真を呼ぼうとしたの?」
佐代の目が大きく開いた。
それだけで、葵はもう聞いてはいけない場所に触れたのだと分かった。
灯真が不安そうに葵を見る。
風が、神社の裏から吹いた。
生ぬるい夏の風ではなかった。
湿っていて、冷たい。
川の匂いがした。
佐代は、狐の面を拾い上げた。
両手で包むように持つ。
その手は、さっきよりもずっと小さく見えた。
「探したのよ」
佐代は言った。
誰に向けた言葉なのか分からなかった。
灯真へなのか。
葵へなのか。
それとも、十六歳の自分へなのか。
「何日も探した。山も、川も、神社の裏も。みんなで探した」
太鼓の音が遠ざかる。
「でも、見つからなかった」
灯真は静かに聞いていた。
「見つかったのは、片方の下駄だけだった」
葵の背中が冷たくなる。
佐代は面を見つめたまま続けた。
「それから、私はこの面を買った」
灯真の目が揺れた。
「約束していたから」
佐代の声が、そこで途切れた。
彼女は唇を噛む。
「でも、渡す相手がいなかった」
灯真は何も言わなかった。
ただ、狐の面を見ていた。
欲しがっていたはずのもの。
約束されていたはずのもの。
けれど、五十六年間、渡されなかったもの。
葵は目を伏せた。
責めたい気持ちは消えていない。
でも、その面を抱える佐代の手を見ていると、怒りだけでは足りなかった。
この家は、誰かを忘れたのではない。
忘れられないから、呼ばなかったのだ。
それでも、呼ばれなかった灯真は、少しずつ自分を失っていた。
どちらも救いではなかった。
灯真が、ぽつりと言った。
「僕、川のそばにいました」
佐代が顔を上げる。
「最後に、覚えているのは」
灯真は自分の胸を押さえた。
「水の音と、遠くの太鼓と」
彼の声が震える。
「向こう岸に見えた、ひとつの灯りです」
父の提灯が、鞄の中で震えた。
葵は、神社の裏へ続く細い道を見た。
そこにはまだ、昼間なら見えるはずの石畳も、木の根も、低い柵もある。
けれど、その奥だけが暗い。
まるで、夜がそこだけ先に来ているみたいだった。
佐代は小さく首を振った。
「行ってはいけない」
その声は、ほとんど祈りだった。
「その灯りを追ってはいけなかった」
灯真は、佐代を見た。
「でも」
彼は言った。
「僕、家に帰りたかったんです」
その瞬間、神社の裏から、風もないのに提灯の揺れる音がした。
かさり。
かさり。
葵は振り向いた。
細い道の奥に、火のついていない提灯が並んでいる。
昨日見た、あの町へ続く道。
灯真の輪郭が、また少し薄くなる。
彼は自分の手を見た。
「葵さん」
「何」
「僕、思い出したのに」
灯真は困ったように笑った。
「どうして、まだ帰る家が分からないんでしょう」
葵は答えられなかった。
佐代が、狐の面を胸に抱きしめた。
その横顔は、十六歳の少女のまま泣くことを忘れてしまった人のようだった。
太鼓が、三度鳴った。
どん。
どん。
どん。
そして、神社の裏の暗がりから、知らない声がした。
「今日は、誰かが私の名を呼びましたか」
低く、かすれた老人の声だった。
葵は息を止めた。
灯真がゆっくりと振り向く。
火の消えた提灯の下に、いつの間にか人影が立っていた。
顔は見えない。
ただ、その手には、名前の消えかけた古い札が握られていた。




