二人を失くした
今日は、誰かが私の名を呼びましたか。
その声は、火の消えた提灯の下から聞こえた。
低く、乾いていて、それでもどこかで長い間待ち続けていた人の声だった。
葵は息を止めた。
神社の裏へ続く細い道は、さっきまで確かにそこにあった石畳の道ではなくなっていた。木の根も、低い柵も、夕方の草の匂いも、今は薄い闇の向こうへ押しやられている。
代わりに、火のない提灯が並んでいた。
赤い紙。
白い紙。
薄く破れた橙色の紙。
どの提灯も、誰かを迎える形だけを残して、肝心の火を失っている。
その一つの下に、老人が立っていた。
背は低く、腰は少し曲がっている。古い紺色の着物を着て、片手に木札を持っていた。木札には、かつて文字が書かれていたらしい墨の跡だけが残っている。
雨に流されたのか。
時間に削られたのか。
名前だったはずの場所は、黒い滲みになっていた。
「今日は」
老人はもう一度言った。
「誰かが、私の名を呼びましたか」
葵の喉が動いた。
答えなければいけない気がした。
無視してはいけない。
そう思った。
けれど、名前が分からない。
呼びたくても、呼べない。
その事実が、思っていたよりもずっと苦しかった。
「葵さん」
灯真が、小さく言った。
彼の声にも震えがあった。
「この人、ずっとここにいます」
「知ってるの?」
「知っている気がします。でも……」
灯真は老人の木札を見た。
「名前が、見えません」
佐代が一歩前に出た。
狐の面を胸に抱いたまま、老人と葵の間に立つ。
「答えてはいけない」
その声は、命令というより、昔から同じ悪夢を見続けてきた人の声だった。
葵は佐代を見る。
「でも、この人は名前を聞いてるだけだよ」
「知らない名を、火の前で呼んではいけない」
「またそれ?」
「名前だけでは足りないと言ったでしょう」
佐代の指が、狐の面の縁を強く握った。
「思い出のない名前を火に乗せれば、空いたところに別のものが入る」
父の提灯が、鞄の中で小さく鳴った。
かさり。
その音に、葵の背中が冷たくなる。
玄関の磨りガラスの向こうに立っていた、顔のない影。
父の声で、葵の名前を求めてきたもの。
あれも、空いたところに入り込んだものなのだろうか。
葵は老人を見た。
老人は佐代の言葉に反応しなかった。
ただ、同じ場所に立ち、読めなくなった木札を胸に当てている。
「呼ばれないと」
老人は言った。
「帰り道が、分からないのです」
灯真の肩が、小さく震えた。
葵は彼の横顔を見る。
十二歳の少年の顔。
けれど、その横顔の奥には、五十六年分の夜が薄く重なっている。
「私の家は、どこでしたか」
老人は葵たちを見ていなかった。
誰でもない誰かへ、同じ質問を繰り返しているようだった。
「私の家では、まだ味噌汁の匂いがしますか」
葵は答えられなかった。
老人の名前も知らない。
家も知らない。
その人を待っていた家族の顔も知らない。
知らないから、呼べない。
呼べないから、その人はここにいる。
それは、灯真だけのことではなかった。
この道に並ぶすべての提灯のことだった。
火がない。
名前がない。
それでも、誰かはまだ待っている。
葵は胸の奥が詰まるのを感じた。
「おばあちゃん」
声は思ったより低くなった。
「灯真も、こうなるの?」
佐代は答えなかった。
答えない沈黙が、答えだった。
灯真は老人を見つめていた。
自分の未来を見ている目だった。
老人が、ゆっくりと顔を上げた。
その顔には、目も鼻も口もあった。
顔のない影とは違う。
けれど、表情だけが薄かった。
長く待ちすぎて、悲しいという形さえ忘れかけた顔だった。
「あなたは」
老人は葵に向かって、木札を差し出した。
「どなたを、迎えに来たのですか」
葵は父の提灯を抱えた。
蓮。
その名前が、喉の奥まで上がってきた。
けれど、口には出さなかった。
出したら、また何かが父の声で答える気がした。
佐代の手が、葵の肩に置かれた。
「戻るわよ」
「まだ何も分かってない」
「分からないから戻るの」
佐代の声が少しだけ強くなった。
「ここは、生きている子が長くいる場所じゃない」
「生きてる子?」
葵は振り返った。
「灯真は?」
佐代の顔が歪んだ。
その表情を見た瞬間、葵は自分がわざと痛い場所を押したのだと分かった。
けれど、もう止まれなかった。
「灯真はここにいていいの? 五十六年も、名前を呼ばれないままここにいていいの?」
「葵」
「おばあちゃんが呼ばなかったからでしょう」
灯真が息を呑んだ。
佐代は何も言わない。
葵の声は震えていた。
「灯真を消したのは、この道じゃない」
言ってから、自分でも怖くなった。
でも、言葉は止まらない。
「家族が、呼ばなかったからでしょう」
火の消えた提灯が、一斉に小さく揺れた。
かさり。
かさり。
まるで、道全体がその言葉を聞いてしまったみたいだった。
佐代は葵を見た。
怒っていなかった。
むしろ、怒る力をどこかに置き忘れてきた人の目だった。
「そうよ」
小さな声だった。
葵は言葉を失った。
佐代は狐の面を胸に抱いたまま、灯真を見た。
少年は動かない。
何も責めていない顔で、ただ佐代を見ている。
それが、佐代には一番残酷なのだと、葵には分かった。
「私が、灯真を失くした」
佐代は言った。
失くした。
殺した、ではなかった。
忘れた、でもなかった。
失くした。
子どもが大切なものを落として、どこを探しても見つからないときの言葉。
でも、佐代が失くしたのは物ではなかった。
弟だった。
「そして」
佐代の唇が震えた。
葵は、次の言葉を聞いてはいけない気がした。
それでも、耳を塞げなかった。
「蓮も、失くした」
父の名前が、火のない道に落ちた。
その瞬間、葵の中で何かが鳴った。
からん。
狐の面が石段に落ちた音と同じように。
「……どういう意味」
葵の声は、自分のものではないみたいだった。
「お父さんは、事故で死んだんじゃないの」
佐代は目を伏せた。
「事故よ」
その言い方には、答えを閉じ込めるための蓋があった。
「表には、そう書かれている」
「表には?」
葵は一歩詰め寄った。
「じゃあ、本当は?」
佐代は答えなかった。
代わりに、火の消えた道の奥から、遠い太鼓の音がした。
どん。
どん。
帰れ。
そう言われているみたいだった。
老人は、まだ木札を持って立っている。
その木札の滲んだ墨が、提灯のない闇の中でさらに薄くなっていく。
葵はふと、怖くなった。
ここにいれば、問いも、怒りも、父の名前さえ、少しずつ薄くなるのではないか。
灯真の手が、また透けていた。
「灯真」
葵が呼ぶと、少年は顔を上げた。
輪郭が少しだけ戻る。
佐代はその様子を見て、苦しそうに目を細めた。
「戻るわよ」
今度は、誰も反論しなかった。
佐代が先に歩き出す。
葵は灯真の隣を歩いた。
老人の前を通るとき、葵は立ち止まった。
名前は呼べない。
嘘の名前を与えることもできない。
でも、無視して通り過ぎることだけはしたくなかった。
葵は静かに頭を下げた。
老人は何も言わなかった。
ただ、手に持った木札を胸に戻した。
火の消えた提灯が、ひとつだけ、かすかに揺れた。
かさり。
それが返事のようだった。
神社の境内へ戻ったとき、町の灯りはまだ赤く揺れていた。
人の声がする。
屋台の匂いがする。
太鼓が鳴っている。
さっきまでいた道の冷たさが、嘘みたいだった。
けれど、葵の手は冷えたままだった。
佐代は何も言わずに狐の面を拾い、巾着に戻した。
その手つきは、壊れた骨を包むみたいに慎重だった。
灯真は鳥居の影に立っていた。
祭りの光の中には入ろうとしない。
人々の足音が、彼の身体をすり抜けていく。
誰も灯真を見ない。
誰も、夏目灯真という名前を知らない。
葵だけが、彼を見ている。
「おばあちゃん」
葵は言った。
「お父さんは、灯真を呼ぼうとしたの?」
佐代の肩が動いた。
ほんの少し。
でも、逃げられないほど確かな反応だった。
「答えて」
「今は、言えない……」
佐代の声は掠れていた。
「また黙るの」
葵の中で、怒りが戻ってきた。
怖さよりも、悲しさよりも早く。
「灯真のことも、お父さんのことも、また黙って終わらせるの」
佐代は振り向いた。
その顔は、葵が知っている厳しい祖母の顔ではなかった。
十六歳の夜から、一度も帰ってこられなかった人の顔だった。
「言えば、戻ると思うの?」
「少なくとも、何があったか分かる」
「分かったら、あなたは蓮を諦められるの?」
葵は答えられなかった。
父を諦める。
その言葉は、胸の奥に冷たい釘のように入ってきた。
佐代は小さく息を吐いた。
「知ることと、戻すことは違う」
太鼓の音が、二人の間を通り過ぎる。
「蓮は、それを間違えた」
葵の指が、鞄の中の父の提灯に触れた。
「お父さんが?」
佐代はそれ以上言わなかった。
美緒が坂道の下から駆け上がってくるのが見えた。
顔色は悪い。
葵を見つけると、ほっとしたように足を止め、すぐに佐代の方を見た。
「お義母さん……」
佐代は美緒を見ない。
美緒は何かを言いかけて、葵の顔を見て口を閉じた。
その沈黙の中に、また父の名前が隠れている。
葵には、もう分かった。
この家の大人たちは、知らないのではない。
知っていて、言わないのだ。
その夜、星野家に戻っても、誰も夕飯を食べなかった。
味噌汁は冷めたまま、台所の隅に置かれていた。
佐代は仏間の前に座り込んでいる。
美緒は居間の明かりをつけたり消したりして、結局つけたままにした。
葵は自分の部屋へ行かなかった。
足が、勝手に庭へ向いた。
物置の前に立つ。
修理された木の扉。
新しく打たれた釘。
でも、隅の方だけ、木の色が違っている。
焦げた跡を削って、上から塗り直したような色だった。
葵はゆっくりと扉を開けた。
中は暗い。
古い道具と埃の匂い。
その奥に、最初に父の提灯を見つけた木箱がある。
葵はスマートフォンのライトを点け、木箱の中をもう一度探した。
提灯を入れていた布。
古いマッチ箱。
竹ひごの切れ端。
底板に指が触れたとき、わずかに浮く感触があった。
葵は息を止めた。
爪をかける。
底板が、薄く外れた。
その下に、茶色い封筒が入っていた。
封筒には、何も書かれていない。
ただ、角が少し焦げていた。
葵の手が震えた。
中には、新聞の切り抜きが一枚入っていた。
古い紙。
十年前の日付。
見出しは、小さかった。
町内の物置で火災。
星野蓮さん、死亡。
葵は文字を追った。
星野家の敷地内にある物置から出火し、同家に住む星野蓮さん、三十五歳が死亡した。蓮さんは煙を吸い込み、逃げ遅れたとみられる。出火原因は分かっていない。
煙を吸い込み。
逃げ遅れた。
葵はその言葉を見つめた。
紙の上では、父の死はとても短かった。
たった数行。
十年前の夜が、数行で終わっている。
葵は続きを読んだ。
家族によると、蓮さんは火災の直前、ひとりで物置に入ったとみられる。現場からは、焼け残った紙提灯の一部が見つかった。
紙提灯。
葵は、手の中の切り抜きを握りしめた。
足元の床板が、ぎし、と鳴る。
ここだ。
この物置だ。
父は、ここで死んだ。
十年前の夜、葵が何も知らずに眠っていた家のすぐそばで。
ここで煙を吸い、火の中にいた。
そして、誰も本当のことを話さなかった。
葵の視界が滲んだ。
泣きたいのか、怒りたいのか分からなかった。
そのとき、封筒の底からもう一枚、小さな紙片が落ちた。
新聞ではなかった。
焦げた便箋の端。
文字は半分ほど焼けている。
それでも、一行だけ読めた。
母さんが呼べないなら、俺が――
葵は息を止めた。
その先は、黒く焼け落ちていた。
母さん。
佐代のことだ。
俺が。
父の字だった。
葵は焦げた紙片を、両手で持った。
紙の端が、指の熱で崩れてしまいそうだった。
物置の外で、太鼓が止まった。
どん。
最後の一音が、庭の闇に沈む。
その直後、父の提灯の紙が、小さく鳴った。
かさり。
葵は振り返った。
物置の入口に、灯真が立っていた。
その顔は、今にも泣きそうだった。
「葵さん」
少年は、焦げた紙片を見ていた。
「その灯り」
声が震える。
「僕を、呼ぼうとしていた気がします」




