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忘れ盆  作者: 清忠


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10/11

二人を失くした

今日は、誰かが私の名を呼びましたか。


 その声は、火の消えた提灯の下から聞こえた。


 低く、乾いていて、それでもどこかで長い間待ち続けていた人の声だった。


 葵は息を止めた。


 神社の裏へ続く細い道は、さっきまで確かにそこにあった石畳の道ではなくなっていた。木の根も、低い柵も、夕方の草の匂いも、今は薄い闇の向こうへ押しやられている。


 代わりに、火のない提灯が並んでいた。


 赤い紙。


 白い紙。


 薄く破れた橙色の紙。


 どの提灯も、誰かを迎える形だけを残して、肝心の火を失っている。


 その一つの下に、老人が立っていた。


 背は低く、腰は少し曲がっている。古い紺色の着物を着て、片手に木札を持っていた。木札には、かつて文字が書かれていたらしい墨の跡だけが残っている。


 雨に流されたのか。


 時間に削られたのか。


 名前だったはずの場所は、黒い滲みになっていた。


「今日は」


 老人はもう一度言った。


「誰かが、私の名を呼びましたか」


 葵の喉が動いた。


 答えなければいけない気がした。


 無視してはいけない。


 そう思った。


 けれど、名前が分からない。


 呼びたくても、呼べない。


 その事実が、思っていたよりもずっと苦しかった。


「葵さん」


 灯真が、小さく言った。


 彼の声にも震えがあった。


「この人、ずっとここにいます」


「知ってるの?」


「知っている気がします。でも……」


 灯真は老人の木札を見た。


「名前が、見えません」


 佐代が一歩前に出た。


 狐の面を胸に抱いたまま、老人と葵の間に立つ。


「答えてはいけない」


 その声は、命令というより、昔から同じ悪夢を見続けてきた人の声だった。


 葵は佐代を見る。


「でも、この人は名前を聞いてるだけだよ」


「知らない名を、火の前で呼んではいけない」


「またそれ?」


「名前だけでは足りないと言ったでしょう」


 佐代の指が、狐の面の縁を強く握った。


「思い出のない名前を火に乗せれば、空いたところに別のものが入る」


 父の提灯が、鞄の中で小さく鳴った。


 かさり。


 その音に、葵の背中が冷たくなる。


 玄関の磨りガラスの向こうに立っていた、顔のない影。


 父の声で、葵の名前を求めてきたもの。


 あれも、空いたところに入り込んだものなのだろうか。


 葵は老人を見た。


 老人は佐代の言葉に反応しなかった。


 ただ、同じ場所に立ち、読めなくなった木札を胸に当てている。


「呼ばれないと」


 老人は言った。


「帰り道が、分からないのです」


 灯真の肩が、小さく震えた。


 葵は彼の横顔を見る。


 十二歳の少年の顔。


 けれど、その横顔の奥には、五十六年分の夜が薄く重なっている。


「私の家は、どこでしたか」


 老人は葵たちを見ていなかった。


 誰でもない誰かへ、同じ質問を繰り返しているようだった。


「私の家では、まだ味噌汁の匂いがしますか」


 葵は答えられなかった。


 老人の名前も知らない。


 家も知らない。


 その人を待っていた家族の顔も知らない。


 知らないから、呼べない。


 呼べないから、その人はここにいる。


 それは、灯真だけのことではなかった。


 この道に並ぶすべての提灯のことだった。


 火がない。


 名前がない。


 それでも、誰かはまだ待っている。


 葵は胸の奥が詰まるのを感じた。


「おばあちゃん」


 声は思ったより低くなった。


「灯真も、こうなるの?」


 佐代は答えなかった。


 答えない沈黙が、答えだった。


 灯真は老人を見つめていた。


 自分の未来を見ている目だった。


 老人が、ゆっくりと顔を上げた。


 その顔には、目も鼻も口もあった。


 顔のない影とは違う。


 けれど、表情だけが薄かった。


 長く待ちすぎて、悲しいという形さえ忘れかけた顔だった。


「あなたは」


 老人は葵に向かって、木札を差し出した。


「どなたを、迎えに来たのですか」


 葵は父の提灯を抱えた。


 蓮。


 その名前が、喉の奥まで上がってきた。


 けれど、口には出さなかった。


 出したら、また何かが父の声で答える気がした。


 佐代の手が、葵の肩に置かれた。


「戻るわよ」


「まだ何も分かってない」


「分からないから戻るの」


 佐代の声が少しだけ強くなった。


「ここは、生きている子が長くいる場所じゃない」


「生きてる子?」


 葵は振り返った。


「灯真は?」


 佐代の顔が歪んだ。


 その表情を見た瞬間、葵は自分がわざと痛い場所を押したのだと分かった。


 けれど、もう止まれなかった。


「灯真はここにいていいの? 五十六年も、名前を呼ばれないままここにいていいの?」


「葵」


「おばあちゃんが呼ばなかったからでしょう」


 灯真が息を呑んだ。


 佐代は何も言わない。


 葵の声は震えていた。


「灯真を消したのは、この道じゃない」


 言ってから、自分でも怖くなった。


 でも、言葉は止まらない。


「家族が、呼ばなかったからでしょう」


 火の消えた提灯が、一斉に小さく揺れた。


 かさり。


 かさり。


 まるで、道全体がその言葉を聞いてしまったみたいだった。


 佐代は葵を見た。


 怒っていなかった。


 むしろ、怒る力をどこかに置き忘れてきた人の目だった。


「そうよ」


 小さな声だった。


 葵は言葉を失った。


 佐代は狐の面を胸に抱いたまま、灯真を見た。


 少年は動かない。


 何も責めていない顔で、ただ佐代を見ている。


 それが、佐代には一番残酷なのだと、葵には分かった。


「私が、灯真を失くした」


 佐代は言った。


 失くした。


 殺した、ではなかった。


 忘れた、でもなかった。


 失くした。


 子どもが大切なものを落として、どこを探しても見つからないときの言葉。


 でも、佐代が失くしたのは物ではなかった。


 弟だった。


「そして」


 佐代の唇が震えた。


 葵は、次の言葉を聞いてはいけない気がした。


 それでも、耳を塞げなかった。


「蓮も、失くした」


 父の名前が、火のない道に落ちた。


 その瞬間、葵の中で何かが鳴った。


 からん。


 狐の面が石段に落ちた音と同じように。


「……どういう意味」


 葵の声は、自分のものではないみたいだった。


「お父さんは、事故で死んだんじゃないの」


 佐代は目を伏せた。


「事故よ」


 その言い方には、答えを閉じ込めるための蓋があった。


「表には、そう書かれている」


「表には?」


 葵は一歩詰め寄った。


「じゃあ、本当は?」


 佐代は答えなかった。


 代わりに、火の消えた道の奥から、遠い太鼓の音がした。


 どん。


 どん。


 帰れ。


 そう言われているみたいだった。


 老人は、まだ木札を持って立っている。


 その木札の滲んだ墨が、提灯のない闇の中でさらに薄くなっていく。


 葵はふと、怖くなった。


 ここにいれば、問いも、怒りも、父の名前さえ、少しずつ薄くなるのではないか。


 灯真の手が、また透けていた。


「灯真」


 葵が呼ぶと、少年は顔を上げた。


 輪郭が少しだけ戻る。


 佐代はその様子を見て、苦しそうに目を細めた。


「戻るわよ」


 今度は、誰も反論しなかった。


 佐代が先に歩き出す。


 葵は灯真の隣を歩いた。


 老人の前を通るとき、葵は立ち止まった。


 名前は呼べない。


 嘘の名前を与えることもできない。


 でも、無視して通り過ぎることだけはしたくなかった。


 葵は静かに頭を下げた。


 老人は何も言わなかった。


 ただ、手に持った木札を胸に戻した。


 火の消えた提灯が、ひとつだけ、かすかに揺れた。


 かさり。


 それが返事のようだった。


 神社の境内へ戻ったとき、町の灯りはまだ赤く揺れていた。


 人の声がする。


 屋台の匂いがする。


 太鼓が鳴っている。


 さっきまでいた道の冷たさが、嘘みたいだった。


 けれど、葵の手は冷えたままだった。


 佐代は何も言わずに狐の面を拾い、巾着に戻した。


 その手つきは、壊れた骨を包むみたいに慎重だった。


 灯真は鳥居の影に立っていた。


 祭りの光の中には入ろうとしない。


 人々の足音が、彼の身体をすり抜けていく。


 誰も灯真を見ない。


 誰も、夏目灯真という名前を知らない。


 葵だけが、彼を見ている。


「おばあちゃん」


 葵は言った。


「お父さんは、灯真を呼ぼうとしたの?」


 佐代の肩が動いた。


 ほんの少し。


 でも、逃げられないほど確かな反応だった。


「答えて」


「今は、言えない……」


 佐代の声は掠れていた。


「また黙るの」


 葵の中で、怒りが戻ってきた。


 怖さよりも、悲しさよりも早く。


「灯真のことも、お父さんのことも、また黙って終わらせるの」


 佐代は振り向いた。


 その顔は、葵が知っている厳しい祖母の顔ではなかった。


 十六歳の夜から、一度も帰ってこられなかった人の顔だった。


「言えば、戻ると思うの?」


「少なくとも、何があったか分かる」


「分かったら、あなたは蓮を諦められるの?」


 葵は答えられなかった。


 父を諦める。


 その言葉は、胸の奥に冷たい釘のように入ってきた。


 佐代は小さく息を吐いた。


「知ることと、戻すことは違う」


 太鼓の音が、二人の間を通り過ぎる。


「蓮は、それを間違えた」


 葵の指が、鞄の中の父の提灯に触れた。


「お父さんが?」


 佐代はそれ以上言わなかった。


 美緒が坂道の下から駆け上がってくるのが見えた。


 顔色は悪い。


 葵を見つけると、ほっとしたように足を止め、すぐに佐代の方を見た。


「お義母さん……」


 佐代は美緒を見ない。


 美緒は何かを言いかけて、葵の顔を見て口を閉じた。


 その沈黙の中に、また父の名前が隠れている。


 葵には、もう分かった。


 この家の大人たちは、知らないのではない。


 知っていて、言わないのだ。


 その夜、星野家に戻っても、誰も夕飯を食べなかった。


 味噌汁は冷めたまま、台所の隅に置かれていた。


 佐代は仏間の前に座り込んでいる。


 美緒は居間の明かりをつけたり消したりして、結局つけたままにした。


 葵は自分の部屋へ行かなかった。


 足が、勝手に庭へ向いた。


 物置の前に立つ。


 修理された木の扉。


 新しく打たれた釘。


 でも、隅の方だけ、木の色が違っている。


 焦げた跡を削って、上から塗り直したような色だった。


 葵はゆっくりと扉を開けた。


 中は暗い。


 古い道具と埃の匂い。


 その奥に、最初に父の提灯を見つけた木箱がある。


 葵はスマートフォンのライトを点け、木箱の中をもう一度探した。


 提灯を入れていた布。


 古いマッチ箱。


 竹ひごの切れ端。


 底板に指が触れたとき、わずかに浮く感触があった。


 葵は息を止めた。


 爪をかける。


 底板が、薄く外れた。


 その下に、茶色い封筒が入っていた。


 封筒には、何も書かれていない。


 ただ、角が少し焦げていた。


 葵の手が震えた。


 中には、新聞の切り抜きが一枚入っていた。


 古い紙。


 十年前の日付。


 見出しは、小さかった。


 町内の物置で火災。


 星野蓮さん、死亡。


 葵は文字を追った。


 星野家の敷地内にある物置から出火し、同家に住む星野蓮さん、三十五歳が死亡した。蓮さんは煙を吸い込み、逃げ遅れたとみられる。出火原因は分かっていない。


 煙を吸い込み。


 逃げ遅れた。


 葵はその言葉を見つめた。


 紙の上では、父の死はとても短かった。


 たった数行。


 十年前の夜が、数行で終わっている。


 葵は続きを読んだ。


 家族によると、蓮さんは火災の直前、ひとりで物置に入ったとみられる。現場からは、焼け残った紙提灯の一部が見つかった。


 紙提灯。


 葵は、手の中の切り抜きを握りしめた。


 足元の床板が、ぎし、と鳴る。


 ここだ。


 この物置だ。


 父は、ここで死んだ。


 十年前の夜、葵が何も知らずに眠っていた家のすぐそばで。


 ここで煙を吸い、火の中にいた。


 そして、誰も本当のことを話さなかった。


 葵の視界が滲んだ。


 泣きたいのか、怒りたいのか分からなかった。


 そのとき、封筒の底からもう一枚、小さな紙片が落ちた。


 新聞ではなかった。


 焦げた便箋の端。


 文字は半分ほど焼けている。


 それでも、一行だけ読めた。


 母さんが呼べないなら、俺が――


 葵は息を止めた。


 その先は、黒く焼け落ちていた。


 母さん。


 佐代のことだ。


 俺が。


 父の字だった。


 葵は焦げた紙片を、両手で持った。


 紙の端が、指の熱で崩れてしまいそうだった。


 物置の外で、太鼓が止まった。


 どん。


 最後の一音が、庭の闇に沈む。


 その直後、父の提灯の紙が、小さく鳴った。


 かさり。


 葵は振り返った。


 物置の入口に、灯真が立っていた。


 その顔は、今にも泣きそうだった。


「葵さん」


 少年は、焦げた紙片を見ていた。


「その灯り」


 声が震える。


「僕を、呼ぼうとしていた気がします」


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