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忘れ盆  作者: 清忠


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11/11

母さんが呼べないなら

 灯真の声は、物置の闇の中で細く震えていた。


「その灯り……僕を、呼ぼうとしていた気がします」


 葵は、焦げた紙片を両手で持ったまま動けなかった。


 物置の外では、太鼓が止まっている。

 庭の虫の声も遠い。

 灯真だけが、入口の影の中に立っていた。


 古い浴衣。

 片方だけの下駄。

 足元に落ちない影。


 けれど、その目だけは、泣きそうな子どものものだった。


「呼ぼうとしていたって……誰が」


 葵は、答えを知っているのに聞いた。


 灯真は、葵の手の中の紙片を見つめる。


「蓮さん、だと思います」


 父の名前が、物置の冷えた空気に落ちた。


 葵の胸の奥が、きゅっと縮む。


 焦げた便箋には、一行だけが残っている。


 母さんが呼べないなら、俺が――


 その先は、黒く焼け落ちていた。


 俺が。


 何を。

 誰を。


 葵は紙片を握りしめそうになって、慌てて力を抜いた。端が崩れかけ、黒い煤が指先につく。


「灯真を、呼ぼうとしてたの」


 自分の声が、思ったより低かった。


 灯真は答えなかった。

 答えられないのだと分かった。


 少年はただ、自分の胸元を掴んでいる。

 そこに名前を縫い止めようとするみたいに。


「葵」


 背後から、母の声がした。


 葵は振り返った。


 美緒が、物置の入口の少し手前に立っていた。薄いカーディガンを羽織っただけの姿で、裸足にサンダルを突っかけている。髪は乱れていて、顔色は悪かった。


 きっと、葵がいなくなったことに気づいて追ってきたのだ。


 美緒の視線は、葵の手の中の紙片に落ちていた。


 そして、その目が一瞬で変わった。


 十年前の夜を見た人の目だった。


「それ……まだ、残っていたのね」


 葵の喉が詰まった。


「知ってたの」


 美緒はすぐには答えなかった。


 物置の中に、古い木と埃の匂いが満ちている。

 その下に、かすかな焦げ臭さがまだ残っているような気がした。


 十年も経っているのに。


 この場所だけ、あの夜を手放していない。


「ここで」


 葵は言った。


「お父さん、死んだんだよね」


 美緒の肩が小さく揺れた。


 それだけで十分だった。


 葵は新聞の切り抜きを広げる。


 町内の物置で火災。

 星野蓮さん、死亡。

 煙を吸い込み、逃げ遅れたとみられる。


 文字は、冷たかった。

 人の死を説明するには、あまりにも短かった。


「逃げ遅れたって、書いてある」


 葵は美緒を見た。


「本当に?」


 美緒は、唇を噛んだ。


 その沈黙は、今までと同じだった。

 でも、葵にはもう分かっていた。


 知らないから黙っているのではない。


 知っているから、黙っている。


「お願い」


 葵の声は、自分でも驚くほど静かだった。


「もう、黙らないで」


 美緒は目を伏せた。


 物置の入口で、灯真が少し後ろへ下がる。自分が聞いてはいけない話なのだと思ったのかもしれない。


 けれど美緒は、灯真から目を逸らさなかった。


「蓮はね」


 声が震えていた。


「ずっと、お義母さんを助けたがっていたの」


 葵は息を止めた。


 助ける。


 佐代を。


「おばあちゃんを?」


 美緒は頷いた。


「蓮は、子どもの頃から気づいていたの。お義母さんが、お盆になると眠れなくなること。太鼓が止まると、窓を全部閉めること。火を見ると、手が震えること」


 葵の頭に、佐代の手が浮かんだ。


 提灯を見たとき。

 マッチを見たとき。

 灯真の名前を聞いたとき。


 いつも、佐代の手は震えていた。


「でも、お義母さんは何も言わなかった。灯真くんのことも、昔の家のことも、何も」


「だから、お父さんが調べたの?」


「うん」


 美緒は物置の中へ一歩入った。


 床板が、ぎし、と鳴る。


「古い新聞を探して、町役場の記録を見て、昔の写真を何度も見返していた。最初は、ただの行方不明事件だと思っていたみたい。でも、蓮は写真の中に灯真くんを見つけた」


 灯真の身体が、小さく震えた。


「僕を……」


 美緒は、申し訳なさそうに灯真を見た。


「そう。あなたを」


 灯真は何も言わなかった。

 自分が誰かの写真の端に残っていたことを、まだどう受け止めればいいのか分からない顔だった。


 葵は焦げた紙片を見た。


「それで、お父さんは灯真を呼ぼうとした」


「お義母さんに、言ってほしかったの」


 美緒の声が、少しだけ低くなった。


「夏目灯真の名前を。自分の口で。ちゃんと」


 夏目灯真。


 その名前が、物置の中で静かに響いた。


 灯真の輪郭が、ほんの少し濃くなる。


 名前は、ただの音ではない。


 この場所に来てから、葵は何度もそれを見ていた。


「でも、おばあちゃんは呼ばなかった」


 美緒は頷いた。


「呼べなかった」


 その違いは小さく見えて、たぶん大きかった。


 葵は口を閉じる。


 佐代が灯真を忘れていたわけではない。

 忘れられるはずがない。


 だからこそ、呼べなかったのかもしれない。


 呼んでしまえば、あの夜の自分の手も一緒に戻ってくるから。


「蓮は言ったの」


 美緒は、焦げた紙片へ視線を落とした。


「母さんが呼べないなら、俺が呼ぶ。母さんが生きているうちに、帰り道を作ってやりたいって」


 葵の指先に、煤がついたままだった。


 俺が呼ぶ。


 焼け落ちた先にあった言葉が、今、母の声で埋まった。


 胸が痛かった。


 父らしいと思った。


 優しくて。

 勝手で。

 ひとりで全部背負おうとして。


 そして、帰ってこなかった。


「名前は」


 美緒は言った。


「蓮は、間違えなかった」


 葵は顔を上げた。


「え?」


「夏目灯真。蓮は、ちゃんとその名前を調べていた。呼ぼうとした名前は、間違っていなかった」


 灯真が、胸元を押さえた。


「じゃあ、どうして……」


 少年の声は、かすれていた。


「どうして、僕は帰れなかったんですか」


 美緒は答えられなかった。


 代わりに、物置の外から低い声がした。


「名前だけでは、足りないのよ」


 佐代が、庭に立っていた。


 いつからそこにいたのか分からなかった。


 月明かりも、家の明かりも届ききらない場所で、祖母は細い影のように立っている。手には、あの狐の面があった。


 葵は身構えた。


 けれど佐代は怒鳴らなかった。


 疲れきった顔で、物置の中を見ていた。


「名前だけでは、道にならない」


 佐代の声は掠れていた。


「その人を覚えている記憶がいる。どこで笑ったか。誰の手を握っていたか。最後に何を言えなかったか」


 灯真は佐代を見つめた。


 佐代は、その視線を受け止めきれずに、狐の面へ目を落とした。


「そして」


 長い沈黙のあとで、言う。


「謝らなければいけない人間が、謝らなかった」


 物置の中の空気が、重く沈んだ。


 葵は、何も言えなかった。


 佐代は自分のことを言っている。


 誰よりもはっきりと。


 灯真は唇を開きかけて、閉じた。


 怒ることも、泣くこともできない顔だった。


 十二歳の少年には、あまりにも長すぎる沈黙だった。


「だから」


 美緒が震える声で続けた。


「あの火は、完全な迎え火にならなかった」


 葵は母を見る。


「完全じゃない火?」


「蓮の思いは本物だった。灯真くんの名前も、本物だった。でも、そこにはお義母さんの記憶がなかった。お義母さんの口から出るはずだった言葉が、なかった」


 美緒は物置の奥を見た。


 十年前の火が、今もそこに残っているみたいに。


「あいた場所が、できたの」


 葵の背中が冷えた。


「あいた場所……」


「そこに、別のものが入った」


 その言葉と同時に、父の提灯の紙が鳴った。


 かさり。


 小さな音だった。

 けれど、物置の中ではひどく大きく聞こえた。


 灯真が、顔を上げる。


「別のもの」


 佐代の指が、狐の面を強く握った。


 美緒の顔から、血の気が引いていく。


 葵は、玄関の磨りガラスの向こうに立っていた白い影を思い出した。


 父の声で葵を呼んだもの。

 名前を求めてきたもの。

 顔のなかったもの。


「それが」


 葵の声は、ほとんど息だった。


「あの影?」


 誰も否定しなかった。


 庭の外で、遠くの太鼓がまた鳴り始めた。


 どん。


 どん。


 その音は祭りの音なのに、今の葵には扉を叩く音に聞こえた。


 佐代は物置の入口まで来た。


 中へは入らない。


 この場所に足を踏み入れることだけは、どうしてもできないようだった。


「蓮は、逃げ遅れたんじゃない」


 美緒が言った。


 葵の心臓が、大きく跳ねた。


 新聞の文字が、頭の中でばらばらになる。


 煙を吸い込み、逃げ遅れたとみられる。


「じゃあ」


 葵は声を絞り出した。


「どうして」


 美緒は目を閉じた。


 そのまぶたの裏に、十年前の火が燃えているのだと分かった。


「あの日、物置の中で火が出た。私が気づいたときには、もう煙が出ていて……私は、扉を開けようとした」


 美緒の手が震えている。


「中から、蓮の声がしたの」


 葵は息を止めた。


「何て」


 美緒は唇を噛む。


 それでも、今度は飲み込まなかった。


「開けるな、って」


 物置の木の扉が、夜の中で黒く浮かんでいる。


 葵はその扉を見た。


 修理された木。

 新しく打たれた釘。

 それでも隅に残る、塗り直された焦げ跡。


 父は、この向こうでそう叫んだのだ。


「開けたら、出るって」


 美緒の声が崩れた。


「俺じゃないものまで、出てくるって」


 葵の足元から、力が抜けそうになった。


 灯真が小さく震える。


 佐代は狐の面を胸に抱きしめたまま、唇を噛んでいる。


「それで、お父さんは……」


 葵の声は途中で切れた。


 言葉にしたくなかった。


 でも、もう分かっていた。


 父は逃げ遅れたのではない。


 逃げなかったのだ。


 扉を開ければ、助かったかもしれない。

 けれど、開ければ何かも一緒に出てくる。


 だから父は、中に残った。


 葵が七歳だった夜。

 自分のすぐ近くで。


「どうして」


 葵の目から、熱いものがこぼれた。


「どうして、そんなこと……」


 美緒は葵に近づこうとして、途中で止まった。


 抱きしめていいのか分からない人のようだった。


「蓮は、あなたを守ろうとしたの」


 葵は首を振った。


 守る。


 その言葉は、優しいはずなのに、今はひどく痛かった。


「そんなの、知らない」


 声が震えた。


「そんな守り方、知らない」


 誰も答えなかった。


 父の提灯が、葵の足元で細く揺れている。

 火はついていないのに、紙だけが呼吸するように鳴った。


 かさり。


 かさり。


 その音に混じって、葵は何かを聞いた気がした。


 とても遠い声。

 煙の奥から届くような声。


 開けるな。


 それは父の声だった。


 けれど、そのすぐあとに、別の声が続いた。


 同じ高さ。

 同じ柔らかさ。

 父とまったく同じ声。


 でも、笑う前の息遣いだけがなかった。


 美緒が、震える唇で言った。


「蓮がそう叫んだあとね」


 葵は顔を上げる。


「同じ声で、聞こえたの」


 庭の太鼓が、また止まった。


 どん。


 最後の一音が、物置の扉に沈む。


 美緒は、十年分の恐怖を吐き出すように言った。


「美緒、開けて、って」


 葵の背筋を、冷たいものが這った。


 美緒は泣いていなかった。

 泣けないほど、顔が白かった。


「でも、その声には」


 父の提灯の紙が、音もなく内側へ凹んだ。


 まるで、見えない指で押されたみたいに。


 美緒は続けた。


「顔が、なかったの」


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