五十六年前の少年
葵。
父の声が、玄関の外からもう一度呼んだ。
磨りガラスに映る影は、人の形をしている。
背の高さも、肩の丸みも、記憶の中の父に似ていた。
けれど、顔だけがなかった。
白い。
何もない。
そこに目があるはずの場所も、口があるはずの場所も、濡れた紙を貼ったみたいに平らだった。
「お前の名前を、もう一度聞かせて」
葵の喉が動いた。
言ってはいけない。
頭では分かっていた。
あれは父ではない。
父なら、開けろとは言わない。
父なら、名前を渡せとは言わない。
それでも、声だけは父だった。
七歳の夏に聞いた声。
縁側で麦茶を飲みながら、葵の髪を撫でた声。
迷ったら灯りを見るんだと笑った声。
その声が、外にいる。
葵は一歩、玄関の方へ動いた。
その瞬間、佐代の手が葵の腕を掴んだ。
痛いほど強かった。
「答えてはいけない」
佐代の声は、低く掠れていた。
怒っている声ではなかった。
恐れている声だった。
「名前は、渡してはいけない」
葵は祖母を見た。
佐代の指は震えている。
けれど、その手だけは離れなかった。
玄関の外で、影が首を傾けた。
「佐代さん」
父の声が、祖母の名を呼んだ。
佐代の身体が小さく跳ねた。
美緒が息を飲む。
灯真は、葵の前に立ったまま動かない。
影は続けた。
「まだ、隠すの?」
その言葉に、佐代の顔色が変わった。
葵は見逃さなかった。
あの影は、何かを知っている。
それとも、知っているふりをしている。
どちらにしても、佐代の中の一番痛い場所を、正確に指で押していた。
「おばあちゃん」
葵が呼ぶと、佐代は答えなかった。
ただ、玄関を睨んでいた。
灯真の右手が、また薄くなっていく。
磨りガラス越しの影が、今度は灯真の方へ顔のない顔を向けた。
「君の名前は?」
灯真の唇が震えた。
「僕は……」
葵は息を止めた。
灯真は自分の胸元を握りしめる。
「僕は、灯真……」
それ以上、言葉が出なかった。
右手だけではない。
肩の輪郭まで、薄く揺れた。
葵は思わず叫んだ。
「灯真!」
名前を呼ぶ。
少年の身体が、ほんの少しだけ濃くなる。
影は笑った。
声はしない。
けれど、磨りガラスの白い空白が、裂けるように歪んだ。
「それだけ?」
灯真はうつむいた。
名前を呼ばれても、全部は戻らない。
名字がない。
家がない。
誰に呼ばれていたのかも分からない。
葵は、初めてそのことをはっきりと怖いと思った。
名前が欠けるというのは、身体が消えることだけではない。
自分が誰のもとへ帰ればいいのか、分からなくなることなのだ。
こつ。
影がまた玄関を叩いた。
「開けて」
父の声だった。
葵は唇を噛んだ。
「嫌」
声は震えていた。
でも、口に出した。
「あなたは、お父さんじゃない」
玄関の外が、静かになった。
次の瞬間、父の提灯の火が大きく揺れた。
白い炎が一瞬だけ細く伸び、廊下の床に長い影を落とす。
その影は、玄関の磨りガラスまで届き、外にいるものの足元を照らした。
影が、後ろへ一歩下がった。
灯りに触れたくないみたいに。
佐代が葵の腕を掴んだまま、かすかに言った。
「……夜が終わるまで、誰も戸を開けてはいけない」
「夜が終わるまで?」
葵が聞き返す前に、遠くで太鼓の音が鳴った。
どん。
それは祭りの音ではなかった。
夜の底から、帰り道だけを叩き起こすような音だった。
磨りガラスの向こうで、影の輪郭がほどけていく。
頭。
肩。
腕。
父に似ていた形が、紙の上の墨のように滲んでいく。
最後に、父の声だけが残った。
「また来るよ、葵」
その声も、すぐに消えた。
玄関の外には、誰もいなかった。
葵はその場に立ち尽くした。
提灯の火は、まだ震えている。
佐代の手は、まだ葵の腕を掴んでいる。
美緒は口元を押さえたまま、音を立てずに泣いていた。
灯真だけが、玄関を見つめていた。
「僕の名前……」
小さな声だった。
「灯真の、あと」
葵は彼を見た。
少年は困ったように笑った。
「何だったんでしょう」
誰も答えなかった。
佐代の指が、葵の腕からゆっくり離れた。
そのあとに残った赤い跡を見て、葵はなぜか、祖母の方が傷ついたような顔をしていることに気づいた。
夜は長かった。
誰も眠らなかった。
佐代は玄関の前に座り、朝まで動かなかった。
美緒は仏間の襖を閉めたまま、何度も同じ場所を拭いていた。
葵は父の提灯を抱え、廊下の隅に座っていた。
灯真は、夜明けが近づくと薄くなった。
「消えるの?」
葵が聞くと、灯真は首を横に振った。
「たぶん、戻されるんだと思います」
「どこに」
「分かりません」
彼は少し考えてから、言った。
「でも、火があると、また来られる気がします」
葵は提灯を抱きしめた。
「調べる」
灯真が顔を上げる。
「何をですか」
「灯真の名前」
少年の目が、揺れた。
うれしいのか、怖いのか分からない顔だった。
「名字を見つける」
葵は言った。
「そうしたら、もうあいつに聞かれなくて済むかもしれない」
灯真は何かを言おうとした。
けれど、その前に朝の光が廊下に差し込んだ。
薄い金色の線が、少年の足元を通り過ぎる。
灯真の姿は、そこでふっと消えた。
ただ、空気だけが少し冷たく残った。
朝になっても、星野家は明るくならなかった。
台所には味噌汁の匂いがした。
テレビはついていない。
誰も「おはよう」と言わない。
葵が居間に入ると、佐代は仏間の前に座っていた。
背中はまっすぐだった。
けれど、昨夜よりも小さく見えた。
「おばあちゃん」
佐代は振り向かない。
「灯真って、誰」
返事はなかった。
「昨日、あの影がおばあちゃんの名前を呼んだ」
佐代の肩が、ほんの少しだけ動いた。
「佐代さんって」
「忘れなさい」
佐代は低く言った。
葵は拳を握った。
「忘れたら、灯真が消える」
「消えた方がいいものもある」
その言葉は、廊下に冷たく落ちた。
葵は息を呑んだ。
怒りより先に、悲しさが来た。
消えた方がいい。
十二歳くらいの少年に向けて、祖母はそう言った。
でも、その声は残酷ではなかった。
むしろ、自分に向けているみたいだった。
「灯真は、何か悪いことをしたの」
佐代は答えない。
「お父さんは、灯真を知ってたの」
答えない。
「五十六年前に、何があったの」
佐代の手が膝の上で震えた。
それだけで、葵はもう聞いてはいけない場所に触れたのだと分かった。
けれど、引くつもりはなかった。
美緒が台所から出てきた。
「葵」
止める声だった。
葵は母を見た。
「お母さんは、知ってるの?」
美緒は唇を結んだ。
目が赤い。
昨夜、ほとんど眠っていないのだろう。
「全部は、知らない」
「じゃあ、知ってることは?」
美緒は答えようとして、佐代を見た。
佐代は動かない。
その沈黙だけで、葵は十分だった。
「分かった」
葵は父の提灯を布で包み、鞄に入れた。
佐代が振り向く。
「どこへ行くの」
「図書館」
「葵」
佐代の声が鋭くなる。
「調べてはいけない」
「じゃあ、話して」
佐代は口を閉ざした。
葵は靴を履いた。
美緒が一歩、玄関へ出てくる。
佐代の手が伸びた。
けれど、美緒がその腕を掴んだ。
「お義母さん……」
佐代は歯を食いしばったまま、動けなかった。
葵はその横顔を見た。
行かせたくない。
でも、追いかけられない。
祖母の中で、何かが過去に縫い止められている。
葵は扉を開けた。
外の光が眩しかった。
町は、何事もなかったように朝を迎えていた。
祭りの提灯はまだ軒先に残っている。
屋台の骨組みは通りの端に寄せられ、夜の熱だけがアスファルトに残っていた。
昨夜、顔のない影が玄関の外に立っていたことを、誰も知らない。
星野家だけが、まだ夜の中にいる。
町立図書館は、神社から少し下った場所にあった。
古い建物だった。
入口のガラス戸には、夏休みの読書感想文コンクールの紙が貼られている。冷房の効いた中へ入ると、外の蝉の声が急に遠くなった。
葵は郷土資料室へ向かった。
普段は誰も入らないような、小さな部屋だった。
棚には町史、古い祭りの写真集、閉校した小学校の記念誌、新聞の縮刷版が並んでいる。
葵は受付の年配の女性に聞いた。
「五十六年前の、お盆の時期の新聞を見たいんです」
女性は少し驚いた顔をしたが、何も聞かずに奥の棚を指した。
「この町のことなら、あそこにありますよ。古いものは破れやすいから、気をつけてね」
葵は礼を言って、棚の前に立った。
五十六年前。
佐代がまだ、佐代という名前だけで生きていた頃。
Renが生まれるより前。
Aoiという名前が、この家に存在するずっと前。
その頃の夏を、葵は知らない。
けれど灯真は、そこから来た。
新聞の紙は黄ばんでいた。
ページをめくるたび、乾いた音がする。
かさり。
提灯の紙が鳴る音に似ていた。
葵は八月の記事を順に追った。
祭りの案内。
盆踊り大会。
川遊びの注意。
地元商店街の広告。
どれも、今とあまり変わらない町の顔をしている。
でも、その下に、小さな記事があった。
葵の指が止まる。
見出しは短かった。
盆踊りの夜、男児行方不明。
心臓が、一度だけ強く鳴った。
葵は顔を近づけた。
文字は少し潰れている。
けれど、読めた。
町内に住む夏目灯真くん、十二歳。
葵の視界が、そこで揺れた。
夏目。
灯真。
十二歳。
記事の中では、灯真は「少年」でも「霊」でもなかった。
ちゃんと名字があった。
年齢があった。
住んでいた場所があった。
存在していた。
葵は息を止めたまま、続きを読んだ。
昨夜、神社で行われた盆踊りのあと、家族とともに来ていた夏目灯真くんが行方不明になった。灯真くんは紺色の浴衣を着ており、最後に見たのは午後八時半ごろ、神社裏手の参道付近だったという。
神社裏手。
葵の指先が冷たくなる。
地図にない道が開いた場所。
そこから先に、もう一文あった。
当時、一緒にいた姉の夏目佐代さん、十六歳は、警察に対し「少し目を離しただけだった」と話している。
葵は、しばらく動けなかった。
夏目佐代。
佐代。
祖母の名前。
けれど、星野ではない。
結婚する前の名字。
父から聞いたことはない。
母も話したことがない。
祖母自身も、一度も口にしなかった名前。
夏目佐代。
夏目灯真。
姉。
弟。
葵は新聞に手を置いた。
乾いた紙の下で、五十六年前の夜が息をしているようだった。
灯真は、知らない子ではなかった。
星野家に関係のない迷子ではなかった。
祖母の弟だった。
葵は、記事の横に載っている小さな写真を見た。
白黒の粗い写真だった。
神社の石段と、捜索に集まった大人たち。
その端に、若い少女が写っている。
顔ははっきりしない。
でも、背筋だけは今の佐代と同じだった。
少女は、両手を胸の前で握っている。
何かを失くした人の手だった。
葵は胸が苦しくなった。
怒りたかった。
どうして黙っていたのかと、責めたかった。
けれど、新聞の中の十六歳の佐代は、葵が知っている祖母よりずっと小さく見えた。
灯真は十二歳。
佐代は十六歳。
どちらも、まだ子どもだった。
それでも、五十六年分の沈黙は、今の家まで続いている。
葵はスマートフォンで記事を撮った。
シャッター音が、資料室に小さく響く。
その音で、ようやく息が戻った。
図書館を出るころには、夕方が近づいていた。
空の色が、また赤くなっている。
町の提灯に、ひとつずつ灯りが入り始めていた。
盆の二日目が始まる。
葵は神社の坂道の途中で立ち止まった。
鞄の中で、父の提灯がかすかに鳴る。
かさり。
葵は振り向いた。
坂の下に、灯真が立っていた。
昼間より薄い。
けれど、確かにそこにいる。
紺色の浴衣。
少し濡れたような髪。
影のない足元。
葵はゆっくりと近づいた。
「灯真」
少年は顔を上げた。
「葵さん」
名前を呼ぶと、彼の輪郭が少しだけ濃くなる。
葵はスマートフォンを取り出した。
「見つけた」
灯真は首を傾げる。
「何をですか」
「灯真の名字」
少年の目が、大きく開いた。
葵は画面を見せた。
古い新聞の記事。
滲んだ文字。
そこにある名前。
夏目灯真。
灯真は、画面を見つめた。
声が出ないようだった。
葵はゆっくりと言った。
「夏目灯真」
その瞬間、坂道の上で風が止まった。
灯真の身体が、小さく震える。
目の奥に、知らない光が揺れた。
「なつめ……」
彼は自分の胸に手を当てた。
「僕、夏目……」
言葉はそこまでだった。
けれど、消えかけていた右手が、少しだけ戻った。
葵は続けた。
「五十六年前のお盆に、神社の裏でいなくなった男の子」
灯真は何も言わない。
「一緒にいたのは」
葵の喉が詰まった。
言ってしまえば、もう戻れない。
それでも、言わなければならなかった。
「夏目佐代」
灯真の瞳が揺れた。
「佐代……」
その名前だけは、前から覚えていた。
でも、今は違う。
ただの名前ではなく、つながりになった。
灯真は小さく呟いた。
「佐代は……」
そこへ、背後から草履の音がした。
葵は振り向いた。
佐代が、坂道の上に立っていた。
灰色の着物。
白い髪。
まっすぐな背筋。
けれど、その顔から血の気が消えていた。
佐代は、灯真を見ていなかった。
葵の手の中のスマートフォンを見ていた。
画面に映る、古い新聞記事。
そして、そこに書かれた名前。
夏目灯真。
葵はゆっくりと言った。
「おばあちゃん」
佐代の唇が震える。
「灯真は」
太鼓の音が、遠くで鳴り始めた。
どん。
どん。
灯真は、佐代を見上げていた。
まるで、長い間ずっと待っていた人を、ようやく見つけたみたいに。
葵は言った。
「灯真は、おばあちゃんの弟なの?」
佐代の手から、小さな巾着が落ちた。
中から、古びた狐の面が転がり出た。




