開けてはいけない声
こつ。
仏間の方から、乾いた音がした。
葵は廊下の奥を見つめたまま、動けなかった。
襖は閉まっている。
父の写真は、まだ美緒の手の中にある。白い布に包まれたまま、食卓の上で小さく震えていた。
誰も、仏間には入っていない。
それなのに、もう一度。
こつ。
木を叩く音がした。
軽い音だった。
けれど家の中の空気を、薄い針で刺すような音だった。
「葵」
美緒が、ほとんど息だけで言った。
「返事をしないで」
「誰に」
葵はそう聞いたつもりだった。
けれど、自分の声は喉の奥でほどけて、ほとんど音にならなかった。
廊下の暗がりで、床板が鳴った。
ぎし。
佐代が立っていた。
いつからそこにいたのか分からなかった。着物の裾は乱れている。髪も少し崩れていた。けれど目だけが、ひどく冴えていた。
眠れない夜を何度も越えてきた人の目だった。
「仏間から離れなさい」
佐代は言った。
怒鳴らなかった。
その方が怖かった。
「何がいるの」
葵は聞いた。
佐代は答えない。
ただ、閉じた襖を見ている。
その視線は、襖の向こうに父がいると信じている人のものではなかった。
何かが父のふりをしていることを、最初から知っている人のものだった。
「おばあちゃん」
「火を灯さない」
佐代は、低い声で言った。
「名前を呼ばない」
美緒の肩が震えた。
「太鼓が止まったあとに、戸を開けない」
その言葉だけが、廊下に並んだ古い柱へ染み込んでいく。
葵は父の提灯を握りしめた。
火はまだ灯っている。
細く、弱く、けれど消えていない。
「それ、最初から言ってよ」
葵の声は掠れた。
「どうしていつも、駄目って言うだけなの」
佐代は答えなかった。
襖の向こうから、今度は音がしなかった。
かわりに、声がした。
「葵」
父の声だった。
葵の身体が、内側から固まった。
十年前に止まったはずの声。
写真の中にしか残っていないはずの声。
寝る前に本を読んでくれた声。自転車の補助輪を外すとき、後ろから支えてくれた声。熱を出した夜、冷たいタオルを額にのせながら、何度も名前を呼んでくれた声。
全部が、一瞬で胸の奥へ戻ってきた。
「……お父さん」
「呼ぶな!」
佐代の声が飛んだ。
美緒が葵の手首を掴む。
その手は冷たかった。
「葵、違うの」
「何が違うの」
「違うの」
美緒は同じ言葉を繰り返す。
それ以上言えない人の顔だった。
葵は襖を見た。
「お父さんなの?」
襖の向こうは静かだった。
ほんの少しだけ間があってから、声が返ってきた。
「そうだよ」
優しい声だった。
葵の記憶の中の父と、同じ高さだった。
同じ柔らかさだった。
けれど、何かが足りなかった。
父は葵を呼ぶとき、最後に少しだけ笑う癖があった。
葵、と呼んでから、息の奥で小さく笑う。
その笑いが、声の向こうにいつもあった。
今の声には、それがなかった。
形だけが父で、中に誰もいない。
そんな声だった。
それでも、胸が動いてしまう。
会いたいという気持ちは、疑うよりも先に身体を動かす。
葵は一歩、仏間へ近づいた。
「やめて」
美緒が手首を引いた。
葵は振りほどこうとした。
「確認するだけ」
「駄目」
「お母さんは、会いたくないの?」
美緒の顔が歪んだ。
その一瞬で、葵は自分がいちばん痛い場所を踏んだのだと分かった。
けれど、もう言葉は戻せなかった。
美緒は白い布を抱きしめた。
「会いたいに決まってる」
声が震えていた。
「会いたくないわけ、ないでしょう」
葵は黙った。
美緒の指が布の上で白くなる。
「でも、開けたら駄目なの」
「どうして」
「一度、開けたから」
その言葉が落ちた瞬間、台所の蛍光灯がまた瞬いた。
ちか。
白い光が消えかけ、すぐに戻る。
美緒ははっとして口を閉じた。
佐代が美緒の名前を呼ぶ。
「美緒さん」
責める声ではなかった。
止める声だった。
それ以上言えば、何かが家の奥から出てくる。
そんなふうに聞こえた。
襖の向こうで、父の声がした。
「寒いんだ」
葵の胸が痛んだ。
「葵、開けてくれないか」
佐代がゆっくりと首を振った。
「聞いてはいけない」
「でも」
「声だけは、いくらでも借りられる」
葵は佐代を見た。
初めて、祖母が少しだけ答えに近いことを言った気がした。
「借りるって、誰が」
佐代の唇は動かなかった。
その代わり、廊下の影から小さな声がした。
「あの声には、灯りがありません」
葵は振り向いた。
灯真が、廊下の端に立っていた。
いつ戻ってきたのか分からない。古い浴衣の裾はまだ少し透けている。右手も完全には戻っていなかった。
けれど、その目は襖だけを見ていた。
「灯りがない?」
「はい」
灯真は頷いた。
「葵さんの提灯に残っていた人の灯りとは違います」
父の提灯の火が、答えるように小さく揺れた。
美緒が灯真を見て、息を呑む。
佐代は顔を背けた。
灯真は少しだけ悲しそうにした。
でも、何も言わなかった。
襖の向こうの声が、また葵を呼んだ。
「葵」
今度は、少し近かった。
襖の紙に、影が映った。
人の形をしている。
背は高い。
肩幅も、写真で見た父に似ている気がした。
葵の知らない大人の父。
けれど、母が白い布の中に隠していた写真の輪郭と、どこか重なる。
葵は息を止めた。
影が、襖の向こうで手を上げる。
こつ。
今度は、襖を叩く音だった。
「ねえ、葵」
父の声が言った。
「父さんの顔、忘れていないだろう?」
忘れていない。
そう言いたかった。
忘れたくなかった。
けれど、七歳の記憶は薄くなっている。声も、手の温かさも、髪を撫でる指の形も、少しずつ遠くなっている。
だからこそ、写真がほしかった。
だからこそ、名前を呼びたかった。
葵は一歩進んだ。
灯真が前に出た。
「開けないでください」
その声は小さいのに、はっきりしていた。
「どうして灯真に分かるの」
「分かりません」
灯真は唇を噛んだ。
「でも、あれを見ると、名前が遠くなります」
彼の右手がまた少し薄くなる。
葵は目を見開いた。
襖の向こうの影が、ゆっくりと首を傾けた。
「灯真」
父の声が、少年の名を呼んだ。
灯真の身体がびくっと震えた。
呼ばれたはずなのに、彼の輪郭は濃くならなかった。
むしろ、薄くなった。
葵は理解した。
あの声は、名前を呼んでいるのではない。
名前をなぞっているだけだ。
声に温度がない。
灯りがない。
「お父さんじゃない」
葵は呟いた。
その瞬間、襖の向こうの影が止まった。
家の中が、さらに静かになった。
美緒の息遣いも、佐代の袖が擦れる音も、灯真の震える声も、全部遠のく。
父の声が、低くなった。
「どうして、そんなことを言うんだ」
胸の奥を掴まれるような声だった。
責める声。
寂しい声。
捨てられた人の声。
葵は唇を噛んだ。
それでも、言った。
「お父さんなら」
声が震えた。
「私に、開けろなんて言わない」
襖の向こうで、影が笑った気がした。
音はなかった。
けれど、紙一枚を隔てて、何かが口の形だけで笑った。
次の瞬間、影は仏間の襖から消えた。
美緒が悲鳴にならない息を吸う。
こつ。
今度は玄関の方から音がした。
葵たちは一斉に振り向いた。
廊下の先。
玄関の磨りガラスに、黒い影が映っている。
さっきよりもはっきりしていた。
人の形。
父に似た背丈。
けれど、頭の部分だけが、妙にのっぺりとしている。
顔のある場所に、何もない。
目も、鼻も、口も。
磨りガラス越しでも分かるほど、そこだけが白い空白のように抜けていた。
葵の喉が塞がった。
佐代が小さく言った。
「見てはいけない」
けれど、もう見てしまった。
影は玄関の外で、ゆっくりと手を上げた。
こつ。
こつ。
父の声で、それは言った。
「葵」
磨りガラスの向こうで、顔のない影が首を傾ける。
「お前の名前を、もう一度聞かせて」
父の提灯の火が、細く、細く震えた。




