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忘れ盆  作者: 清忠


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7/11

開けてはいけない声

こつ。

 仏間の方から、乾いた音がした。

 葵は廊下の奥を見つめたまま、動けなかった。

 襖は閉まっている。

 父の写真は、まだ美緒の手の中にある。白い布に包まれたまま、食卓の上で小さく震えていた。

 誰も、仏間には入っていない。

 それなのに、もう一度。

 こつ。

 木を叩く音がした。

 軽い音だった。

 けれど家の中の空気を、薄い針で刺すような音だった。

「葵」

 美緒が、ほとんど息だけで言った。

「返事をしないで」

「誰に」

 葵はそう聞いたつもりだった。

 けれど、自分の声は喉の奥でほどけて、ほとんど音にならなかった。

 廊下の暗がりで、床板が鳴った。

 ぎし。

 佐代が立っていた。

 いつからそこにいたのか分からなかった。着物の裾は乱れている。髪も少し崩れていた。けれど目だけが、ひどく冴えていた。

 眠れない夜を何度も越えてきた人の目だった。

「仏間から離れなさい」

 佐代は言った。

 怒鳴らなかった。

 その方が怖かった。

「何がいるの」

 葵は聞いた。

 佐代は答えない。

 ただ、閉じた襖を見ている。

 その視線は、襖の向こうに父がいると信じている人のものではなかった。

 何かが父のふりをしていることを、最初から知っている人のものだった。

「おばあちゃん」

「火を灯さない」

 佐代は、低い声で言った。

「名前を呼ばない」

 美緒の肩が震えた。

「太鼓が止まったあとに、戸を開けない」

 その言葉だけが、廊下に並んだ古い柱へ染み込んでいく。

 葵は父の提灯を握りしめた。

 火はまだ灯っている。

 細く、弱く、けれど消えていない。

「それ、最初から言ってよ」

 葵の声は掠れた。

「どうしていつも、駄目って言うだけなの」

 佐代は答えなかった。

 襖の向こうから、今度は音がしなかった。

 かわりに、声がした。

「葵」

 父の声だった。

 葵の身体が、内側から固まった。

 十年前に止まったはずの声。

 写真の中にしか残っていないはずの声。

 寝る前に本を読んでくれた声。自転車の補助輪を外すとき、後ろから支えてくれた声。熱を出した夜、冷たいタオルを額にのせながら、何度も名前を呼んでくれた声。

 全部が、一瞬で胸の奥へ戻ってきた。

「……お父さん」

「呼ぶな!」

 佐代の声が飛んだ。

 美緒が葵の手首を掴む。

 その手は冷たかった。

「葵、違うの」

「何が違うの」

「違うの」

 美緒は同じ言葉を繰り返す。

 それ以上言えない人の顔だった。

 葵は襖を見た。

「お父さんなの?」

 襖の向こうは静かだった。

 ほんの少しだけ間があってから、声が返ってきた。

「そうだよ」

 優しい声だった。

 葵の記憶の中の父と、同じ高さだった。

 同じ柔らかさだった。

 けれど、何かが足りなかった。

 父は葵を呼ぶとき、最後に少しだけ笑う癖があった。

 葵、と呼んでから、息の奥で小さく笑う。

 その笑いが、声の向こうにいつもあった。

 今の声には、それがなかった。

 形だけが父で、中に誰もいない。

 そんな声だった。

 それでも、胸が動いてしまう。

 会いたいという気持ちは、疑うよりも先に身体を動かす。

 葵は一歩、仏間へ近づいた。

「やめて」

 美緒が手首を引いた。

 葵は振りほどこうとした。

「確認するだけ」

「駄目」

「お母さんは、会いたくないの?」

 美緒の顔が歪んだ。

 その一瞬で、葵は自分がいちばん痛い場所を踏んだのだと分かった。

 けれど、もう言葉は戻せなかった。

 美緒は白い布を抱きしめた。

「会いたいに決まってる」

 声が震えていた。

「会いたくないわけ、ないでしょう」

 葵は黙った。

 美緒の指が布の上で白くなる。

「でも、開けたら駄目なの」

「どうして」

「一度、開けたから」

 その言葉が落ちた瞬間、台所の蛍光灯がまた瞬いた。

 ちか。

 白い光が消えかけ、すぐに戻る。

 美緒ははっとして口を閉じた。

 佐代が美緒の名前を呼ぶ。

「美緒さん」

 責める声ではなかった。

 止める声だった。

 それ以上言えば、何かが家の奥から出てくる。

 そんなふうに聞こえた。

 襖の向こうで、父の声がした。

「寒いんだ」

 葵の胸が痛んだ。

「葵、開けてくれないか」

 佐代がゆっくりと首を振った。

「聞いてはいけない」

「でも」

「声だけは、いくらでも借りられる」

 葵は佐代を見た。

 初めて、祖母が少しだけ答えに近いことを言った気がした。

「借りるって、誰が」

 佐代の唇は動かなかった。

 その代わり、廊下の影から小さな声がした。

「あの声には、灯りがありません」

 葵は振り向いた。

 灯真が、廊下の端に立っていた。

 いつ戻ってきたのか分からない。古い浴衣の裾はまだ少し透けている。右手も完全には戻っていなかった。

 けれど、その目は襖だけを見ていた。

「灯りがない?」

「はい」

 灯真は頷いた。

「葵さんの提灯に残っていた人の灯りとは違います」

 父の提灯の火が、答えるように小さく揺れた。

 美緒が灯真を見て、息を呑む。

 佐代は顔を背けた。

 灯真は少しだけ悲しそうにした。

 でも、何も言わなかった。

 襖の向こうの声が、また葵を呼んだ。

「葵」

 今度は、少し近かった。

 襖の紙に、影が映った。

 人の形をしている。

 背は高い。

 肩幅も、写真で見た父に似ている気がした。

 葵の知らない大人の父。

 けれど、母が白い布の中に隠していた写真の輪郭と、どこか重なる。

 葵は息を止めた。

 影が、襖の向こうで手を上げる。

 こつ。

 今度は、襖を叩く音だった。

「ねえ、葵」

 父の声が言った。

「父さんの顔、忘れていないだろう?」

 忘れていない。

 そう言いたかった。

 忘れたくなかった。

 けれど、七歳の記憶は薄くなっている。声も、手の温かさも、髪を撫でる指の形も、少しずつ遠くなっている。

 だからこそ、写真がほしかった。

 だからこそ、名前を呼びたかった。

 葵は一歩進んだ。

 灯真が前に出た。

「開けないでください」

 その声は小さいのに、はっきりしていた。

「どうして灯真に分かるの」

「分かりません」

 灯真は唇を噛んだ。

「でも、あれを見ると、名前が遠くなります」

 彼の右手がまた少し薄くなる。

 葵は目を見開いた。

 襖の向こうの影が、ゆっくりと首を傾けた。

「灯真」

 父の声が、少年の名を呼んだ。

 灯真の身体がびくっと震えた。

 呼ばれたはずなのに、彼の輪郭は濃くならなかった。

 むしろ、薄くなった。

 葵は理解した。

 あの声は、名前を呼んでいるのではない。

 名前をなぞっているだけだ。

 声に温度がない。

 灯りがない。

「お父さんじゃない」

 葵は呟いた。

 その瞬間、襖の向こうの影が止まった。

 家の中が、さらに静かになった。

 美緒の息遣いも、佐代の袖が擦れる音も、灯真の震える声も、全部遠のく。

 父の声が、低くなった。

「どうして、そんなことを言うんだ」

 胸の奥を掴まれるような声だった。

 責める声。

 寂しい声。

 捨てられた人の声。

 葵は唇を噛んだ。

 それでも、言った。

「お父さんなら」

 声が震えた。

「私に、開けろなんて言わない」

 襖の向こうで、影が笑った気がした。

 音はなかった。

 けれど、紙一枚を隔てて、何かが口の形だけで笑った。

 次の瞬間、影は仏間の襖から消えた。

 美緒が悲鳴にならない息を吸う。

 こつ。

 今度は玄関の方から音がした。

 葵たちは一斉に振り向いた。

 廊下の先。

 玄関の磨りガラスに、黒い影が映っている。

 さっきよりもはっきりしていた。

 人の形。

 父に似た背丈。

 けれど、頭の部分だけが、妙にのっぺりとしている。

 顔のある場所に、何もない。

 目も、鼻も、口も。

 磨りガラス越しでも分かるほど、そこだけが白い空白のように抜けていた。

 葵の喉が塞がった。

 佐代が小さく言った。

「見てはいけない」

 けれど、もう見てしまった。

 影は玄関の外で、ゆっくりと手を上げた。

 こつ。

 こつ。

 父の声で、それは言った。

「葵」

 磨りガラスの向こうで、顔のない影が首を傾ける。

「お前の名前を、もう一度聞かせて」

 父の提灯の火が、細く、細く震えた。


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