表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
忘れ盆  作者: 清忠


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

6/11

蓮の提灯

灯真の右手が、透けていた。

 手のひらの向こうに、火の消えた提灯が見える。

 薄い紙の赤。黒い軒先。名前の読めない表札。

 その全部が、灯真の手を通して、夜の底に沈んでいた。

 葵は息をするのを忘れた。

「灯真」

 名前を呼ぶと、少年は小さく肩を震わせた。

 透けかけていた指先が、ほんの少しだけ濃くなる。

 まるで、呼ばれた音に縫い止められたみたいだった。

「……はい」

 灯真は返事をした。

 その声は細かった。

 けれど、まだそこにあった。

 葵は父の提灯を持つ手に力を込めた。

 火は小さい。

 風もないのに、何かを探すように揺れている。

「今の、見た?」

 葵が聞くと、灯真は自分の右手を見下ろした。

 悲しそうに笑う。

「見えました」

「怖くないの?」

「怖いです」

 灯真は素直に言った。

「でも、少しだけ、安心もしました」

「どうして」

「僕が消えそうになることに、ちゃんと理由がある気がしたから」

 その言葉は、葵の胸に重く落ちた。

 消えそうになることに理由がある。

 そんなことを、十二歳くらいの子どもが言う。

 この道では、悲しいことが当たり前のように並んでいる。

 火のない提灯。

 読めない表札。

 誰も座っていない盆棚。

 自分の名前を待つ老人。

 そして、自分が誰だったのか分からない少年。

 葵は唇を噛んだ。

「帰ろう」

 そう言いかけた。

 でも言えなかった。

 帰れば助かるかもしれない。

 けれど、何も分からないまま帰るだけだ。

 父の提灯は、葵の手の中で細く伸びていた。

 火の先が、道の奥ではなく、左へ曲がる細い路地を指している。

 そこだけ、周りより少し暗かった。

 灯真もそれに気づいた。

「そっちから、少しだけ知っている灯りがします」

「灯真の家?」

 少年は首を横に振った。

「違うと思います」

 少し間を置いて、言う。

「でも、葵さんの提灯と近いです」

 葵の指が、竹枠を握る。

 父の提灯。

 同じ灯り。

 その言葉だけで、足が勝手に動いた。

 二人は細い路地へ入った。

 道幅は、人が一人半通れるくらいしかない。両側の家はさらに古く、格子の隙間には暗闇が詰まっていた。軒から下がる提灯は、どれも丸く膨らんでいるのに、火だけが抜き取られている。

 かさり。

 かさり。

 紙の鳴る音が、後ろからついてくる。

 灯真は歩きながら、時々自分の手を見る。

 葵はそのたびに彼の名前を呼びそうになって、やめた。

 呼べば少しだけ濃くなる。

 でも、呼びすぎたらどうなるのか分からない。

 この場所では、名前はただの音ではない。

 それだけは、もう分かっていた。

 路地の突き当たりに、小さな広場のような場所があった。

 広場といっても、石畳が少しだけ開けているだけだ。中央には枯れた井戸があり、その周りにいくつもの提灯が置かれている。

 吊るされているのではない。

 置かれている。

 まるで、誰かが迎えに来るのを待つ荷物みたいに。

 どれも火は消えていた。

 葵はその中のひとつを見て、足を止めた。

 少し縦長の紙提灯。

 竹の骨組み。

 端に、小さな焦げ跡。

 父が作った提灯と、形がよく似ていた。

 けれど、それは葵の手の中にあるものではない。

 広場の石の上に置かれた、別の提灯だった。

 紙は暗く沈んでいる。

 火はない。

 それでも、葵はその提灯から目を離せなかった。

 下の竹枠に、墨で名前が書かれていた。

 星野蓮。

 父の名前だった。

 葵の喉が、きゅっと細くなった。

 声が出ない。

 手の中の父の提灯が、小さく鳴った。

 かさり。

 灯真が葵の隣に立つ。

「この人の灯りです」

 葵はゆっくりと膝をついた。

 石畳は冷たい。

 指を伸ばし、火の消えた提灯に触れる。

 紙は冷たくなかった。

 むしろ、ほんの少し温かい。

 夏の夕方、父の手に触れたときのような温かさではない。

 もっと弱い。

 けれど、完全には消えていない温度だった。

「火、消えてるのに」

 葵の声は掠れた。

「温かい」

 灯真は提灯を見つめていた。

「誰かが、まだ覚えているんだと思います」

「誰か?」

「はい」

「私?」

 灯真は少し迷ってから頷いた。

「それだけじゃない気がします」

 葵は父の名前を指先でなぞった。

 星野蓮。

 墨は滲んでいない。

 他の提灯のように、名前が薄れてもいない。

 読める。

 はっきりと読める。

 それなのに、火は灯っていない。

 葵は胸の奥に、説明のつかない痛みを感じた。

 忘れられてはいない。

 でも、呼ばれてもいない。

 父は、その間に置かれている。

 葵は手の中の提灯を近づけた。

 父の火を、石の上の提灯へ移せるかもしれない。

 そう思った。

 火が近づく。

 薄い白い炎が、蓮の名の書かれた紙に触れそうになる。

 けれど、燃え移らなかった。

 火はまるで透明な壁に押し返されたように、葵の手元へ戻る。

「どうして」

 葵はもう一度近づけた。

 やはり移らない。

 火はそこに行きたがっているのに、何かが許していない。

 灯真が小さく言った。

「一人では、点かないんだと思います」

「一人では?」

「この人の灯りは、たぶん」

 灯真は言葉を探した。

「家の中で、止められている」

 葵は顔を上げた。

 家の中。

 星野家。

 写真のない仏壇。

 名前を呼ばれない盆。

 佐代の震えた声。

 蓮の名を、呼んではいけない。

 葵は石の上の提灯を抱きしめたくなった。

 でも、触れたら壊れてしまいそうで、できなかった。

「お父さん」

 小さく呼んだ。

 広場の提灯たちが、一斉に鳴った。

 かさり。

 かさり。

 紙が耳を澄ませる音。

 葵は身を固くした。

 灯真が葵の袖を掴む。

「葵さん」

 その声に、緊張があった。

 広場の奥。

 井戸の向こう側。

 名前の書かれていない提灯が、ひとつだけ揺れていた。

 他の提灯よりも白い。

 何も書かれていない紙。

 火もない。

 なのに、揺れている。

 それはまるで、呼ばれた名前に反応したようだった。

 葵は息を呑んだ。

「今の、私がお父さんって呼んだから?」

 灯真は答えなかった。

 ただ、葵と無名の提灯の間に立つように一歩前へ出た。

 その右手は、まだ少し透けている。

 頼りない背中だった。

 それでも、葵を庇おうとしていた。

「戻った方がいいです」

「でも、お父さんの提灯が」

「ここで長く探すと」

 灯真は振り返った。

「葵さんまで、何か置いていく気がします」

 その言葉で、葵は自分の手を見た。

 指先は震えている。

 何かを失ったわけではない。

 でも、さっきまで鮮明だった父の笑い声が、少し遠くなった気がした。

 麦茶の氷が鳴る音。

 父が「夏の音だな」と笑った声。

 それが、薄い紙の向こう側へ下がっていく。

 葵は慌てて目を閉じた。

 だめ。

 忘れたくない。

 忘れるために来たんじゃない。

 葵は蓮の名が書かれた提灯から手を離した。

 紙の温かさが、指先に残る。

「また来る」

 そう言うと、石の上の提灯が、ほんの少しだけ揺れた。

 返事のようにも見えた。

 父の提灯の火が、来た道の方へ細く伸びる。

 灯真が頷いた。

 二人は広場を離れた。

 背後で、無名の提灯がもう一度だけ鳴った。

 かさり。

 返事を求めるような音だった。

 けれど、葵は振り返らなかった。

 路地を戻るあいだ、灯真は黙っていた。

 葵も何も言えなかった。

 道の両側の家々は相変わらず暗い。表札の名前は読めない。盆棚の水は揺れない。老人の座っていた軒下を通ったとき、そこにはもう誰もいなかった。

 ただ、火のない提灯だけが残っている。

 葵はそこへ小さく頭を下げた。

 答えではない。

 名前でもない。

 それでも、無視しないために。

 やがて、遠くで太鼓の音がした。

 どん。

 水の底から浮かび上がるような音。

 灯真が顔を上げる。

「道が、戻ります」

 父の提灯の火が、急に強くなった。

 白に近い炎が足元を照らし、杉の根元のような影が前方に現れる。

 そこを抜けると、湿った土の匂いが戻ってきた。

 虫の声。

 遠い笑い声。

 屋台の油の匂い。

 神社の裏の石灯籠が、目の前に立っていた。

 葵はその場に膝をつきそうになった。

 スマートフォンを見ると、画面には神社の地図が映っている。

 青い点は、本殿の裏で止まっていた。

 時間は、ほとんど進んでいなかった。

 灯真は石灯籠の横に立っている。

 彼の右手は、少しだけ元に戻っていた。

 けれど完全ではない。

 薄い。

 このまま放っておいたら、また消えていく。

 葵は提灯を握った。

「帰ろう」

「星野さんの家に、ですか」

「うん」

 葵は境内の方を見た。

 祭りの輪はまだ回っている。

 誰も、神社の裏で道が開いていたことに気づいていない。

 誰も、葵がどこへ行っていたのか知らない。

 それが、ひどく怖かった。

「お母さんに聞く」

 灯真は少し不安そうにした。

「僕も行っていいんでしょうか」

「だめって言われても、置いていかない」

 葵がそう言うと、灯真は驚いた顔をした。

 それから、ほんの少しだけ笑った。

「ありがとうございます」

 その笑顔は、火のない町で見たどの提灯よりも頼りなかった。

 星野家に戻ると、庭には誰もいなかった。

 裏門は開いたままだった。

 物置の扉も半分開いている。

 葵は灯真を物置の中に入れた。

「ここで待ってて」

「はい」

「何かあったら、呼んで」

「葵さんの名前を、ですか」

 灯真は真面目な顔で聞いた。

 葵は一瞬だけ迷った。

 この場所で名前を呼ぶことの重さを、少しだけ知ってしまったから。

 それでも頷いた。

「うん。私の名前を呼んで」

 灯真は大切なものを預かるみたいに、小さく頷いた。

 葵は提灯を持ったまま、家の中へ入った。

 廊下は暗い。

 台所の明かりだけがついていた。

 美緒がそこに座っていた。

 食卓の上には、冷めた味噌汁が二つ置かれている。箸も動かされていない。美緒の手元には、白い布に包まれた写真立てのようなものがあった。

 葵が入ってくると、美緒は顔を上げた。

 泣いてはいなかった。

 でも、泣くことさえ通り過ぎた人の顔だった。

「どこへ行っていたの」

 声は小さかった。

 責める声ではない。

 失う寸前までいったものが、まだ目の前にあることを確かめる声だった。

 葵は椅子には座らなかった。

「お父さんの提灯を見た」

 美緒の指が、白い布を握った。

「どこで」

「地図にない道」

 美緒の顔から、少しずつ色が消えていく。

 葵は続けた。

「火は消えてた。でも、冷たくなかった」

 美緒は目を伏せた。

 その反応だけで、葵は自分が触れてはいけない場所に、また触れたのだと分かった。

「お母さん」

 葵は言った。

「どうして、お父さんの写真を仏壇に出さないの」

 美緒はすぐには答えなかった。

 白い布の角を、何度も指で撫でている。

 中に何があるのか、葵にはもう分かっていた。

 父の写真だ。

 この家で、出されないまま包まれていた顔。

「忘れたからじゃない」

 美緒はようやく言った。

 声が震えていた。

「忘れられるわけ、ない」

 葵の胸が痛んだ。

「じゃあ、どうして」

 美緒は白い布を見下ろした。

 ほどこうとして、ほどけない。

 指先が動いては止まる。

 その繰り返しだった。

「出したら」

 美緒は小さく息を吸った。

「蓮さんが、帰ってきてしまう」

「帰ってきたら、だめなの?」

 葵の声は、思ったより幼かった。

 七歳の自分が、そのまま口を開いたみたいだった。

 美緒は葵を見た。

 その目には、十年間隠してきた夜が沈んでいた。

「蓮さんだけが帰ってくるなら」

 言葉はそこで途切れた。

 台所の蛍光灯が、一度だけ瞬いた。

 ちか。

 廊下の奥。

 仏間の方で、かすかな音がした。

 こつ。

 葵は振り向いた。

 美緒が息を止める。

 仏間の襖は閉まっている。

 父の写真は、まだ白い布の中にある。

 誰もいないはずの仏間から、もう一度、音がした。

 こつ。

 木を叩くような、乾いた音。

 美緒の唇が震えた。

「葵」

 その声は、ほとんど息だった。

「今夜は、どんな声がしても、開けないで」

 葵は閉じた襖を見つめた。

 父の提灯の火が、手の中で細く揺れている。

 その奥で、誰かが名前を呼ぶのを待っているように。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ