灯りの消えた町
火の消えた提灯が、道の両側で揺れていた。
風はない。
紙の擦れる音だけが、葵の耳に届く。
かさり。
かさり。
それは、誰かが薄い紙の向こうで息をしているような音だった。
葵は振り返った。
さっきまで背中にあったはずの神社の灯りは、もう見えなかった。盆踊りの太鼓も、笑い声も、屋台の匂いも、どこか遠い水の底へ沈んでしまったみたいに消えている。
代わりに、古い家並みが続いていた。
低い瓦屋根。黒ずんだ格子戸。閉ざされた雨戸。軒先に吊るされた提灯。
どの家にも提灯はある。
けれど、どれにも火が灯っていない。
赤い提灯も、白い提灯も、夜の中でただ暗く沈んでいた。火を待っているのか、火を忘れてしまったのか、葵には分からなかった。
足元を照らしているのは、父の提灯だけだった。
薄い白に近い火。
普通の火よりもずっと弱いのに、この道ではそれだけが生きているもののように見えた。
「ここ……どこ」
葵の声は、思ったより小さかった。
灯真は隣で道の先を見ていた。
古い浴衣の袖が、提灯の灯りに淡く浮かび上がっている。足元には、やはり影がない。
「分かりません」
彼は言った。
「でも、知っている気がします」
「来たことがあるの?」
「たぶん」
灯真は少し考えるように眉を寄せた。
「でも、帰ったことはない気がします」
その言い方が、葵の胸に小さな棘のように残った。
来たことはある。
でも、帰ったことはない。
それは、道に迷った子どもの言葉ではなかった。
もっと長い時間、どこにも着けなかった人の言葉だった。
葵はスマートフォンを取り出した。
画面をつける。
地図アプリはまだ開いたままだった。
神社の裏。
緑色の空白。
青い現在地の点は、先ほどよりも細かく震えていた。まるで、画面の中の小さな点まで、この場所を認めたくないみたいだった。
電波は、一本も立っていない。
「地図にない」
葵が呟くと、灯真は小さく頷いた。
「地図に載る道は、生きている人が使う道ですから」
葵は顔を上げた。
「今、何て言ったの」
灯真は戸惑った顔をした。
「僕、何か言いましたか」
葵は返事ができなかった。
灯真自身にも、言葉の意味が分かっていないようだった。思い出したのではない。ただ、道の方が彼の口を借りたみたいに聞こえた。
父の提灯の火が、ふいに細く伸びた。
道の奥へ。
誰かに引かれるように。
「行こう」
葵は言った。
灯真が不安そうに彼女を見る。
「いいんですか」
「あなたの家を探すんでしょ」
「……はい」
「だったら、ここで立ってても何も分からない」
本当は怖かった。
喉の奥が乾いている。手のひらは汗で湿って、提灯の竹枠が少し滑る。
それでも戻る気にはなれなかった。
戻れば、佐代はまた黙る。
美緒もきっと何も言わない。
父の名前は、また家の奥にしまわれる。
そして自分は、十年間と同じように、何も知らないまま朝を迎える。
それだけは、嫌だった。
二人は並んで歩き出した。
道は細く、ゆるく曲がっている。
どの家も古いのに、不思議と廃屋には見えなかった。格子戸は閉じている。窓の内側は暗い。けれど、軒先にはきちんと掃かれた跡がある。玄関には草履が揃えて置かれている家もあった。
まるで誰かが今も暮らしている。
けれど、その誰かだけが、どこにもいない。
葵は一軒の家の前で足を止めた。
門柱に表札が掛かっている。
木の表札だった。
けれど名前の部分だけが、雨に流されたように滲んでいた。
最初の一文字も、最後の一文字も読めない。
ただ、そこに誰かの名前があったことだけは分かった。
「消えてる」
葵が言うと、灯真は表札を見つめた。
「火がないから」
「火?」
「誰も、呼ばないから」
灯真はそう言ってから、自分の言葉に驚いたように口を閉じた。
葵は何も言わなかった。
聞けば、また彼を困らせる気がした。
その家の奥で、かすかな音がした。
こと。
茶碗が置かれるような音。
葵の背中が冷たくなる。
格子戸の向こうに、薄い明かりが見えた気がした。
でも、目を凝らすと何もない。
暗いだけだった。
次の家の前には、盆棚のようなものが置かれていた。
小さな机。
水の入った湯呑み。
乾いた茄子と胡瓜。
誰かを迎える準備だけが、途中で止まっている。
葵はその机を見つめた。
水は濁っていない。
埃も積もっていない。
まるで、たった今置かれたばかりみたいだった。
なのに、線香は燃えていない。
火だけがない。
「ここは……」
葵は言いかけて、言葉を飲み込んだ。
名前をつけてしまったら、この場所が本当に存在してしまう気がした。
そのとき、道の奥から声がした。
「今日は」
かすれた声。
葵は提灯を握りしめた。
「今日は、誰か」
声は、軒下の影から聞こえてくる。
古い家の前に、ひとりの老人が座っていた。
男か女か、一瞬分からなかった。
背中は小さく丸まっている。灰色の着物を着て、膝の上に両手を置いている。顔は暗がりに沈み、はっきり見えない。
その横にも、提灯が下がっていた。
やはり火はない。
老人は顔を上げた。
目が合った、ような気がした。
「今日は、誰か私の名前を呼びましたか」
葵は息を止めた。
灯真が、そっと葵の袖を引いた。
小さな動きだった。
でも、その指先は冷たかった。
「答えない方がいい気がします」
「どうして」
「分かりません」
灯真は老人から目を逸らさないまま言った。
「でも、ここでは、呼ばれていない名前に返事をすると、帰り道が細くなる気がします」
葵は唇を結んだ。
老人はもう一度、同じ言葉を繰り返した。
「今日は、誰か私の名前を呼びましたか」
その声には、怒りはなかった。
恨みもなかった。
ただ、待ち続けたものだけが残っていた。
葵は父の仏壇を思い出した。
写真のない仏壇。
名前を呼ばれない盆。
帰ってくる場所を用意されなかった父。
もしかしたら、この道にいる人たちは、怖いからここにいるのではない。
怖がられたから、ここにいるのかもしれない。
葵は老人に向かって、深く頭を下げた。
返事ではなかった。
名前も呼ばなかった。
ただ、無視したくなかった。
老人は動かなかった。
けれど軒先の提灯が、ほんの少しだけ揺れた。
かさり。
二人はその家の前を通り過ぎた。
しばらく歩くと、同じような家がいくつも続いた。
提灯の紙に、薄く名前が残っているものもあった。
墨の跡だけになっているものもあった。
何も書かれていないものもあった。
空白の提灯。
葵はそれを見るたびに、胸の奥が少しずつ重くなるのを感じた。
ここでは、忘れられることが形になっている。
写真がなくなる。
名前が読めなくなる。
火が消える。
そして、誰かが軒先で待ち続ける。
誰かが、自分の名前を呼んでくれるのを。
「灯真」
葵が呼ぶと、少年はびくりと肩を震わせた。
「はい」
「あなたの家、どんな家だったか覚えてる?」
灯真は道の先を見た。
しばらく何も言わなかった。
「木の匂いがしました」
やがて、ぽつりと言う。
「あと、朝になると味噌汁の匂いがして……姉が、僕より先に起きていて」
姉。
葵の胸が小さく跳ねた。
灯真は自分で口にした言葉に気づいていないようだった。
「お姉さんがいたの?」
「たぶん」
「名前は?」
灯真は口を開きかけた。
けれど、言葉は出てこなかった。
代わりに、彼の足元の浴衣の裾が、少しだけ薄くなった。
葵は目を見開いた。
「灯真」
「すみません」
灯真は困ったように笑った。
「思い出そうとすると、遠くなります」
「何が」
「僕が」
その言葉は、あまりにも静かだった。
葵は提灯を持っていない方の手を伸ばした。
灯真の袖に触れようとする。
けれど、指先は布を掴む前に、少しだけ空を撫でた。
触れた感触はあった。
でも薄い。
濡れた紙に触れているような、頼りない感触だった。
「名字は?」
葵は聞いた。
自分でも、少し焦っているのが分かった。
「あなたの名字。灯真だけじゃなくて、全部の名前」
灯真は葵を見上げた。
その目は、迷子の子どもの目だった。
「僕は」
彼はゆっくり言った。
「灯真です」
「その前は?」
「前?」
「名字。家の名前」
「家の……名前」
灯真は自分の胸に手を当てた。
何かを探すように、何度も口の中で音を転がす。
「な……」
その一文字だけが出た。
葵は息を止めた。
「な?」
「な……」
灯真の眉が苦しそうに寄った。
道の両側の提灯が、一斉に小さく鳴った。
かさり。
かさり。
まるで、無数の紙が耳を澄ませたみたいだった。
灯真は唇を噛んだ。
「だめです」
声が震えている。
「そこから先が、暗い」
その瞬間、灯真の右手が透けた。
葵は言葉を失った。
手のひらの向こう側に、背後の提灯が見えている。
火の消えた提灯。
ゆっくり揺れる、名前のない灯り。
灯真は自分の手を見下ろした。
泣きそうな顔をしているのに、涙は出ていなかった。
「葵さん」
彼は小さく言った。
「僕、帰る家を探してるんじゃなくて」
道の奥で、また誰かが戸を叩いた。
こつ。
こつ。
灯真の声が、闇に薄く溶けた。
「僕が誰だったのかを、探しているのかもしれません」
父の提灯の火が、細く揺れた。
その火に照らされて、灯真の手はまだ透けたままだった。




