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忘れ盆  作者: 清忠


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破れた写真

「それを」

 佐代の声は掠れていた。

「見てはいけない」

 物置の中で、提灯の火が細く揺れた。

 葵はアルバムを胸に抱えるようにして持ったまま、祖母を見た。

 佐代は入口に立っている。背筋はいつものように伸びていた。けれど、顔だけが別人のように白い。

 怒っているのではない。

 怯えている。

 葵は、そう思った。

「どうして」

 佐代は答えない。

 視線は、写真の端に縫いつけられたみたいに動かなかった。

 九歳の父。

 綿あめを持って笑う、小さな蓮。

 その後ろの、祭りの人混みから少し外れた場所に立つ少年。

 古い浴衣。

 濡れた髪。

 こちらを見る、黒い目。

 そして、足元に影がない。

 葵はゆっくりと写真を持ち上げた。

「この子、灯真だよね」

 佐代の唇が、かすかに動いた。

 けれど言葉にはならなかった。

 物置の奥で、灯真が小さく息を吸った。

「僕……ですか」

 自分でも信じられない、という声だった。

 葵は写真を灯真の方へ向けた。

 灯真は作業台の横に座ったまま、身を乗り出す。

 提灯の火が彼の横顔を照らした。

 写真の中の少年と、今そこにいる少年。

 同じ顔だった。

 ただ、写真の中の灯真の方が、少しだけ遠く見える。

 時間の向こう側に置き忘れられたものみたいに。

「僕、こんなところにいたんですか」

 灯真は呟いた。

「覚えてないの?」

 葵が聞くと、灯真は首を振った。

「分かりません。でも」

 彼は写真の中の蓮を見た。

「この人の灯りは、少し知っている気がします」

 葵の指が、写真の端を握ったまま止まった。

 父の灯り。

 その言葉は、胸の中に静かに沈んだ。

「蓮のことを」

 佐代の声が落ちた。

 低く、硬く、物置の埃を震わせるような声だった。

「その子に聞いてはいけない」

「どうして」

「聞いてはいけないからよ」

「またそれ?」

 葵は笑った。

 笑いにならない息だった。

「どうして駄目なのか、一度くらいちゃんと説明してよ」

 佐代は一歩、物置の中へ入った。

 灯真がびくりと肩を揺らす。

 佐代の目は、灯真を見ていなかった。

 見ようとしていなかった。

 ただ、写真だけを見ていた。

「返しなさい」

「嫌」

「葵」

「この写真、隠してたんでしょ」

「返しなさい」

「お父さんも、これを見たの?」

 その言葉に、佐代の手が止まった。

 ほんの一瞬だった。

 でも、葵には十分だった。

「見たんだ」

 佐代の顔が歪んだ。

「お父さんは、この子のことを知ってた。だから調べた。だから、あの提灯を作った」

「違う」

「何が違うの」

「蓮は」

 佐代は言いかけて、口を閉じた。

 灯真がその名に反応するように、少し顔を上げた。

「れん、さん」

 たどたどしく、音を確かめるように言う。

 佐代の顔がさらに白くなった。

「その名を呼ばないで」

「どうして」

 葵はもう一度聞いた。

 答えは、やはり返ってこない。

 代わりに、佐代の手が伸びた。

 葵は反射的に写真を引いた。

 佐代の指が、写真の端を掴む。

「返しなさい」

「嫌!」

 古い紙が、悲鳴のような音を立てた。

 びり、と。

 一瞬、物置の中のすべてが止まった。

 提灯の火。

 灯真の息。

 美緒が裏口から駆け寄ってくる足音。

 葵の手の中で、写真は二つに裂けていた。

 佐代の手には、父が写っている大きな部分。

 葵の指先には、写真の右端だけが残っていた。

 そこに、灯真がいた。

 古い浴衣の少年だけが、切り離された小さな紙片の中に立っている。

 その下に、影のない足元があった。

 葵は息を呑んだ。

 まるで、写真の中でも灯真だけが、初めから家族の輪から外されていたみたいだった。

「お義母さん」

 美緒が入口で立ち止まった。

 彼女は裂けた写真を見ると、手で口元を押さえた。

「また……」

 小さな声だった。

 けれど葵は聞き逃さなかった。

「また?」

 美緒はすぐに目を逸らした。

 佐代が写真の大きな方を握りしめる。

 古い紙が、皺になった。

「その切れ端を渡しなさい」

「渡さない」

「葵」

「これはもう、おばあちゃんのものじゃない」

 葵は紙片を胸元へ引き寄せた。

「この子が誰なのか、私が調べる」

「調べてはいけない」

「どうして」

「帰ってこられなくなる」

 その言葉は、怒鳴り声ではなかった。

 むしろ、祈るような声だった。

 葵は一瞬、言葉を失った。

 帰ってこられなくなる。

 誰が。

 私が。

 それとも、父が。

 灯真が、膝の上で両手を握った。

「佐代ちゃん」

 佐代の肩が、小さく震えた。

「僕、何か悪いことをしましたか」

 その問いは、あまりに子どもだった。

 何も知らない子どもの声だった。

 佐代は灯真を見なかった。

 見たら崩れてしまうのを、自分で分かっているようだった。

「その呼び方を」

 佐代は震える声で言った。

「やめなさい」

 灯真は目を伏せた。

「ごめんなさい」

 また謝った。

 葵はその声を聞いて、胸の奥が熱くなった。

 この子は、ずっと謝っている。

 自分が何をしたのかも分からないまま。

「灯真は謝らなくていい」

 葵は言った。

 佐代が葵を見る。

「あなたには分からない」

「分からないよ」

 葵は頷いた。

「だって、誰も教えてくれないから」

 外で、祭りのざわめきが少し戻ってきた。

 遠くで笑い声がした。

 提灯が揺れる音。

 下駄が石畳を打つ音。

 けれど物置の中だけは、夜の底に沈んだままだった。

 灯真が、ふいに顔を上げた。

「太鼓」

「え?」

「太鼓が止まったあと」

 彼は自分の額に手を当てた。

 何かを思い出そうとしている。

 けれど、それは痛みを伴う作業のようだった。

「神社の、裏」

 葵は紙片を見た。

 切り取られた灯真の背後に、赤い提灯と人混みが滲んでいる。

 そのさらに奥に、小さな石灯籠が写っていた。

 見覚えがある。

 町の神社の、本殿の裏にある古い石灯籠。

 今は誰も近づかない場所だ。

「ここ?」

 葵が紙片を見せると、灯真はじっとそれを見つめた。

 火の中を覗くような目だった。

「たぶん」

「たぶん?」

「そこから、帰れる気がします」

「どこへ」

 灯真は答えなかった。

 ただ、唇だけが小さく動いた。

 家。

 そう言ったように見えた。

 佐代が鋭く言った。

「行ってはいけない」

 葵は振り向く。

「神社の裏には何もないんじゃなかったの」

「何もない」

「何もない場所を、どうしてそんなに怖がるの」

 佐代は答えなかった。

 まただった。

 葵はもう、その沈黙に従うつもりはなかった。

 作業台の上から父の提灯を取る。

 火はまだ消えていない。

 細く、頼りなく、でも確かにそこにある。

 迷ったら、灯りを見なさい。

 父の字が、竹枠の上で小さく光った。

「行く」

 美緒が息を呑んだ。

「葵、お願い。今夜はもうやめて」

「お母さんは知ってるの?」

 葵は美緒を見た。

「お父さんがどうして死んだのか」

 美緒の顔が歪んだ。

 その反応だけで、答えの半分は分かった気がした。

「知ってるなら、教えて」

「……今は、言えない」

「じゃあ、私が見る」

 葵は提灯を持ち直した。

 灯真がゆっくり立ち上がる。

 足音は、やはりしなかった。

 佐代が道を塞ぐように立った。

「その子を連れていけば、道が開く」

 葵は足を止めた。

「道?」

 佐代は唇を噛んだ。

 言ってしまった、という顔だった。

 葵はその言葉を逃さなかった。

「やっぱり、あるんだ」

 佐代の目が揺れる。

「葵」

「何もない場所に、道なんて開かないよ」

 葵は佐代の横をすり抜けた。

 佐代の手が伸びる。

 けれど今度は、掴まれなかった。

 美緒の小さな声が背中に落ちた。

「蓮も、そう言って出ていった」

 葵は振り返った。

 美緒はすぐに口を閉じた。

 言ってはいけないことを口にした子どものように。

 葵はその言葉を胸の奥に押し込んだ。

 父も、そう言って出ていった。

 なら、この先にあるものは、父の死にも繋がっている。

 そう思うと足が震えた。

 それでも、止まれなかった。

 庭を出ると、町の音が一気に戻ってきた。

 提灯の列。

 屋台の灯り。

 焼きとうもろこしの匂い。

 浴衣の袖がすれ合う音。

 さっきまで遠く感じていた祭りが、急に近くにある。

 けれど、葵の手の中の提灯だけは、その灯りの中で妙に暗かった。

 父の提灯の火は、赤でも橙でもない。

 白に近い、薄い火だった。

 灯真は葵の少し後ろを歩いている。

 人々は彼を見ない。

 誰一人、振り返らない。

 小さな子どもが走ってきて、灯真の肩にぶつかりそうになった。

 灯真は避けようとした。

 けれど間に合わなかった。

 子どもの袖が、灯真の腕を通り抜けた。

 葵は立ち止まった。

 灯真は何でもないように、通り過ぎた子どもの背中を見送っている。

「痛くないの?」

 葵が聞くと、灯真は少し困ったように笑った。

「はい」

 それから、小さく付け加えた。

「でも、少し寒いです」

 葵は何も言えなかった。

 祭りの音が、急に薄っぺらく聞こえた。

 屋台の灯りも、人の笑い声も、全部こちら側の世界のものだ。

 灯真だけが、そのどこにも触れられない。

 神社へ続く坂道に入ると、太鼓の音が近くなった。

 どん。

 どん。

 胸の奥を押すような音。

 灯真はそのたびに、少しだけ足を止めた。

「怖い?」

 葵が聞くと、彼は首を横に振った。

「懐かしい気がします」

「太鼓が?」

「はい。でも」

 灯真は石段の上を見た。

「止まると、違う音になります」

「違う音?」

「誰かが、遠くで戸を叩くみたいな」

 葵の手に汗が滲んだ。

 提灯の竹枠が、指の中で少し滑る。

 石段を上がると、境内は人で溢れていた。

 盆踊りの輪がゆっくり回っている。

 浴衣の袖。

 団扇。

 下駄の音。

 中央の櫓では、太鼓を叩く男の人が汗を拭っていた。

 その周りを、町の灯りが囲んでいる。

 葵は紙片をもう一度見た。

 灯真の背後に写っている石灯籠。

 境内の隅、本殿の裏へ続く細い道の入口に、同じ形のものがあった。

「あれだ」

 葵が言うと、灯真も頷いた。

「たぶん、あそこです」

 本殿の横を抜けると、人の声が少しずつ遠ざかった。

 神社の裏は、表の明るさが嘘みたいに暗い。

 杉の木が並び、その根元に古い石灯籠がひとつ立っていた。

 苔に覆われ、火袋の中には何もない。

 昔はここにも灯りが入っていたのだろう。

 今はただ、空っぽの穴だけが黒く開いている。

 葵はスマートフォンを取り出した。

 地図を開く。

 画面には神社が表示された。

 表参道、石段、境内。

 けれど本殿の裏には、何もない。

 ただの緑色の塊だった。

「道なんて、ない」

 葵が呟くと、灯真は石灯籠の前に立った。

 彼の足元に、やはり影はない。

 提灯の火が、一度大きく揺れた。

 どん。

 太鼓が鳴る。

 どん。

 もう一度。

 そして、止まった。

 境内のざわめきが、不自然に遠のいた。

 まるで、耳に水が入ったみたいだった。

 葵は振り返った。

 ついさっきまで見えていた盆踊りの輪が、杉の幹の向こうでぼやけている。

 灯真が小さく言った。

「今です」

「何が」

「道が、息をします」

 意味が分からなかった。

 けれどその瞬間、石灯籠の中に、ほんの小さな火が灯った。

 誰も点けていない。

 火の色は、父の提灯と同じ、白に近い薄い色だった。

 杉の根元の暗がりが、ゆっくりと奥へ伸びた。

 影ではない。

 隙間だった。

 さっきまで木と草しかなかった場所に、細い道が現れていた。

 灯真はその前に立ち、葵を振り返る。

「行ける気がします」

 葵はスマートフォンの画面を見た。

 地図の上で、青い現在地の点が細かく震えている。

 神社の裏。

 その先には、道など表示されていない。

 白い空白。

 ただの空白。

 葵は父の提灯を握り直した。

 背後で、誰かが自分の名前を呼んだ気がした。

 美緒の声かもしれない。

 佐代の声かもしれない。

 けれど振り返らなかった。

 灯真が先に一歩踏み出す。

 浴衣の裾が、暗がりの中に溶けた。

 葵もその後を追った。

 一歩。

 もう一歩。

 祭りの灯りが背中で消えていく。

 風が止まった。

 虫の声も消えた。

 父の提灯だけが、葵の足元を照らしている。

 やがて杉の影を抜けた先に、知らない道が現れた。

 古い家々が並んでいる。

 どの家の軒先にも提灯が下がっていた。

 けれど、どれにも火は灯っていない。

 赤い紙も、白い紙も、黒い夜の中で沈黙している。

 葵は息を止めた。

 その道は、町の地図にはなかった。

 火の消えた提灯だけが、風もないのに、ゆっくりと揺れていた。


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