影のない少年
「まだ、僕の名前を覚えている人はいますか」
門の向こうで、男の子はそう言った。
誰もすぐには答えなかった。
提灯の火だけが、葵の手の中で細く揺れている。さっきまで庭に残っていた夏の熱は、いつの間にか足元から引いていた。土の匂い。湿った木の匂い。遠くの祭りのざわめき。
それらが、門を開けた瞬間から少しずつ薄くなっていく。
男の子は門の前に立ったまま、葵を見上げていた。
十二歳くらい。
紺色の古い浴衣。
片方だけの下駄。
濡れた髪。
白い顔。
けれど、その目だけは生きている子どものように不安で、葵は一瞬、何も言えなくなった。
「その子を入れてはいけない」
佐代の声がした。
低く、硬い声だった。
葵は振り向いた。
「子どもだよ」
「違う」
「何が違うの」
佐代は答えない。
ただ、男の子を見ていた。
見ているというより、見てはいけないものを見てしまった人の顔だった。
男の子は佐代の方へ目を向けた。
そして、小さく首をかしげた。
「……佐代ちゃん?」
その一言で、庭の空気が凍った。
美緒が息を呑む。
佐代の指先が、着物の袖を掴んだまま白くなった。
葵は男の子を見た。
「今、何て言ったの」
「え」
「おばあちゃんの名前、どうして知ってるの」
男の子は困ったように眉を寄せた。
「分からない」
「分からないって」
「でも、知ってる気がした。昔、そう呼んでたような……」
「やめなさい」
佐代が遮った。
その声は、怒鳴り声ではなかった。けれど葵の耳には、悲鳴に近く聞こえた。
男の子はびくっと肩を揺らした。
「ごめんなさい」
すぐに頭を下げる。
その仕草が、あまりに普通の子どもみたいだった。
葵は門をもう少し開けた。
「入って」
「葵!」
佐代が叫ぶ。
「庭だけ。寒そうだし」
「駄目だと言っているでしょう」
「じゃあ、外に置いておくの?」
葵は佐代を睨んだ。
「この子、帰る家が分からないって言ってる」
「帰す家などない」
その言葉に、男の子の顔が少しだけ曇った。
葵も、言葉を失った。
佐代は今、自分が何を言ったのか分かっているのだろうか。
帰す家などない。
それは、迷子の子どもに向けて言う言葉ではなかった。
男の子は自分の足元を見た。
片方だけの下駄。
泥のついた裸足。
葵は提灯を少し持ち上げた。
灯りが男の子の足元を照らす。
そこで、葵は小さく息を止めた。
おかしい。
庭石の横に、葵の影が落ちている。
佐代の影も、美緒の影も、提灯の光に引き伸ばされて黒く地面に張りついている。
けれど、男の子の足元には何もなかった。
浴衣の裾。裸足の指。片方だけの下駄。
そこまでは、はっきり見える。
なのに影だけがない。
葵は提灯を少し動かした。
自分の影が揺れる。
庭石の影も揺れる。
男の子の足元だけが、ただ薄暗い土のままだった。
「……君」
葵の声が掠れた。
男の子は不安そうに見上げる。
「僕、何か変ですか」
変だ。
そう思った。
でも、言えなかった。
その言葉を口にしたら、この子が本当にここから消えてしまう気がした。
「名前」
葵は聞いた。
「灯真って言ったよね」
男の子は小さく頷いた。
「名字は?」
灯真は口を開けた。
けれど、声は出なかった。
何かを探すように、視線だけが夜の中をさまよう。
「なつ……」
そこで止まる。
唇が震えた。
「ごめんなさい。思い出せない」
提灯の火が、ふっと弱くなった。
佐代が一歩下がる。
葵は反射的に、提灯を灯真の近くへ寄せた。
火はまた少しだけ戻った。
灯真はその灯りを、泣きそうな顔で見つめた。
「これがあると、少しだけ分かるんです」
「何が?」
「ここに来ていいって」
葵の胸の奥が、妙に重くなった。
父の提灯。
父の名前を呼んだ火。
それが連れてきたのは、父ではなく、影のない少年だった。
どうして。
問いは喉まで上がってきたが、今ここで佐代に聞いても、きっと答えない。
葵は物置の方を見た。
「中にいて」
「葵、何を」
「家には入れない。なら、物置ならいいでしょ」
「よくない」
「じゃあ説明して」
佐代は黙った。
葵はそれを答えだと思った。
灯真を門の内側へ入れると、男の子はためらいながら一歩を踏み出した。
足音はしなかった。
草が揺れただけだった。
美緒が口元を押さえる。
佐代は目を閉じた。
葵は見なかったことにした。
見てしまったことを、まだ言葉にしたくなかった。
物置の扉を開けると、古い木と埃の匂いが戻ってきた。
そこに、焦げたような匂いがほんの少し混じっている。
葵はそれを前にも感じた気がした。
けれど、いつだったのか思い出せない。
灯真は入口で足を止めた。
「ここ……」
「知ってるの?」
「分からない」
また同じ答えだった。
灯真は物置の奥を見つめたまま、小さく首を振った。
「でも、前はもっと暗かった気がする」
「前?」
「ごめんなさい」
灯真はすぐに謝った。
「変なことばかり言って」
葵は何も言わず、父の提灯を作業台の上に置いた。
火が灯真の顔を照らす。
浴衣の柄が、ゆらゆらと壁に映る。
壁には、鎌や古い竹ぼうきや、使われなくなった祭りの団扇が掛かっていた。
それらには影がある。
灯真だけが、壁に何も残さなかった。
葵は胸の奥を押さえたくなった。
「ここにいて。すぐ戻る」
「戻ってきますか」
あまりに真剣な声だった。
葵は灯真を見た。
男の子は両手を膝の上に置き、まるで叱られるのを待つ子どものように小さく座っている。
その姿を見ていると、怖いより先に腹が立った。
この子をこんなふうにしたのは、誰なのだろう。
「戻る」
葵は言った。
「だから、消えないで」
灯真は少しだけ笑った。
「はい」
その笑い方も、どこか薄かった。
物置を出ると、佐代が庭に立っていた。
美緒は少し離れた場所で、葵と佐代の間を見ている。
家の明かりは点いていない。
町の祭りの音も、まだ戻ってこない。
葵は佐代の前に立った。
「あの子を知ってるんでしょ」
「知らない」
返事は早すぎた。
「じゃあ、どうして名前を呼ばれてそんな顔をしたの」
「知らないと言ったでしょう」
「おばあちゃんは、嘘をつくときだけ同じことを二回言う」
佐代の頬がわずかに動いた。
葵は続けた。
「あの子、人じゃないの?」
美緒が小さく「葵」と呼んだ。
佐代は黙っていた。
長い沈黙のあと、彼女は低い声で言った。
「今夜見たことを、誰にも話してはいけない」
「答えになってない」
「話せば、呼ぶことになる」
「何を」
佐代は視線を物置へ向けた。
「名前のないものを」
葵の背筋に冷たいものが走った。
名前のないもの。
灯真は、自分の名字を思い出せなかった。
それも関係しているのだろうか。
「お父さんを呼んだはずだった」
葵は言った。
「私は、お父さんに会いたかっただけ」
佐代の顔に、ほんの一瞬だけ痛みが走った。
「蓮は来ない」
「どうして分かるの」
「来てはいけないから」
「誰が決めたの」
佐代は答えなかった。
葵はもう一度、物置の方を見た。
提灯の火が、小窓の中で淡く揺れている。
その灯りを見ていると、父の文字が胸の中に戻ってきた。
迷ったら、灯りを見なさい。
父は、何を知っていたのだろう。
葵は家の中へ入った。
仏間の襖は、さっきよりもさらに細く閉じられていた。
誰かが閉めたのだろう。
それでも、隙間から仏壇の金色が見える。
父の写真がない、空いた場所。
葵はそこを見つめた。
「写真」
言葉が、自然に口から漏れた。
父の写真は、本当に一枚もないのだろうか。
そんなはずはない。
七歳までの葵の記憶の中に、父は確かにいた。笑っていた。怒ったこともある。葵の髪を乾かしてくれた夜もある。
それなのに、この家には父の顔がない。
ないのではなく、隠されている。
葵は仏壇の下の引き出しを開けた。
線香、数珠、古い封筒、白い布。
その奥に、小さな鍵があった。
黒ずんだ真鍮の鍵。
葵はそれを手に取った。
どこの鍵かは、すぐに分かった。
物置の奥にあった、もう一つの木箱。
父の提灯が入っていた箱の下に、古い写真箱があった。昼間なら見過ごしていたかもしれない。でも、今の葵はそれを思い出していた。
葵は鍵を握り、もう一度庭へ戻った。
佐代が追ってくる気配がした。
けれど振り向かなかった。
物置の中で、灯真は提灯の前に座ったままだった。
葵を見ると、安心したように肩を下ろす。
「戻ってきた」
「約束したから」
葵は木箱の前に膝をついた。
「それ、何ですか」
「たぶん、写真」
鍵穴に鍵を差し込む。
少し固かった。
回すと、箱の中で古い金具が鳴った。
かちり。
蓋を開けた瞬間、乾いた紙の匂いが広がった。
中には、黒い表紙のアルバムが三冊と、封筒に入った写真がいくつも重ねられていた。
表紙の端には、祖父の字らしい几帳面な文字がある。
盆踊り。
葵はその一冊を取り出した。
ページを開くと、古い町の写真が並んでいた。
今よりも道が狭い。
神社の石段も、鳥居も、どこか新しく見える。
人々は浴衣を着て、提灯の下で笑っている。
知らない人たち。
知らない夏。
けれど、その中に見覚えのある顔があった。
葵は指を止めた。
小さな男の子が、綿あめを持って立っている。
丸い目。
少し困ったような笑い方。
父だった。
葵が知っている大人の蓮ではない。
でも分かる。
この人は、父だ。
写真の下には、細い字でこう書かれていた。
蓮 九歳 盆踊りにて。
葵の喉が詰まった。
父にも、子どもの頃があった。
当たり前のことなのに、その事実が胸に刺さった。
父は最初から写真のない人だったわけではない。
確かに、この町で笑っていた。
葵は写真を見つめた。
そのとき、灯真が小さく言った。
「この子」
「知ってるの?」
「分からない。でも……灯りの匂いがする」
「灯りの匂い?」
灯真は頷いた。
「さっきの提灯と、同じ」
葵はもう一度写真を見た。
そして、気づいた。
父の後ろ。
祭りの人混みの端。
提灯の赤い光が届くか届かないかの場所に、ひとりの少年が立っている。
古い紺色の浴衣。
濡れたような髪。
片方だけの下駄。
白い顔。
葵は息を忘れた。
写真の端にいる少年は、今、目の前に座っている灯真と同じ顔をしていた。
同じ年齢のまま。
同じ姿のまま。
三十年以上前の写真の中で。
「これ……」
葵の指が震えた。
灯真は写真を覗き込み、戸惑ったように瞬きをした。
「僕、ですか」
葵は答えられなかった。
写真の中の父は、何も知らない顔で綿あめを持っている。
その後ろで、灯真だけがこちらを見ていた。
まるで、写真を撮った人ではなく、今ここにいる葵を見つめているみたいに。
物置の入口で、床板が鳴った。
葵は振り向いた。
佐代が立っていた。
彼女の視線は、アルバムのその一枚に釘づけになっている。
顔は、紙のように白かった。
「それを」
佐代の声は掠れていた。
「見てはいけない」
葵は写真を胸に抱えるようにして持った。
「どうして」
佐代は答えない。
葵は写真をもう一度見た。
父が九歳だった夏。
その写真の端に、今夜門の前に現れた少年がいる。
そして、写真の中の灯真の足元には、やはり影がなかった。




