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忘れ盆  作者: 清忠


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3/5

影のない少年

「まだ、僕の名前を覚えている人はいますか」

 門の向こうで、男の子はそう言った。

 誰もすぐには答えなかった。

 提灯の火だけが、葵の手の中で細く揺れている。さっきまで庭に残っていた夏の熱は、いつの間にか足元から引いていた。土の匂い。湿った木の匂い。遠くの祭りのざわめき。

 それらが、門を開けた瞬間から少しずつ薄くなっていく。

 男の子は門の前に立ったまま、葵を見上げていた。

 十二歳くらい。

 紺色の古い浴衣。

 片方だけの下駄。

 濡れた髪。

 白い顔。

 けれど、その目だけは生きている子どものように不安で、葵は一瞬、何も言えなくなった。

「その子を入れてはいけない」

 佐代の声がした。

 低く、硬い声だった。

 葵は振り向いた。

「子どもだよ」

「違う」

「何が違うの」

 佐代は答えない。

 ただ、男の子を見ていた。

 見ているというより、見てはいけないものを見てしまった人の顔だった。

 男の子は佐代の方へ目を向けた。

 そして、小さく首をかしげた。

「……佐代ちゃん?」

 その一言で、庭の空気が凍った。

 美緒が息を呑む。

 佐代の指先が、着物の袖を掴んだまま白くなった。

 葵は男の子を見た。

「今、何て言ったの」

「え」

「おばあちゃんの名前、どうして知ってるの」

 男の子は困ったように眉を寄せた。

「分からない」

「分からないって」

「でも、知ってる気がした。昔、そう呼んでたような……」

「やめなさい」

 佐代が遮った。

 その声は、怒鳴り声ではなかった。けれど葵の耳には、悲鳴に近く聞こえた。

 男の子はびくっと肩を揺らした。

「ごめんなさい」

 すぐに頭を下げる。

 その仕草が、あまりに普通の子どもみたいだった。

 葵は門をもう少し開けた。

「入って」

「葵!」

 佐代が叫ぶ。

「庭だけ。寒そうだし」

「駄目だと言っているでしょう」

「じゃあ、外に置いておくの?」

 葵は佐代を睨んだ。

「この子、帰る家が分からないって言ってる」

「帰す家などない」

 その言葉に、男の子の顔が少しだけ曇った。

 葵も、言葉を失った。

 佐代は今、自分が何を言ったのか分かっているのだろうか。

 帰す家などない。

 それは、迷子の子どもに向けて言う言葉ではなかった。

 男の子は自分の足元を見た。

 片方だけの下駄。

 泥のついた裸足。

 葵は提灯を少し持ち上げた。

 灯りが男の子の足元を照らす。

 そこで、葵は小さく息を止めた。

 おかしい。

 庭石の横に、葵の影が落ちている。

 佐代の影も、美緒の影も、提灯の光に引き伸ばされて黒く地面に張りついている。

 けれど、男の子の足元には何もなかった。

 浴衣の裾。裸足の指。片方だけの下駄。

 そこまでは、はっきり見える。

 なのに影だけがない。

 葵は提灯を少し動かした。

 自分の影が揺れる。

 庭石の影も揺れる。

 男の子の足元だけが、ただ薄暗い土のままだった。

「……君」

 葵の声が掠れた。

 男の子は不安そうに見上げる。

「僕、何か変ですか」

 変だ。

 そう思った。

 でも、言えなかった。

 その言葉を口にしたら、この子が本当にここから消えてしまう気がした。

「名前」

 葵は聞いた。

「灯真って言ったよね」

 男の子は小さく頷いた。

「名字は?」

 灯真は口を開けた。

 けれど、声は出なかった。

 何かを探すように、視線だけが夜の中をさまよう。

「なつ……」

 そこで止まる。

 唇が震えた。

「ごめんなさい。思い出せない」

 提灯の火が、ふっと弱くなった。

 佐代が一歩下がる。

 葵は反射的に、提灯を灯真の近くへ寄せた。

 火はまた少しだけ戻った。

 灯真はその灯りを、泣きそうな顔で見つめた。

「これがあると、少しだけ分かるんです」

「何が?」

「ここに来ていいって」

 葵の胸の奥が、妙に重くなった。

 父の提灯。

 父の名前を呼んだ火。

 それが連れてきたのは、父ではなく、影のない少年だった。

 どうして。

 問いは喉まで上がってきたが、今ここで佐代に聞いても、きっと答えない。

 葵は物置の方を見た。

「中にいて」

「葵、何を」

「家には入れない。なら、物置ならいいでしょ」

「よくない」

「じゃあ説明して」

 佐代は黙った。

 葵はそれを答えだと思った。

 灯真を門の内側へ入れると、男の子はためらいながら一歩を踏み出した。

 足音はしなかった。

 草が揺れただけだった。

 美緒が口元を押さえる。

 佐代は目を閉じた。

 葵は見なかったことにした。

 見てしまったことを、まだ言葉にしたくなかった。

 物置の扉を開けると、古い木と埃の匂いが戻ってきた。

 そこに、焦げたような匂いがほんの少し混じっている。

 葵はそれを前にも感じた気がした。

 けれど、いつだったのか思い出せない。

 灯真は入口で足を止めた。

「ここ……」

「知ってるの?」

「分からない」

 また同じ答えだった。

 灯真は物置の奥を見つめたまま、小さく首を振った。

「でも、前はもっと暗かった気がする」

「前?」

「ごめんなさい」

 灯真はすぐに謝った。

「変なことばかり言って」

 葵は何も言わず、父の提灯を作業台の上に置いた。

 火が灯真の顔を照らす。

 浴衣の柄が、ゆらゆらと壁に映る。

 壁には、鎌や古い竹ぼうきや、使われなくなった祭りの団扇が掛かっていた。

 それらには影がある。

 灯真だけが、壁に何も残さなかった。

 葵は胸の奥を押さえたくなった。

「ここにいて。すぐ戻る」

「戻ってきますか」

 あまりに真剣な声だった。

 葵は灯真を見た。

 男の子は両手を膝の上に置き、まるで叱られるのを待つ子どものように小さく座っている。

 その姿を見ていると、怖いより先に腹が立った。

 この子をこんなふうにしたのは、誰なのだろう。

「戻る」

 葵は言った。

「だから、消えないで」

 灯真は少しだけ笑った。

「はい」

 その笑い方も、どこか薄かった。

 物置を出ると、佐代が庭に立っていた。

 美緒は少し離れた場所で、葵と佐代の間を見ている。

 家の明かりは点いていない。

 町の祭りの音も、まだ戻ってこない。

 葵は佐代の前に立った。

「あの子を知ってるんでしょ」

「知らない」

 返事は早すぎた。

「じゃあ、どうして名前を呼ばれてそんな顔をしたの」

「知らないと言ったでしょう」

「おばあちゃんは、嘘をつくときだけ同じことを二回言う」

 佐代の頬がわずかに動いた。

 葵は続けた。

「あの子、人じゃないの?」

 美緒が小さく「葵」と呼んだ。

 佐代は黙っていた。

 長い沈黙のあと、彼女は低い声で言った。

「今夜見たことを、誰にも話してはいけない」

「答えになってない」

「話せば、呼ぶことになる」

「何を」

 佐代は視線を物置へ向けた。

「名前のないものを」

 葵の背筋に冷たいものが走った。

 名前のないもの。

 灯真は、自分の名字を思い出せなかった。

 それも関係しているのだろうか。

「お父さんを呼んだはずだった」

 葵は言った。

「私は、お父さんに会いたかっただけ」

 佐代の顔に、ほんの一瞬だけ痛みが走った。

「蓮は来ない」

「どうして分かるの」

「来てはいけないから」

「誰が決めたの」

 佐代は答えなかった。

 葵はもう一度、物置の方を見た。

 提灯の火が、小窓の中で淡く揺れている。

 その灯りを見ていると、父の文字が胸の中に戻ってきた。

 迷ったら、灯りを見なさい。

 父は、何を知っていたのだろう。

 葵は家の中へ入った。

 仏間の襖は、さっきよりもさらに細く閉じられていた。

 誰かが閉めたのだろう。

 それでも、隙間から仏壇の金色が見える。

 父の写真がない、空いた場所。

 葵はそこを見つめた。

「写真」

 言葉が、自然に口から漏れた。

 父の写真は、本当に一枚もないのだろうか。

 そんなはずはない。

 七歳までの葵の記憶の中に、父は確かにいた。笑っていた。怒ったこともある。葵の髪を乾かしてくれた夜もある。

 それなのに、この家には父の顔がない。

 ないのではなく、隠されている。

 葵は仏壇の下の引き出しを開けた。

 線香、数珠、古い封筒、白い布。

 その奥に、小さな鍵があった。

 黒ずんだ真鍮の鍵。

 葵はそれを手に取った。

 どこの鍵かは、すぐに分かった。

 物置の奥にあった、もう一つの木箱。

 父の提灯が入っていた箱の下に、古い写真箱があった。昼間なら見過ごしていたかもしれない。でも、今の葵はそれを思い出していた。

 葵は鍵を握り、もう一度庭へ戻った。

 佐代が追ってくる気配がした。

 けれど振り向かなかった。

 物置の中で、灯真は提灯の前に座ったままだった。

 葵を見ると、安心したように肩を下ろす。

「戻ってきた」

「約束したから」

 葵は木箱の前に膝をついた。

「それ、何ですか」

「たぶん、写真」

 鍵穴に鍵を差し込む。

 少し固かった。

 回すと、箱の中で古い金具が鳴った。

 かちり。

 蓋を開けた瞬間、乾いた紙の匂いが広がった。

 中には、黒い表紙のアルバムが三冊と、封筒に入った写真がいくつも重ねられていた。

 表紙の端には、祖父の字らしい几帳面な文字がある。

 盆踊り。

 葵はその一冊を取り出した。

 ページを開くと、古い町の写真が並んでいた。

 今よりも道が狭い。

 神社の石段も、鳥居も、どこか新しく見える。

 人々は浴衣を着て、提灯の下で笑っている。

 知らない人たち。

 知らない夏。

 けれど、その中に見覚えのある顔があった。

 葵は指を止めた。

 小さな男の子が、綿あめを持って立っている。

 丸い目。

 少し困ったような笑い方。

 父だった。

 葵が知っている大人の蓮ではない。

 でも分かる。

 この人は、父だ。

 写真の下には、細い字でこう書かれていた。

 蓮 九歳 盆踊りにて。

 葵の喉が詰まった。

 父にも、子どもの頃があった。

 当たり前のことなのに、その事実が胸に刺さった。

 父は最初から写真のない人だったわけではない。

 確かに、この町で笑っていた。

 葵は写真を見つめた。

 そのとき、灯真が小さく言った。

「この子」

「知ってるの?」

「分からない。でも……灯りの匂いがする」

「灯りの匂い?」

 灯真は頷いた。

「さっきの提灯と、同じ」

 葵はもう一度写真を見た。

 そして、気づいた。

 父の後ろ。

 祭りの人混みの端。

 提灯の赤い光が届くか届かないかの場所に、ひとりの少年が立っている。

 古い紺色の浴衣。

 濡れたような髪。

 片方だけの下駄。

 白い顔。

 葵は息を忘れた。

 写真の端にいる少年は、今、目の前に座っている灯真と同じ顔をしていた。

 同じ年齢のまま。

 同じ姿のまま。

 三十年以上前の写真の中で。

「これ……」

 葵の指が震えた。

 灯真は写真を覗き込み、戸惑ったように瞬きをした。

「僕、ですか」

 葵は答えられなかった。

 写真の中の父は、何も知らない顔で綿あめを持っている。

 その後ろで、灯真だけがこちらを見ていた。

 まるで、写真を撮った人ではなく、今ここにいる葵を見つめているみたいに。

 物置の入口で、床板が鳴った。

 葵は振り向いた。

 佐代が立っていた。

 彼女の視線は、アルバムのその一枚に釘づけになっている。

 顔は、紙のように白かった。

「それを」

 佐代の声は掠れていた。

「見てはいけない」

 葵は写真を胸に抱えるようにして持った。

「どうして」

 佐代は答えない。

 葵は写真をもう一度見た。

 父が九歳だった夏。

 その写真の端に、今夜門の前に現れた少年がいる。

 そして、写真の中の灯真の足元には、やはり影がなかった。


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