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忘れ盆  作者: 清忠


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2/5

盆踊りの太鼓

 マッチの先は、まだ擦られていなかった。

 けれど佐代の顔は、もう火を見た人のように青ざめていた。

 葵の指先に挟まれた一本のマッチ。父の提灯。止まった太鼓。夕闇の底に沈んだ庭。

 どれも、さっきまでと同じ場所にある。

 それなのに、星野家の空気だけが変わっていた。

 風が止まったせいではない。

 虫の声が消えたせいでもない。

 何かが、この家のすぐ外で耳を澄ませている。

 葵には、そんな気がした。

「葵」

 佐代の声は低かった。

 怒鳴ってはいない。

 その方が、かえって怖かった。

「その手を下ろしなさい」

 葵は動かなかった。

 マッチ箱のざらついた側面が、親指の腹に当たっている。ほんの少し力を入れれば、火はつく。

 父の名前を呼ぶことが、本当にそんなにいけないことなのか。

 死んだ人を思い出すことが、どうしてこの家では罪みたいに扱われるのか。

 葵は、それを確かめたかった。

「お父さんを呼んだら、何が起きるの」

 佐代の唇が、かすかに動いた。

 答えは返ってこなかった。

 かわりに、美緒が一歩前へ出た。

「葵。今日は、やめよう」

 母の声は優しかった。

 いつものように。

 けれど、その優しさは、何かを包むためではなく、隠すための布みたいだった。

「どうして」

「お願い」

「理由を言って」

 美緒は提灯を見た。

 焦げ跡のある古い紙提灯。

 父の字が残った竹の枠。

 その目の奥に、葵の知らない夜が映っているように見えた。

「……火は」

 美緒は、そこまで言って口を閉じた。

 佐代が鋭く振り返る。

「美緒さん」

 その一言で、美緒は黙った。

 葵の中で、何かが冷めていった。

 まただ。

 この家では、真実に近づくと、必ず誰かが誰かを止める。

 父の写真が消えた理由。

 お盆に灯りをつけない理由。

 十年前の夜のこと。

 答えはいつも、喉元まで来ている。

 けれど、最後の一文字だけが飲み込まれる。

「おばあちゃんが怖いのは、お父さんじゃないんでしょ」

 葵は言った。

 佐代の目が、初めてまっすぐ葵を見た。

「だったら何を怖がってるの」

 次の瞬間、佐代の手が伸びた。

 細い指が、葵の手首を掴む。

 思っていたより強い力だった。

「痛い」

「置きなさい」

「いや」

「葵」

「いや!」

 葵が腕を引いた拍子に、マッチが一本、指の間から滑り落ちた。

 湿った土の上に、白い先端が下を向いて落ちる。

 火はつかなかった。

 それでも、美緒は小さく息を呑んだ。

 まるで、落ちたのが一本のマッチではなく、誰かの名前だったみたいに。

 佐代は葵の手からマッチ箱を取り上げた。

 それから、提灯へ手を伸ばす。

 葵は反射的に背中へ隠した。

「これは返さない」

「蓮のものよ」

「だから返さない」

 佐代の眉が動いた。

 葵は喉の奥を震わせながら、言葉を押し出した。

「お父さんのものなら、私にも関係ある」

 佐代はしばらく葵を見ていた。

 その目には怒りがあった。

 でも、それより深いところに、疲れたような暗さがあった。

 長い間、誰にも見せずに抱えてきたもの。

 それが、ほんの一瞬だけ、表に出た気がした。

「あなたは、何も知らない」

 佐代は言った。

「知らないよ」

 葵はすぐに返した。

「誰も教えてくれないから」

 佐代の指先が止まった。

 美緒が目を伏せる。

 外の町から、遠く祭囃子が戻ってきた。

 止まっていた太鼓が、また鳴り始める。

 どん。

 どん。

 その音は、さっきよりもずっと遠かった。

 まるで町だけが先へ進み、星野家だけが同じ場所に置き去りにされているようだった。

 その夜、夕食の席には誰も父の話をしなかった。

 食卓には冷や奴と焼き魚、茄子の味噌汁が並んでいた。

 いつもと同じ献立だった。

 けれど、味はしなかった。

 居間のテレビは消されている。窓の外からは、盆踊りへ向かう人たちの足音がときどき聞こえた。

 下駄の音。

 子どもの笑い声。

 遠くで呼び合う声。

 その全部が、この家の中には入ってこない。

 佐代はいつも通り背筋を伸ばして座り、黙って箸を動かしていた。

 美緒は葵の皿に魚を取り分けた。

 葵はそれに手をつけなかった。

 父が生きていた頃、お盆の夜に何を食べていたのか、葵はほとんど覚えていない。

 ただ、父が麦茶の氷を多めに入れてくれたことだけは覚えていた。

 グラスの中で、氷がからんと鳴る。

 父はその音を聞いて、少し笑った。

 夏の音だな、と言った。

 たったそれだけの記憶なのに、今は喉に刺さる。

「お母さん」

 葵は箸を置いた。

 美緒の肩が小さく動いた。

「お父さんは、私を置いていったの」

 美緒の手から、箸が滑りかけた。

 畳に落ちる前に、彼女は慌てて掴み直す。

 佐代は顔を上げなかった。

「葵」

「答えて」

「蓮さんは」

 美緒は、父の名前を呼ぶまでに少し時間がかかった。

 たった二音。

 それなのに、呼吸を整えなければ言えない名前。

「あなたを置いていったわけじゃない」

 葵の胸が、少しだけ痛んだ。

「じゃあ、どうして帰ってこないの」

「死んだからよ」

 佐代が静かに言った。

 美緒の顔が強張る。

 葵は佐代を見た。

「死んだら、名前も呼んじゃいけないの」

「呼び方を間違えれば、帰ってくるものも間違える」

 その言葉は、食卓の上に落ちた。

 葵は意味が分からなかった。

 分からないのに、背筋だけが冷えた。

「……どういう意味」

 佐代は味噌汁の椀を置いた。

 椀の底が、卓袱台に小さく触れる。

「迎え火は、ただの火ではない」

 低い声だった。

「太鼓が止まったあとに灯した火は、違う道を開く」

葵の背筋が、すっと冷えた。

「誰かを思って灯す火は、その人が帰る道になる。けれど、道を作れば、そこを通るのが本当にその人だけとは限らない」

 美緒が顔を上げた。

「お義母さん」

「ここまでなら、言ってもいいでしょう」

 佐代は美緒を見なかった。

 葵の方だけを見ていた。

「あなたが父親に会いたいと思う気持ちは分かる。けれど、その気持ちを餌にして近づいてくるものがある」

「もの?」

「人ではないものよ」

 居間の蛍光灯が、一度だけ小さく瞬いた。

 ちか。

 葵は反射的に天井を見た。

 それだけのことだった。

 古い蛍光灯が切れかけているだけ。

 そう思おうとした。

 けれど、美緒の顔色はさらに悪くなっていた。

 佐代は黙って立ち上がった。

「今日は早く寝なさい」

「まだ話は終わってない」

「終わりよ」

「おばあちゃんの中では、でしょ」

 佐代は振り返らなかった。

 仏間の前で一度だけ足を止め、それから襖を静かに閉めた。

 父の写真のない仏壇が、また見えなくなる。

 その音が、葵には扉の鍵が閉まる音に聞こえた。

 夜が深くなるにつれて、町は明るくなった。

 窓の外では、提灯の灯りが風に揺れている。

 浴衣姿の人たちが坂道を上り、神社の方へ流れていく。

 盆踊りの太鼓は、遠くから何度も聞こえてきた。

 どん。

 どん。

 どん。

 葵は自分の部屋にいた。

 机の上には、学校のノートと、開きっぱなしのスマートフォンが置かれている。

 画面には、検索窓が光っていた。

 迎え火。

 お盆。

 死者 帰る。

 何度も打ち込んでは消した。

 画面の中の説明は、どれも穏やかだった。

 迎え火は、祖先の霊が迷わず家へ帰ってこられるように灯す火。

 送り火は、再びあの世へ戻る道を照らす火。

 どこにも「人ではないものが来る」とは書かれていない。

 どこにも「父の名前を呼んではいけない」とは書かれていない。

 星野家だけが、おかしい。

 葵はベッドの下へ手を伸ばした。

 そこには、薄い布に包んだ提灯があった。

 夕方、佐代に取り上げられる直前、葵はとっさに別の古い布を箱へ押し込んだ。

 提灯だけは、渡さなかった。

 自分でも驚くくらい、うまく隠せた。

 胸の奥で、少しだけ罪悪感が動いた。

 でも、それよりも強いものがあった。

 父の名前を、この家から消させたくない。

 葵は布を開いた。

 古い紙提灯が、部屋の薄明かりの中に現れる。

 昼間よりもずっと頼りなく見えた。

 紙は薄く、骨組みは細い。

 けれど、竹枠の文字だけははっきりしている。

 迷ったら、灯りを見なさい。

 葵はその字を指でなぞった。

 父の手は、もうない。

 声も遠くなっている。

 匂いも、輪郭も、少しずつ薄れていく。

 それなのに、この文字だけは残っている。

 残っているなら、まだ呼べるはずだった。

 スマートフォンが震えた。

 友人からのメッセージだった。

 神社来ないの?

 葵は返事を打たなかった。

 画面を消すと、部屋は提灯の白い紙だけがぼんやり浮かぶ暗さになった。

 廊下の向こうで、佐代の部屋の戸が閉まる音がした。

 少し遅れて、美緒の足音が台所へ向かう。

 水道の音。

 食器を重ねる音。

 どれも、いつも通りだった。

 いつも通りすぎて、葵は息が苦しくなった。

 こんな夜に、何もなかったふりをして皿を洗えることが、悲しかった。

 葵は引き出しを開けた。

 中には、昼間落ちたマッチが一本だけ入っている。

 夕方、土の上に落ちたそれを、誰にも見られないように拾っていた。

 白い先端に、少しだけ土がついている。

 マッチ箱は佐代に取られた。

 でも、擦る場所ならある。

 葵は机の奥から、古い紙やすりを取り出した。

 父が昔、工作に使っていたものだ。

 偶然なのか、残されていたのかは分からない。

 葵は提灯とマッチを抱え、部屋を出た。

 廊下は暗かった。

 仏間の前を通るとき、葵は足を止めた。

 襖の向こうに、父の写真はない。

 でも、そこに向かって小さく言った。

「お父さん」

 声は、思ったよりもかすれていた。

 何も起きない。

 襖も、仏壇も、廊下の闇も、黙ったままだ。

 葵は唇を噛んだ。

「私、忘れてないから」

 それから裏口を開けた。

 庭には、夜の湿った匂いが満ちていた。

 町の灯りは、塀の向こうで揺れている。

 星野家の庭だけが、ぽっかり黒い穴のようだった。

 葵は物置の前まで行った。

 昼間開けた扉は、閉まっている。

 けれど中へは入らなかった。

 この提灯を見つけた場所で火を灯すのは、なぜか嫌だった。

 そこには、佐代と美緒の恐れがまだ残っている気がした。

 葵は庭石のそばにしゃがんだ。

 父が昔、夏の夜に花火をしてくれた場所だった。

 小さな手持ち花火。

 バケツの水。

 焦げた匂い。

 父の声。

 火は怖くないよ。

 ちゃんと見ていれば、大丈夫だから。

 葵は提灯を置いた。

 紙やすりを膝の上に広げ、マッチを指に挟む。

 手が震えていた。

 怖いのか。

 それとも、期待しているのか。

 自分でも分からなかった。

 遠くで太鼓が鳴っている。

 どん。

 どん。

 さっきより間隔が長い。

 盆踊りの終わりが近いのだろう。

 葵は待った。

 なぜ待っているのか、自分でも説明できなかった。

 ただ、佐代の言葉が頭の中に残っていた。

 太鼓が止まったあと。

 その時間に火をつけてはいけない。

 なら、そこで火をつければ、本当のことが分かる。

 どん。

 長い沈黙。

 どん。

 さらに長い沈黙。

 葵は息を止めた。

 最後の太鼓が、夜の底に沈むように鳴った。

 どん。

 それきり、音は戻ってこなかった。

 町全体が、一瞬だけ眠ったみたいに静かになった。

 風もない。

 虫の声もない。

 提灯の紙だけが、小さく鳴った。

 かさり。

 葵はマッチを擦った。

 しゅっ。

 白い先端に、小さな火がついた。

 思っていたよりも弱い火だった。

 けれど、その橙色は夜の中でひどく鮮やかだった。

 葵の指が熱を感じる。

 急いで、提灯の中へ火を移した。

 古い芯が、少し遅れて火を受け取る。

 ぼう、と音もなく灯りが膨らんだ。

 提灯の紙が内側から照らされる。

 黄ばんだ和紙が、淡い橙色に変わった。

 父の字が、影になって浮かび上がる。

 迷ったら、灯りを見なさい。

 葵の喉が熱くなった。

「お父さん」

 今度は、はっきり呼んだ。

「星野蓮」

 その名前を口にした瞬間、火が揺れた。

 風はない。

 それなのに炎だけが、誰かの息に触れられたように細く曲がった。

 葵は提灯を見つめた。

 父が現れると思った。

 声がすると思った。

 十年前の夏の匂いが戻ってくると思った。

 けれど、何も起きない。

 ただ、提灯の灯りがゆっくりと弱くなっていく。

「お父さん……?」

 炎がもう一度揺れた。

 今度は、物置の方ではなかった。

 庭の裏門の方へ、火の先が傾いている。

 まるで、そちらを見ろと言っているみたいに。

 葵は顔を上げた。

 裏門は閉まっている。

 その向こうには、神社へ続く細い道がある。

 昼間はただの道だ。

 近所の人が通り、野良猫が横切り、子どもが虫取り網を持って走る道。

 でも今、その先は暗すぎた。

 町の灯りが届いているはずなのに、門の向こうだけが墨を流したように黒い。

 葵は立ち上がった。

 そのとき、家の中で何かが倒れる音がした。

 続いて、佐代の声。

「葵!」

 裏口が開く。

 佐代が裸足のまま庭へ飛び出してきた。

 髪が少し乱れている。いつもの祖母ではなかった。

 美緒も後ろから出てくる。

 彼女の手には、濡れた布巾が握られていた。

 二人とも、提灯の火を見ていた。

 その顔を見て、葵は確信した。

 この火は、ただの火ではない。

 本当に、何かを呼んでしまった。

「消しなさい」

 佐代の声は震えていた。

「今すぐ」

「お父さんは来てない」

 葵は言った。

 その事実が、胸の奥で鋭く痛んだ。

「呼んだのに、来てない」

 佐代は答えなかった。

 ただ裏門の方を見ている。

 美緒が葵の袖を掴んだ。

「中に入って」

「何が来るの」

「お願い、葵」

「だから、何が来るの!」

 その瞬間だった。

 裏門の向こうから、音がした。

 こつ。

 木を叩くような、乾いた音。

 葵は息を止めた。

 佐代の手から、数珠が滑り落ちた。

 こつ。

 もう一度。

 誰かが、門を叩いている。

 美緒が小さく首を振った。

「開けないで」

 葵は門を見つめたまま、動けなかった。

 提灯の火は、門の方へ細く伸びている。

 まるで、そこに道があるかのように。

「葵、下がりなさい」

 佐代が言った。

 けれど、その声は命令ではなく、懇願に近かった。

 こつ。

 三度目の音。

 そのあと、細い声がした。

「あの」

 子どもの声だった。

 男の子の声。

 怯えていて、少し掠れていて、長い間声を出していなかった人みたいに弱い。

「ここ、星野さんの家ですか」

 葵の心臓が強く鳴った。

 父の声ではない。

 佐代が、一歩後ずさった。

 その顔から、完全に血の気が引いていた。

 葵は提灯を持ったまま、裏門へ近づいた。

「開けては駄目!」

 佐代が叫んだ。

 葵の手は、門の掛け金に触れていた。

 木が夜露で湿っている。

 冷たい。

 門の向こうで、誰かが小さく息を吸った。

「すみません」

 その声は、泣きそうだった。

「僕、帰る家が分からなくなってしまって」

 葵は掛け金を外した。

 かちゃん。

 音が、やけに大きく響いた。

 門を少しだけ開ける。

 隙間の向こうに、男の子が立っていた。

 十二歳くらいに見えた。

 古い紺色の浴衣を着ている。柄は、ところどころ色が抜けていた。髪は少し濡れていて、額に張りついている。足元には下駄が片方だけ。

 もう片方の足は、裸足だった。

 顔は白い。

 でも、死人のように恐ろしい白さではなかった。

 長い間、誰にも見つけてもらえなかった子どもの白さだった。

 男の子は、提灯の灯りを眩しそうに見た。

 それから、葵を見上げた。

「……灯り」

 小さく呟く。

「まだ、ついてた」

 葵は声が出なかった。

 佐代も、美緒も、後ろで固まっている。

 男の子は胸の前で両手を握った。

「僕の名前、たぶん」

 そこで言葉が途切れた。

 眉を寄せ、何かを必死に思い出そうとする。

 けれど、思い出せない。

 その様子を見て、葵の胸の奥が妙に痛んだ。

 やがて男の子は、消えそうな声で言った。

「灯真、です」

 提灯の火が、小さく揺れた。

 佐代の息が止まる音がした。

 男の子は門の前で、もう一度葵を見た。

「この家に」

 夜の闇が、その声を包み込む。

「まだ、僕の名前を覚えている人はいますか」


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