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6回目


※ ※ ※




「………ィ」

 遙都がつぶやく。

 かすかなつぶやきだった。

 遙都自身、そうと気づかなかったほどの、ささやかな。

 けれど、それは、高村の耳に届いたらしかった。

 ふと、キャンバスの上を走っていた木炭が止まる。

 穏やかな容貌。奥に燠火を抱えた褐色のまなざしが、遙都に向けられた。

 遙都は気づかなかったが、これまでもそれと同じ視線が、しばしば遙都に向けられていたのだ。

「遙都くん?」

 瞬時にして奥深くにひそめられた、ねついまなざし。

 かける声も、いっそ恬淡としたもので。

 物思いを破られた遙都は、そんなことには少しも気づかなかった。

「え………?」

 自分が今どこにいるのか、遙都は咄嗟に認識できなかった。

「告白されたそうだね」

「あ、せ、先生?」

 なぜ、高村が知っているのだ。

 どうしてこんなことを訊かれなければいけないのだろう。

 気がつけば、恐ろしいような夕焼けがアトリエを染めあげている。

 高村の眇められた瞳。

 いつもは穏やかな高村の容貌が朱に染まって、まるで見知らぬ人のようで。

「貴島純とかいう一年の男子だとか聞いているよ。返事はもう決めたのかな」

 しゃがれた、声。

「せんせい?」

遙都の背筋を、震えが駆け上がる。

ガラス越しの夕焼け。

 緋色に染まった、少年。

 くらりと高村の意識が揺らぐ。

 足元の床が撓み、すべての音がやんだ。

 少年のくちびるだけが、ぱくぱくと動いている。

 十八年近くの時をさかのぼったような奇妙な感覚が、高村を襲う。

「マユ」

 しわがれた高村の声。

 高村が呼ぶのは、高見沢マユ――遙都の母親の名前だった。

「愛していたのに」

 押し殺した高村の声。

「なぜ、あんな、あんなものにっ」

『愛しているの。あのひとを愛しているのよ』

 かつての記憶が、幻聴となってこだまする。

 映像となって脳裏を過ぎるのもまた、かつての残像。

 従姉妹とその恋人の、逢引きの情景。

 蜂蜜を水で溶かしたような髪が、緑なす射干玉ぬばたまの髪の毛にこぼれかかる。

 曾祖母の弟が暮らしていたという、森の奥の白い洋館。

 カーテンの隙間から部屋を染める、真っ赤な夕日。

 こっそりと後をつけて、知ったのだ。

 扉の隙間から部屋を覗き込み、従妹の秘密の恋人を。

 そうして、曾祖母の秘密をも。

「あんな、バケモノにっ!」

『バケモノなんかじゃ、ないっ!』

 高村が迫る。

 後退さる遙都の腕を握り、高村は胸の中に抱き込んだ。

 遙都は、無言で藻掻く。

 あまりのことに、声など出なかった。

 いつも穏やかな高村ではない。

 父親だったらよかったのに。遙都にとってはそう思える、高村を高村として成り立たせているすべてのものがぞろりと裏返ったかのような、気味の悪さ。

「せ、せんせ…い………」

 高村の一言一言に、わからないながらも鼓動が乱れる。

「愛しているんだ。マユ。あんな、あんなバケモノの子供なんて…………どうして、マユが生まなければならない」

『産むわ。あのひとの――エルンストのこどもよ。愛しているの。エルンストに、こどもを産んであげることができるの。淋しいあのひとに』

 遙都の抵抗が力ないものに変わる。

「バケモノの子供など、バケモノに決まっているだろう。堕ろすんだ。たのむ。たのむから、あんなヤツの子供など、生まないでくれっ!」

『いいえ。バケモノなんかじゃない。エルンストは、わたしが愛しているひとよ』

「違う! あれは、吸血鬼なんだ」

『あなたが、母に告げ口したのね。あなたが、わたしとエルンストとを引き裂いた。エルンストを、返して』

「吸血鬼に、あなたを渡さない。それくらいなら、いっそ!」

 遙都の首を、高村の冷たい手が絞める。

 鋼の冷たさをともなって、爪が首に食い込んでくる。

 縊られて、遙都の視界が白と朱に霞む。

 霞む意識に、高村のめくれ上がった唇が、その下から姿を現わした長い犬歯が、印象的だった。

 悪夢のような、光景だった。

 荒く生臭い、息。

 いつもの、穏やかな高村ではない。

 それは、伝説の吸血鬼。

(う、そ…高村先生が……)

 ずたずたに切り裂かれた首。

 血を抜かれていた、犠牲者の女性。

 首をずたずたにしたのは、吸血鬼の仕業とわからないようにするためだったのか?

 カッと開いた口。

 生々しい深紅。

 ひやり。

 息すらも冷たく感じた。

 光を弾く、エナメル質の歯列。それが遙都の首筋を噛み破ろうとする。

 刹那。

「………っ!」

 遙都は渾身の力で高村の腕の中から逃げ出した。

「マユッ!」

 高村の腕が空を掻く。

 ガシャンッ!

 玄関の閉まる音が、静まり返った高村家に響く。

「わかっているぞ。マユ。あの男のところに行くつもりだな」

 ぼそりと、高村がつぶやいた。


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