7回目
※ ※ ※
高村の私有地でもある、あの森。
曾祖母――イザベラが弟のために建てさせたのだという、洋館。
少女趣味な内装は、イザベラの趣味だと聞いている。
イザベラ―――
はるかドイツから嫁いで来た花嫁。
森と湖の国から高村にやってきた花嫁は、とんでもない疫病神だったのだ。
病死したことになっているが、真実は、彼女はその正体を知った夫の手によって殺された。
人ならざる存在――吸血鬼を退治しながら、曽祖父はイザベラを愛していたのだ。
かつて、読んでしまった曽祖父の日記。その血を吐くような、嘆き。
中学生だった高村は最初、これは、曽祖父の創作だと思った。
そんなことがあるはずがない……と。
しかし、それは、真実であった。
あの日、激情に任せてマユを引き裂いた時、高村の遺伝子の奥深く静に眠っていたモノは目覚めたのだ。
愛しい存在を誰にも奪われたくはなかった。
たとえ、それが、マユの子供にだとしても。
凶暴な思い。
激情のままにマユを引き裂き、暴れるマユを殴りつけた。
マユの流した、血の匂い。
それが、高村の因子を目覚めさせたのか。
赤ん坊の泣き声で、高村は我に返った。
気がつけば、マユは死んでいた。
はじめての吸血のため、加減を知るわけもなく。
吸血鬼の仕業と知られたくないばかりに、こみあげる涙を堪えながらマユの首を切り裂いた。
吸血の加減を知るまでに、なおも十二人の犠牲が必要だった。
十三人の女性の血を飲み、ようやく、渇きは治まった。
赤ん坊の泣き声。それは、マユの子供だった。
あんなにも誕生を憎んだ、子供。
しかし、生まれてみれば、愛しくて。
愛したマユの子供。
愛しくないはずがなく。
高見沢で孤立している遙都を見るたびに、高村の心は痛んだ。
彼の孤立の一因は自分にある。
激情のままに殺してしまった、愛しい女性。
せめて、マユが生きていれば、遙都も今ほどには孤立せずに済んだろう――と。
だから、できるだけ優しく接した。
思い出せるかぎりのマユの思い出を語り聞かせた。
罪滅ぼしだったのかもしれない。
それとも、マユに似た面差しの遙都を愛してしまっていたのだろうか。
そうかもしれない。
押さえ込んでいた凶悪な欲望をよみがえらせたのは、ほかならない遙都だったのだから。
なぜ――と、高村は思ったのだ。
何故、自分が想いを寄せる相手は、報われない恋ばかりに身を焼くのだろう―――と。
もちろん、遙都が貴島の想いを受け入れるかどうかはわからない。
何しろ相手は同性なのだから。
そう冷静に理解しようとする高村と、『邪魔ものは殺してしまえ』と囁く狂った高村とが存在した。
激しい葛藤があった。
そうして―――
気がつけば、少年はこときれていた。
遙都に愛を告げた少年だった。
正気に戻った高村は、冷静に後始末を済ませた。
美術準備室のカギを持っているのは、高村だけである。
粗忽者の美術部員がカギを無くしたから、スペアを作らなければならない。
まさに、タイムリーな幸運だった。
とりあえず夜まで準備室に隠しておけばいい。
血の後始末の必要はない。
血はもはや一滴も残ってはいないのだ。
血だまりができて露見すると言う心配はない。
深夜に片づければ済むことだった。
森にでも放置しておけば、いい。
猟奇殺人犯として疑われるような言動をしてはいない自分が疑われることは、まずない。
先月に犯してしまった吸血は、欲望を抑え切れなかったせいだった。
一月に一度くらいの割合で、絶望的な渇きを覚えることがある。
いつもはそれを押さえ込むことに成功している。しかし、あの時は、できなかったのだ。
解放的な夏の衣装。襟からすらりと伸びた、細く白い首。
伸ばされた細い腕が彼の首に絡みつき、白鳥のような首が茶色の髪の下から現れた。
『せんせい』
と、熱に膿んだような声が襲ってくださいとほのめかす。
高村の抑制は、断ち切られた。
だから、襲ってしまったのだ。
十七年ぶりの血の味。
とろりと濃密な、毒を含んだ蜜の味。
十七年ぶりに、高村の渇きは癒された。
けれど、マユの血の味は、あんなに薄くなかった。
自分が心から欲しいのは、この血ではない。
一度禁忌を破ってしまったことで、堪え性がなくなったのか。
(あれはマユじゃない)
わずかに残った理性が、高村の欲望を諌めようとする。
しかし…………。
きつく握りしめた高村の拳が小刻みに震える。
あの甘露を忘れられない。
(マユの息子の血なら、きっと)
めくれあがったくちびる。色をなくしたそれを、高村のぞろりと長い舌が舐める。
高村の双のまなざしは血の色を宿していた。
※ ※ ※
カタカタと、下駄がアスファルトに当たる。
いつの間にか周囲を鎖している夜の闇。
ねっとりと絡みついてくる湿気。
夜の帳に逃げ場のない暑気。
空には、銀の月がおぼろにかすんでかかっている。
ハッハッハッハ………
荒い、息。
胸が苦しい。
今遙都を苦しめているのは、肉体の苦しみではなかった。
ぺったりと懐くことは苦手でできなかったが、密かに慕っていた高村が母を殺したのだと知った驚愕。
高村の変貌。
まるで人間ではないような。
そうして、彼が漏らしたことばから、自分の父親もまた人間ではないのだと知った。
(違う。そんなことがあるわけないっ!)
あるはずがない!
人間じゃないだなど。
母が愛した相手が、人間じゃないだなどと荒唐無稽すぎる。
否定しながらも、認めている自分がいる。
理性ではなく、直感だった。
理由はない。
直接母も父も知らない遙都にとって、証明などできはしないことだった。
けれど、心の奥深くで、高村が真実を語ったのだと、認めていた。
すれ違う人々が、遙都を振り返る。
街灯の光を涙が弾く。
どれくらい走っただろう。
だいぶん、高村の家から離れていた。
自然と足は、森に向かっている。
(もう、いたくない。こんなところにいたくない………)
何も信じられない。
誰も、自分の味方などいない。
誰一人。
たったひとり、愛していると言ってくれた後輩の少年。
けれど、彼は、違う。
遙都が求めているのは、彼ではない。
遙都が求めるのは――
(エリィ助けて!)
心が求めているのは、エリィただ一人だった。
深紅の薔薇。
紅薔薇の波間に、青年の姿が浮かびあがる。
「エリィ」
涙に汚れた遙都の顔に、安堵の笑みが浮かぶ。
自分の置かれている状況を忘れ、遙都の足が止まる。
真円の月が闇の中に浮かび上がらせるのは、ハニー・ブロンドも輝かしい美貌の青年。
黒味の強い紅薔薇を、腕一杯に手折っている。
これ以上は動きたくないと、苦痛を訴える足を地面から引き剥がそうと遙都が足掻く。
その時だった。
「ひっ」
遙都が恐怖に息を呑む。
いつの間にか背後から伸びてきた腕が、遙都の肩をきつく握りしめたのだ。
大きく瞠らかれた遙都の瞳から、コンタクトがこぼれ落ちた。
ギリと、鋭い鋼めいた爪が皮膚を傷つける。
痛みに、遙都が目を眇める。
これが、誰の手なのか。確かめるまでもないことだった。
背後から、遙都の正面へと移動したのは、高村である。
血色を宿した瞳が、遙都を見下ろし月光を弾く。
首筋に、冷たい掌の感触を覚えて、遙都が目を閉じた。
「渡さない。マユ、おまえをエルンストに渡しはしない」
喉にも高村の爪が食い込み、息が詰まる。
「マユどうしてだ…………許さない。許さないからなっ!」
赤いくちびるから伸びた犬歯が、月光を弾く。
血色の瞳が光り、遙都から力を奪う。
喉の奥にこもったような笑いをこぼす高村は、遙都の首筋に血塗れたようなくちびるを寄せた。
皮膚が噛み破られ、血が、熱い血が流れ出してゆく。その灼熱。熱が全身を苛み、遙都の意識を炙り焦がす。声を出すことすらもできず、遙都の意志が薄れてゆく。
意識が途切れようとしたまさにその刹那に、遙都は見た。
いつの間に来たのか、高村の背後にエリィが立っている。その緑のまなざしが、血の玉へと変貌を遂げてゆくのを―――。




