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第五章 殻の中の命令

 家に戻ったとき、玄関の結界は正常に働いていた。


 ダニエルは扉を閉め、鍵をかけてから、刻印に指先を触れた。淡い抵抗が返ってくる。外部からの干渉を遮断する術式に異常はない。


 それなのに、家の中の空気は、出かける前とは明らかに違っていた。


 冷たい。


 暖房は動いている。窓も閉まっている。だが、廊下に立っているだけで、皮膚の表面を冷たい指でなぞられているような感覚があった。


「……何かあったか?」


 ダニエルは居間へ向かいながら尋ねた。


「私に聞いているのか?」


 後ろを歩くルシアンが答えた。


「ほかに誰がいる」


「卵だろう」


「卵がしゃべったら、まずお前に報告する」


「賢明な判断だな」


 居間の扉を開ける。


 鞄は、出かける前と同じ場所に置かれていた。革の蓋も閉じたままだ。ダニエルは近づき、鞄の周囲に張った探知の術式を確認した。


 術式は消えていなかった。


 ただし、床に描いた細い線の一部が、灰色に変色している。


 魔力を吸い取られた痕跡だった。


「ずいぶん食欲旺盛だな」


「竜の卵だからな」


「竜は卵のうちから他人の家の魔力を食べるのか?」


「個体差はあるだろう。だが、魔力を必要とするのは確かだ」


 ルシアンは鞄の前にしゃがみ込んだ。


「問題は、何のために吸収しているかだ」


「成長のためじゃないのか?」


「それだけなら、ここまで周囲の魔力を不安定にする必要はない」


 ダニエルは地下室の爪痕を思い出した。


 床を削った三本の溝。鏡に映った黒い影。鞄の中から聞こえた、か細い鳴き声。


 卵の中にいるものは、単に成長しているだけではない。


 何かに反応している。


 ダニエルは返事をせず、鞄の留め具を外した。


 黒い布の中央で、卵が静かに横たわっている。


 赤い筋は、以前よりもはっきりと浮かび上がっていた。殻の表面には細かな亀裂がいくつか見える。まだ殻を割るほど深くはないが、自然に生じた傷には見えなかった。


 ダニエルは手を止めた。


「ひびが入っている」


 ルシアンが身を乗り出した。


「……これは、自然なものではないな」


「強制孵化の影響か?」


「可能性は高い。だが、殻そのものが弱っているわけではない。何かが内側から殻を押し広げようとしている」


「中の竜が?」


「そうかもしれない。だが、意志による動きとは限らない」


 ルシアンは卵の周囲に手をかざした。


 赤い筋が、一瞬だけ強く光った。


 同時に、部屋の照明が明滅した。


 ダニエルは顔を上げる。


 壁に掛かった鏡の表面が波打つように歪んだ。鏡の中の居間は、現実の部屋よりも暗く見える。その奥に、巨大な影が横たわっていた。


 影の輪郭は曖昧だったが、長い首と、折り畳まれた翼のような形が見えた。


 ダニエルが振り返る。


 居間には何もいない。


 再び鏡を見ると、影は消えていた。


「……今のは見えたか?」


「見えた」


「何だった?」


「卵の魔力が、周囲にある魔術的な構造を乱している。鏡に残った魔力が、その影響を受けたんだろう」


「竜の姿が映ったのか?」


「可能性はある。だが、実際の姿を見たわけではない。卵の中の存在が、周囲にどんな影響を及ぼしているのかを、慎重に判断する必要がある」


「慎重に、か」


 ダニエルは鏡を見た。


「今夜の俺に、その言葉は向いていないな」


「自覚があるなら、少しは改善したらどうだ」


「お前が帰ったら考える」


 ルシアンは無視して、鞄の中を調べ続けた。


 ダニエルは工房で見つけた資料をテーブルに広げた。破れた設計図、焼けた紙片、そして革表紙の帳面。どれも完全な情報ではないが、断片を組み合わせれば、術式の構造が見えてくるかもしれない。


 彼は孵化制御装置の刻印を描き写した紙を取り出した。


「これを見てくれ」


 ルシアンが紙を受け取る。


「外周から中央へ向かう線があるだろう。これが、外部から卵へ魔力を流す経路だと思う」


「そうだな」


「中央の三本線は、卵の魔力を制御するためのものだろうか」


「おそらくは。だが、この部分だけでは何を制御するのかまでは分からない」


「工房の帳面には、対象の自律性が予測値を上回ると書かれていた。つまり、竜は術式に従わなかった」


「竜の卵に限らず、意志を持つ存在を魔術で制御するのは難しい。強い魔力を持つ相手なら、なおさらだ」


 ダニエルは別の紙片を広げた。


「ここに、強制孵化術式と書かれている。外から刺激を与えて、孵化を促す仕組みだ」


「ただし、孵化させることと、孵化した竜を従わせることは別の問題だ」


「だから、孵化する前に命令を組み込む?」


「そう考えると、工房にあった装置の役割も説明できる。卵の魔力を吸収しながら、外部からの術式を定着させようとしていたのだろう」


 ダニエルは卵を見た。


 殻の赤い筋が、ゆっくりと脈打っている。


「つまり、こいつは生まれる前から、誰かに命令されようとしているわけか」


「正確には、命令を受け入れるように作り変えられようとしている」


「同じことだろう」


「結果は似ているが、意味は違う」


 ルシアンは紙片を置いた。


「命令を与えるだけなら、対象が命令を拒否する可能性は残る。だが、対象そのものを変えてしまえば、拒否するという選択肢まで奪えるかもしれない」


 ダニエルは黙った。


 悪魔との契約には、似たような仕組みがある。


 人間は自分の意志で契約を結んだつもりでも、契約の条件によっては、気づかないうちに選択肢を狭められていく。最終的には、自分が何を望んでいたのかさえ分からなくなる者もいる。


 だが、今回の術式はそれよりも直接的だった。


 竜が何を望んでいるのかを確かめる前に、望みそのものを封じようとしている。


「……気に入らないな」


「お前は、気に入らないことが多すぎる」


「それでも、今回のは特に気に入らない」


 ダニエルは椅子を引き寄せた。


「術式を取り除けるか?」


「実物を調べなければ、何とも言えない。だが、卵の殻に直接刻まれているわけではなさそうだ」


「なら、どこにある?」


「魔力の流れに紛れ込ませているのかもしれない。外から見えないように、卵の内側へ組み込まれている可能性もある」


「無理に取り除けば?」


「卵を傷つける危険がある」


「何もしなければ、強制的に孵化する?」


「その可能性もある」


 ダニエルは椅子の背にもたれた。


「選択肢がひどいな」


「選択肢というのは、必ずしも人間に都合よく用意されているものではない」


「お前の人生訓は、いつも腹が立つ」


「お前が学ばないからだ」


 卵が小さく震えた。


 ダニエルはすぐに身を起こした。


 殻の赤い筋が、これまでにないほど強く光っている。卵の周囲に張った探知の術式が、次々と消えていった。


「おい、何をしている?」


 もちろん、卵は答えない。


 だが、室内の魔力が急速に流れ始めた。


 壁に刻んだ防護の術式が淡く光る。床に敷いた結界の線が揺れ、照明が明滅した。暖房が低い音を立てて停止する。


 ルシアンが立ち上がった。


「魔力を吸収しているだけではないな」


「どういうことだ?」


「周囲の魔術を引き寄せている。お前の結界も、私の魔力も、区別していない」


「止められるか?」


「無理に止めれば、卵の内部で魔力が暴走するかもしれない」


「なら、どうすればいい?」


「まずは、吸収される魔力を減らす」


 ルシアンは卵から距離を取り、部屋の壁に刻まれた術式を調べ始めた。


「お前の家の結界は、外からの干渉を遮断するためのものだったな」


「そうだ」


「それが今は、内側から魔力を吸われている。外部から侵入するものを防ぐ構造が、卵にとっては魔力を集めるための網になっている可能性がある」


 ダニエルは顔をしかめた。


「俺の結界を利用しているということか?」


「意図的かどうかは分からない。だが、結果としてそうなっている」


「この結界は、数日前に修復したばかりだぞ」


「だからこそ、魔力の流れが安定しているのかもしれない。卵にとっては、吸収しやすい状態なのだろう」


 ダニエルは壁の刻印を見た。


 玄関から家全体へ広がる防護の術式は、外部の干渉を弱め、許可のない存在が侵入するのを防ぐために設計されている。彼が修復した際には、以前よりも魔力の流れを滑らかに整えた。


 それが、裏目に出たらしい。


「結界を切ればいいのか?」


「一部だけだ。家全体の防護を解除する必要はない」


「どこを切る?」


 ルシアンは床の刻印を指した。


「卵の周囲にある魔力の流れを切り離せ。お前の術式なら、局所的に遮断できるはずだ」


 ダニエルは頷き、道具箱から銀の釘を三本取り出した。


 釘には、魔力の流れを一時的に遮断するための刻印が施されている。彼は卵を囲むように床へ打ち込み、短い祈りを唱えた。


 一本目を打ち込む。


 床の刻印が淡く光る。


 二本目。


 卵の赤い筋が強く明滅した。


 三本目を打ち込んだ瞬間、空気が震えた。


 居間の照明が一斉に消えた。


 暗闇の中で、卵が低く鳴った。


 キュウ。


 それは、これまでよりも長く、苦しそうな声だった。


「……今のは」


「分からない」


 ルシアンの声が暗闇に響く。


「だが、魔力の流れは弱まった。これ以上、吸収される量は減るはずだ」


 ダニエルは手探りでランプを点けた。


 卵の表面に、新しい亀裂が増えていた。


 彼は息を呑んだ。


「今の術式で、殻が割れたのか?」


「違う。もともと亀裂が広がりかけていたんだろう。魔力の供給が止まったことで、内部の圧力が変化したのかもしれない」


「それは、孵化が近づいたということか?」


「少なくとも、状態が変化したことは確かだ」


 ダニエルは卵を見つめた。


 殻の亀裂から、赤い光が漏れている。


 その光は、まるで内側から何かが押し返しているように見えた。


「……中の竜を傷つけたくはない」


 口にしてから、ダニエルは自分でも意外に思った。


 ついさっきまで、彼はこの卵を厄介事の塊だと考えていた。モーガンに押しつけられた預かり物であり、家を危険にさらす原因であり、正体の分からない魔術的な問題だった。


 だが、今は違う。


 卵の中にいるものは、自分の意志とは関係なく、何かに作り変えられようとしている。


 そのうえ、怯えている。


 少なくとも、ルシアンの見立てが正しければ。


「なら、傷つけない方法を探すしかないな」


 ルシアンはそう言った。


 皮肉も、いつもの軽い口調もなかった。


 ダニエルは彼を見た。


「お前にしては、まともなことを言う」


「私はいつでもまともだ」


「その発言を聞くたび、世界の基準が心配になる」


「世界の基準は、お前が思っているほど高くない」


 ダニエルは、わずかに笑った。


 それから、工房で見つけた帳面を開いた。


 孵化制御術式についての記録を探す。破れたページの前後を読み、術式の構造と、魔力を供給する経路を確認する。


 いくつかの記述は専門的すぎて理解できなかったが、共通している点があった。


 術式は、卵の魔力を外部から引き出すのではなく、外部の魔力を卵へ送り込むことで作用する。


 そして、送り込まれた魔力が一定量に達すると、孵化を促す反応が起きる。


「この仕組みなら、逆に魔力の流れを止めればいいんじゃないか?」


 ダニエルが言った。


「それだけでは不十分だ」


 ルシアンは帳面を覗き込んだ。


「外部から送り込まれた魔力が、すでに卵の内部に残っている可能性がある。それに、術式が定着しているなら、供給を止めても効果が続くかもしれない」


「なら、術式そのものを取り除く必要がある」


「そうなる」


「どうやって?」


「そこに書いてあるだろう」


 ルシアンが指したのは、帳面の端にある短い記述だった。


 ――外部命令の定着を解除するには、術式の起点を特定し、流入した魔力を逆流させること。


 ダニエルはその文を読み、眉を寄せた。


「逆流させる?」


「命令を送り込んだ経路を逆向きにたどる。術式の起点を見つけ、そこへ魔力を戻せば、定着した命令を切り離せる可能性がある」


「その間、卵はどうなる?」


「分からない」


「またそれか」


「確実な方法が書かれていない以上、分からないものは分からない」


 ルシアンは卵に視線を戻した。


「ただ、時間はあまりない。魔力の流れが不安定なままでは、孵化が予想より早まる可能性がある」


 ダニエルは帳面を閉じた。


 今夜のうちに、術式の構造を理解する必要がある。


 だが、工房に残された資料だけでは、肝心の起点が分からない。装置が壊れたことで、術式の一部も失われている。


 何より、モーガンがどこにいるのか分からなかった。


 彼女なら、卵のことも、強制孵化術式のことも、何か知っているはずだ。


 ダニエルは再び電話をかけた。


 今度も、つながらなかった。


「……くそ」


 彼は携帯電話をテーブルに置いた。


 その瞬間、玄関のほうから音がした。


 コン。


 誰かが扉を叩いた。


 ダニエルは短剣を手に取った。


 こんな時間に訪ねてくる人間に心当たりはない。モーガンなら、呼び鈴を鳴らすだろう。


 コン、コン。


 今度は二度。


 ダニエルは玄関へ向かった。


 扉の向こうから、男の声が聞こえた。


「中にいるのは分かっている」


 低く、抑揚のない声だった。


「竜の卵を渡してもらおう」


 ダニエルは足を止めた。


 背後で、卵の赤い筋が強く光った。


 まるで、その声を知っているかのように。


 ダニエルは短剣を握り直した。


「……どうやら、三日どころか、今夜も静かには眠れないらしい」


 玄関の向こうで、男がもう一度扉を叩いた。


 今度は、先ほどよりも強く。

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