第四章 魔女の工房
モーガンの工房は、街の北側にある古い商店街の外れにあった。
かつては薬草店だったらしい。色あせた看板には、半分消えかけた文字で店名が残っている。表の窓には厚いカーテンが引かれ、扉には三種類の鍵と、ダニエルが見覚えのない魔術的な封印が施されていた。
夜の十一時を過ぎている。周囲の店はすべて閉まり、通りには人影もなかった。
ダニエルは建物の前で足を止めた。
「ここか?」
「そうだ」
ルシアンは看板を見上げた。
「ずいぶんと趣味の悪い場所だな」
「薬草店だった頃からこうだったらしい」
「なら、趣味が悪いのは店ではなく、持ち主ということか」
「本人の前で言ってやれ。喜ぶぞ」
「それは避けたい。あの女は、褒め言葉と侮辱の区別がつかない」
ダニエルは扉に近づき、封印を調べた。
表面に刻まれた術式は、外部からの侵入を防ぐためのものだった。魔力の流れは正常に見える。鍵穴にも、こじ開けたような傷はなかった。
だが、扉の隙間から、かすかに焦げた匂いが漂っていた。
「……妙だな」
「何が?」
「封印が生きている。なのに、中から何かが漏れている」
ダニエルは指先を扉に近づけた。皮膚の表面に、細かな静電気のような感覚が走る。魔術の残滓だ。しかも、モーガンの工房に普段からある魔力とは違う。
封印を破壊せず、内側から無理に術式を動かした痕跡がある。
「誰かが入ったのか?」
「入ろうとした、というほうが正確かもしれない」
ルシアンは扉の上部を見た。
「封印そのものは破られていない。だが、術式の一部が逆向きに働いた跡がある。内側から解除されたのか、外から干渉されたのかは、これだけでは分からない」
「モーガンが自分で解除した可能性は?」
「ある。だが、あの女なら、もっときれいにやるだろう」
「お前、妙にあいつを評価しているな」
「腕のいい魔女と、信用できる魔女は別物だ」
「それには同意する」
ダニエルはポケットから細い金属片を取り出した。先端には小さな刻印がある。鍵穴に差し込むと、内部の留め金がかすかに鳴った。
扉は抵抗なく開いた。
ダニエルはすぐに中へ入らず、入口の床を確認した。
埃の上に靴跡が残っている。
一人分ではない。大きさの異なる足跡が複数あり、店の奥へ向かって続いていた。逆に、外へ戻った足跡はほとんど見当たらない。少なくとも、この入口から出入りした者は少ないようだった。
「何人だと思う?」
「足跡だけなら三人以上。靴底の形が違う」
「人間か?」
「人間の靴を履いたもの、という程度だな」
「そういう言い方をするのはやめろ。帰りたくなる」
「なら、帰ればいい」
「お前を一人で調査させたら、証拠品を全部燃やしかねない」
「証拠品を燃やす趣味はない」
「趣味の問題じゃない」
ダニエルは短剣を抜き、扉を押し開けた。
店内は荒らされていた。
棚が倒れ、薬瓶が床に散乱している。乾燥させた植物の束が踏みつぶされ、壁際の作業台には黒い染みが広がっていた。割れた瓶から漏れた液体が床を濡らし、甘ったるい匂いと刺激臭が混ざり合っている。
窓は内側から板で塞がれていた。その板の一枚が割れ、隙間から冷たい風が入り込んでいる。
店の中央には、木製の椅子が倒れていた。
その背もたれには、深い傷が三本刻まれている。
ダニエルはしゃがみ込んだ。
傷の幅は、家の地下室で見つけた爪痕とよく似ていた。
「……これか」
「何がだ?」
「家の床についていた傷と似ている」
ルシアンも椅子を覗き込んだ。
「竜の仕業だと考えているのか?」
「まだ分からない。ただ、無関係とも思えない」
「卵が家に来る前から、ここで何かが起きていた可能性がある」
「そうだ。だから調べに来た」
ダニエルは傷の縁を指でなぞった。木材が新しく削られている。表面には黒い粉がわずかに付着していた。
彼は粉を小さな紙片に集め、封筒に入れた。
そのとき、ルシアンが店の奥を指した。
「見ろ」
床に、細い線が走っていた。
魔術の刻印だ。床板の隙間に沿って描かれた線は、店の奥にある扉へ続いている。大半は消されていたが、ところどころに青白い光が残っていた。
ダニエルはその線を目で追った。
「地下室か」
「おそらくな」
「罠かもしれない」
「そうだな」
「止めないのか?」
「お前は止められると、余計に先へ進むだろう」
「俺を何だと思っている?」
「判断力のある人間が、判断力を捨てたときの見本」
「帰ったら酒はやらない」
「もともと期待していない」
ダニエルは床の刻印を避け、奥の扉へ向かった。
扉は半開きになっていた。
その向こうから、焦げた匂いが強くなる。
ダニエルは短剣を構え、扉を押した。
地下へ続く階段が現れた。
壁には古いランプが並んでいたが、火はすべて消えている。代わりに、階段の下から青い光が漏れていた。魔術の光だ。ゆっくりと明滅し、石壁に歪んだ影を落としている。
「モーガンは、こんなものを店の地下に作っていたのか」
「魔女の工房なら珍しくはない」
「普通の工房には、もっと普通のものがあると思っていた」
「お前の普通は、ずいぶん退屈そうだな」
ダニエルは階段を下りた。
地下室は、店の規模から想像するより広かった。
壁際には本棚が並び、中央には大きな作業台が置かれている。天井からは銅線のような細い鎖が何本も垂れ下がり、その先端には透明な石が取り付けられていた。
床には複雑な円形の術式が描かれている。
ただし、その一部は破壊されていた。
床板が割れ、石の破片が散らばっている。作業台の脚は一本折れ、壁際の棚には何かが激突したような跡があった。
ここでも争いがあったらしい。
ダニエルは部屋の中央に立ち、全体を見渡した。
「金目のものを探した強盗には見えないな」
「その根拠は?」
「薬品も道具も残っている。棚には銀貨の入った箱まである。それなのに、書類だけが妙に荒らされている」
彼は作業台に近づいた。
引き出しはすべて開けられ、中身が床にぶちまけられていた。小さな瓶や金属製の器具は踏みつけられているが、壁に掛かった装飾品には手がつけられていない。
侵入者は、金品を盗みに来たのではない。
何かを探していたのだ。
「資料か」
「おそらくな」
ルシアンが床に落ちた紙を拾い上げた。
紙面には、細かな文字と図形が描かれていたが、中央部分が破り取られていた。残っているのは、円形の構造と、その周囲に配置された複数の記号だけだ。
「これは結界の設計図か?」
ダニエルが尋ねる。
「似ているが、通常の防護結界とは違う。魔力を外から集め、一定の範囲に固定する構造だ」
「つまり、広い範囲を守るための術式?」
「その可能性が高い」
ルシアンは紙片を裏返した。
裏面には、かすれた文字が残っていた。
ダニエルはランプを近づけ、目を凝らした。
読み取れたのは、いくつかの単語だけだった。
――防護領域。
――魔力供給源。
――安定化。
そして、最後に記された短い一文。
――生体核による出力補正。
「生体核?」
ダニエルは眉を寄せた。
「生き物を、魔力の供給源にするということか?」
「そういう術式は存在する。だが、普通は植物や魔術的な生物の一部を使う。生きた存在そのものを核にするなら、話は別だ」
「別というのは?」
「対象に負担がかかる。術式の設計によっては、生命力を直接消費することになる」
ダニエルは紙片を見つめた。
竜は、周囲の魔力に影響を及ぼす存在だ。もし、この資料が竜に関するものなら、生体核という言葉の意味も変わってくる。
竜の魔力を利用して、広範囲の防護結界を作る。
理屈としては成立するのかもしれない。
しかし、竜の力を制御できるという前提が必要だった。
「これを探していた連中は、竜の卵を知っていたのか?」
「資料を見ただけでは断定できない」
ルシアンは紙片を戻した。
「だが、侵入者が魔術資料を選んで探していたのなら、少なくとも目的を持っていたことは確かだ」
ダニエルは床に散らばる紙を調べ始めた。
術式の断片、薬品の配合表、古い伝承の抜き書き。多くは破れていたり、黒く焼け焦げたりしていた。それでも、いくつかの紙片には文字が残っている。
その一つに、竜の図が描かれていた。
長い首と四本の脚、背中に広がる翼。古い写本に載っている竜の姿に似ていたが、図の周囲には生物学的な注釈が細かく書き込まれている。
卵の殻の構造。
孵化に必要な魔力量。
成長に伴う魔力の変化。
そして、赤い筋のような模様を示す図。
ダニエルは紙片を持つ手に力を込めた。
「やはり、竜の卵について調べていたんだ」
「そう考えるのが自然だな」
「モーガンは竜を隠していた。こいつらは竜を探していた。しかも、ここで何かを探していた」
「話がつながり始めたな」
「つながった先がろくでもない場所でないことを祈るよ」
「祈りはお前の専門だろう」
「お前のような悪魔と話していると、信仰心が試される」
ダニエルは紙片を封筒に収めた。
そのとき、壁際から小さな音がした。
カチリ。
二人は同時に振り返った。
棚の奥に、金属製の箱が置かれていた。蓋は開いている。内部には細い針金と、砕けた透明な石が散らばっていた。
ダニエルは近づき、箱の周囲を調べた。
床に、黒い染みがある。
染みは箱の底から広がり、術式の線に沿って伸びていた。魔力が焼き切れた痕跡だった。普通の火で燃えたのではない。内部から過剰な魔力が放出され、装置そのものを破壊したらしい。
「何の装置だ?」
「魔力の流れを制御するものだろう。ここにある術式の一部を担っていた可能性がある」
「壊れたのは侵入者が来たときか?」
「それも分からない。だが、破損した箇所の周囲に、強い魔力の残滓が残っている」
ルシアンは箱の中を覗き込んだ。
「この装置は、何かを抑え込むために使われていたのかもしれない」
「何を?」
「それを調べるのがお前の仕事だろう」
「お前も一緒にいるんだが」
「私は見物人だ」
「便利な肩書きだな」
ダニエルは装置の残骸を調べた。
箱の底には、小さな刻印があった。円の中に三本の線が交差する形。周囲には文字が並んでいたが、半分ほどが削れている。
その一部を、ダニエルは読めた。
――孵化制御。
彼は動きを止めた。
「ルシアン」
「見えている」
悪魔の声は、いつになく低かった。
ダニエルは刻印を見つめた。
孵化制御。
竜の卵についての資料。生体核による出力補正。魔力を固定する防護結界。そして、孵化を制御する装置。
それぞれは別々の研究にも見える。だが、同じ場所に置かれていた以上、無関係とは考えにくい。
「誰かが、竜を孵化させようとしていたのか?」
「あるいは、孵化の時期を操作しようとしていた」
「同じことじゃないのか?」
「違う。自然な孵化を待つことと、外から無理に孵化を促すことでは、結果が変わる可能性がある」
ダニエルは装置の破片を見た。
「この装置が壊れたせいで、卵の封印も弱まった?」
「可能性はある。ただし、まだ推測だ」
「モーガンが装置を壊したのか。それとも、侵入者が?」
「どちらもあり得る」
ダニエルは立ち上がった。
部屋の隅に、鉄製の扉があることに気づいた。
扉の周囲には、ほかの場所よりも強い魔力が残っていた。表面には焼け焦げた跡があり、鍵穴の周りが歪んでいる。
「ここは?」
「奥に何かあるな」
「質問に答えろ」
「私にも分からない」
ルシアンは扉の前に立った。
「ただし、かなり強い術式が使われていた。内側から閉じるためのものか、外から開けさせないためのものかは、今の状態では判断しにくい」
ダニエルは鍵穴を調べた。
鍵は壊れていた。金属が内側から押し広げられたように歪んでいる。扉の下には、細い隙間があった。その向こうから、冷たい空気が流れてくる。
「地下が、まだあるのか」
「そうらしい」
「この建物、外から見ると二階建ての小さな店なんだが」
「魔女は空間の節約が得意なのだろう」
「家賃の節約にはならないだろうな」
ダニエルは扉に手をかけた。
押してみる。
動かなかった。
ルシアンが横から手を伸ばし、扉の中央に指先を置いた。
金属が低く鳴った。
次の瞬間、扉に刻まれた文字が一斉に光り、青白い光が二人の手元を照らした。
「触るな」
ルシアンが言った。
ダニエルは手を離した。
「先に言え」
「今、言った」
「触る前にだ」
「時間の順序にこだわるのは人間の悪い癖だな」
ルシアンは扉の表面を観察した。
「この術式は、何かを閉じ込めるためのものだ」
「中に何がある?」
「それは分からない」
「さっきから、分からないことばかりだな」
「なら、私の代わりに答えを出してみろ」
ダニエルは扉から距離を取った。
無理に開けるべきではない。術式が破損しているとはいえ、まだ機能している部分がある。ここで不用意に力を加えれば、内部に何があろうと面倒なことになる。
彼は扉の周囲を調べ、壁際に落ちていた紙片を見つけた。
紙の端は焼け焦げていた。残っている文字は少ないが、そこには見覚えのある記号が描かれていた。
孵化制御装置と同じ、円の中に三本の線が交差する刻印。
その下に、短い文が残されている。
――対象が自発的な孵化を拒んだ場合、外部刺激による誘導を行う。
ダニエルは文面を読み直した。
「自発的な孵化を拒んだ場合……?」
「卵が孵化を拒むことを想定していたらしいな」
「生き物が、孵化するかどうかを自分で選べるのか?」
「竜なら、あり得る。卵の段階でも、周囲の魔力を感じ取ることはできるだろう」
ダニエルは紙片を握りしめた。
家で見た卵の姿が浮かぶ。
祈りにも聖水にも反応しなかった黒い殻。内側から聞こえた、か細い鳴き声。彼が近づいたときに強く明滅した赤い筋。
あれは、単なる魔力の反応ではなかったのかもしれない。
卵は何かを恐れている。
そして、誰かがその恐怖を無視して孵化させようとしていた。
「この連中は、竜を道具にするつもりだったのか」
「資料から判断するなら、その可能性が高い」
「防護結界を作るために?」
「おそらくな。竜の魔力を利用できれば、通常の術式では維持できないほど広い範囲を守れる。都市全体を覆うような障壁も、理論上は可能かもしれない」
「理論上、か」
「理論は便利だ。実際に何が起きるかを考えずに済む」
ダニエルはルシアンを見た。
悪魔は皮肉を言っているようで、その声には笑いがなかった。
竜の魔力は強大だ。だが、強大な力を持つことと、人間がその力を安全に利用できることは別の話である。
もし竜が自分の意志を持ち、術式への接続を拒んだらどうなるのか。
もし、強制的な孵化によって生まれた竜が、制御を受け入れなかったら。
資料には、そうした危険についての記述が見当たらなかった。
書かれていないのか、侵入者が持ち去ったのか。それすら分からない。
「残りの資料を探す」
ダニエルは言った。
「ここにあるものは、ほとんど破壊されているぞ」
「だからといって、何もないとは限らない」
彼は作業台の下を調べた。引き出しの裏側、棚の隙間、壁に掛けられた布の裏。侵入者が急いで探したなら、見落とした場所があるかもしれない。
しばらくして、作業台の奥から薄い革表紙の帳面が見つかった。
背表紙は焼け、角が黒く変色している。だが、内部のページはほとんど無事だった。
ダニエルは慎重にページを開いた。
細かな文字が並んでいる。日付と数値、魔力量の測定結果、術式の修正記録。専門的な記述が続いていたが、いくつかの見出しは読み取れた。
都市防護計画。
竜種の魔力特性。
孵化前の魔力誘導。
そして、最後のほうに記された一文。
――対象の自律性が予測値を上回る。従来の拘束術式では制御困難。
ダニエルはページをめくった。
その先は破り取られていた。
「これで十分だな」
「何が分かった?」
「ここにいた連中は、竜の卵を使って都市を守る結界を作ろうとしていた。卵の魔力を集めて、装置に流し込むつもりだったらしい」
「それは、さっきの資料からも推測できた」
「だが、こっちは対象の自律性について書かれている。竜を思いどおりに制御できなかったんだ」
ダニエルは帳面を閉じた。
「だから、孵化を強制しようとした。生まれる前に術式を組み込み、こちらの命令に従わせるつもりだったんじゃないか」
「その可能性はある」
「そして、モーガンが卵を持ち出した」
「そう考えれば、侵入者が彼女の工房を荒らした理由も説明できる」
ルシアンは部屋を見回した。
「ただし、彼女が何を知っていたのかは分からない。卵を救うために持ち出したのか、計画を妨害するためだったのか。あるいは、もっと別の理由があったのか」
「本人に聞くしかないな」
「連絡がつけば、だが」
ダニエルは携帯電話を取り出した。モーガンへ再び発信する。
呼び出し音は鳴らなかった。
代わりに、短い雑音が流れたあと、通話が切れた。
彼は画面を見つめた。
「電源が切れているのか?」
「それだけなら、そう表示されるだろう」
「妨害されている?」
「可能性はある。だが、ここからでは断定できない」
ダニエルは携帯電話をしまった。
そのとき、足元に落ちていた黒い紙片が目に入った。
他の紙とは違い、端が不自然に丸まっている。炎で焼かれたというより、魔力によって一気に炭化したような状態だった。
ダニエルはそれを拾い上げた。
表面に、かすかな文字が残っている。
――強制孵化術式。
その下には、複雑な魔術式の一部が描かれていた。円の中央から複数の線が伸び、外周に刻まれた記号へとつながっている。
ダニエルは、先ほど見た孵化制御装置の刻印と照らし合わせた。
同じ構造だ。
ただし、こちらには制御装置の設計図とは違う記号が加えられている。術式の中央にある三本の線が、外周から内側へ向かって伸びていた。
「これが、卵に組み込まれた術式か?」
「そうかもしれない。だが、紙片だけでは判断できないな」
「強制孵化を行うための術式が、装置とつながっていた。なら、卵にも何か仕込まれている可能性がある」
「実物を調べる必要があるな」
ダニエルは紙片を封筒に入れた。
これ以上の調査は難しかった。
侵入者は重要な資料を持ち去ったか、破壊している。残ったものだけでは、計画の全貌までは分からない。モーガンがどこにいるのかも、卵をどこから手に入れたのかも不明だった。
それでも、ひとつだけ確かなことがある。
あの卵は、偶然ダニエルの家に持ち込まれたわけではない。
誰かが竜を利用しようとしている。そして、その計画に関わる何者かが、今も卵を探している。
ダニエルは地下室の入口へ向かった。
「帰るぞ」
「もういいのか?」
「これ以上ここにいても、答えは出ない。卵の状態も気になる」
「お前の家に置いてきたことを、後悔しているのか?」
「後悔するのは、もう少し情報が揃ってからにする」
「人間にしては合理的だな」
「お前に褒められると、何かの呪いを疑いたくなる」
二人は階段を上がり、荒れた店内へ戻った。
出口へ向かう途中、ダニエルはもう一度、床に刻まれた爪痕を見た。
家の地下室にあったものと同じ形状。
もし、これが竜によるものなら、卵の中にいる存在はすでに何らかの形で外へ影響を及ぼしていることになる。まだ殻を破っていないのに、魔力だけで周囲の環境を変えているのだ。
孵化すれば、何が起きるのか。
その答えを考えるのは、今はやめておいた。
ダニエルは扉を閉め、封印を確かめた。
術式は、相変わらず正常に見えた。
そのことが、かえって不気味だった。
「行くぞ」
彼はルシアンとともに、夜の通りへ出た。
家に戻れば、竜の卵が待っている。
そして、その卵を狙う者たちも、どこかにいる。
モーガンが戻ってくるまで、三日も待つつもりはなかった。




