第三章 卵は祈りを聞かない
キュウ。
ダニエルは鞄を見つめたまま、しばらく動かなかった。
悪魔祓いを生業にしていると、奇妙な音には慣れる。壁の向こうから聞こえるうめき声も、天井裏を這い回る爪音も、誰もいない部屋で響く子供の笑い声も、仕事のうちだ。もちろん、慣れたからといって気分のいいものではない。
しかし、預かり物の鞄から小動物のような鳴き声が聞こえてくるというのは、さすがに初めてだった。
「……犬か?」
自分で口にして、ダニエルは首を振った。
モーガンが犬を預けるなら、そう言うはずだ。いや、あの女なら「犬」と言ってドラゴンを持ち込む可能性すらある。以前、彼女は「小さな使い魔を一晩だけ」と言って、窓から入るたびに家具を燃やす何かを置いていった。
あのときは、カーテンと椅子が犠牲になった。
今回は、まだ何も燃えていない。
それを幸運と呼ぶべきかどうかは、判断が難しかった。
ダニエルは鞄の前にしゃがみ込んだ。革の表面に手をかざす。熱は昼間より強くなっているように感じられた。探知の術式は鞄の周囲に薄い光の輪を作り、異常がないことを示している。
もっとも、その術式は内部にいるものの正体までは教えてくれない。
「モーガン。次に会ったら、まず殴る」
彼は独り言を言いながら、留め具に手を伸ばした。
触るなとは言われた。だが、鞄そのものを開けるなとは言われていない。モーガンは確かに「中を開けても構わない」と言ったのだ。
魔女の言葉を都合よく解釈するのは危険だが、何も分からないまま夜を過ごすのも同じくらい危険だった。
留め具を外す。
革の蓋を持ち上げると、内側から生ぬるい空気が流れ出した。
ダニエルは顔をしかめた。
鞄の中には、黒い布が何重にも敷かれていた。その中央に、卵が収まっている。
ダチョウの卵ほどの大きさだった。
ただし、普通の卵とは似ても似つかない。
殻は黒く、光を吸い込むような鈍い艶があった。表面には赤い筋が走り、細い血管のように枝分かれしている。筋の一部は、ゆっくりと明滅していた。まるで殻の内側に、小さな火が閉じ込められているかのようだった。
卵の周囲には、薄い魔力の膜が張られている。
ダニエルは息を潜め、しばらく観察した。
「……これは、どこの鳥の卵だ」
当然、返事はない。
彼は鞄の蓋を閉じようとした。
そのとき、卵の表面に走る赤い筋が、ひときわ強く光った。
コツン。
殻の内側から、何かが叩いた。
ダニエルは手を止めた。
もう一度。
コツン。
「生きているのか」
彼は反射的に十字架を取り出した。銀の表面に刻まれた聖句を指でなぞり、卵に向けて短い祈りを唱える。
何も起きなかった。
悪魔なら、たいてい何らかの反応を示す。弱いものなら怯え、強いものなら反発する。少なくとも、こちらの存在を認識した気配くらいは返してくる。
この卵は違った。
祈りなど聞こえていないかのように、静かにそこにあった。
「聞こえないのか。それとも、聞く気がないのか」
ダニエルは十字架をしまい、棚から聖水の小瓶を取った。
聖水を直接かけるのは避け、まずは鞄の縁に一滴だけ落としてみる。液体は革に染み込み、何の変化も起こさなかった。次に、卵の表面へごく少量を垂らす。
水滴は黒い殻の上を滑り、布の上に落ちた。
煙も出なければ、殻が割れることもない。
卵は何事もなかったかのように、淡い熱を放っている。
「悪魔ではない。少なくとも、典型的な悪魔では」
ダニエルは鞄の蓋を開けたまま、卵の周囲に手をかざした。
魔力の流れを探る。
最初に感じたのは、鞄の内側に施された封じの術式だった。外へ漏れる魔力を抑え、内部の存在を隠すためのものらしい。だが、その術式は完全ではなかった。卵そのものが持つ力に押され、少しずつ弱まっている。
そして、その卵は周囲から魔力を吸い上げていた。
床に置いた探知の術式が、わずかに揺らいだ。
ダニエルは眉を寄せる。
術式を維持するための魔力が、卵のほうへ引き寄せられている。吸収量はわずかだが、止まる気配がない。
このまま放置すれば、鞄に施された封印だけでなく、彼が設置した探知の術式まで食い尽くされるかもしれない。
「モーガン。三日どころか、今すぐ取りに来い」
彼は携帯電話を手に取った。
連絡先を開き、モーガンの名前を探す。
呼び出し音が一度鳴った。
二度目が鳴る前に、卵が低く震えた。
部屋の空気が変わる。
窓のガラスが、かすかに鳴った。
ダニエルは顔を上げた。
居間の壁に掛けられた鏡。その中に映る部屋の景色が、ほんの一瞬だけ歪んでいた。
鏡の奥で、黒い影が動いた。
ダニエルが振り返る。
もちろん、そこには誰もいない。
再び鏡を見る。映っているのは、古びた居間と、椅子と、テーブル。そして、床に置かれた鞄だけだった。
「……今のは何だ」
電話の向こうで、呼び出し音が途切れた。
留守番電話に切り替わったらしい。
ダニエルは短く息を吐き、通話を切った。
次に聞こえたのは、低いうなり声だった。
家の奥から響いている。
喉の奥で空気を震わせるような、獣の声。
ダニエルは腰のホルスターに手を伸ばし、銀の短剣を抜いた。廊下へ出て、暗い階段を見上げる。二階には寝室と書斎がある。窓は閉めてあり、扉にも異常はない。
うなり声は、もう一度響いた。
今度は、地下からだった。
ダニエルは階段を下りた。
地下室は、悪魔祓いに使う道具や古い書物を保管する場所だった。壁には護符が貼られ、床には魔術の実験で使った円形の刻印がいくつも残っている。照明を点けると、埃をかぶった棚と作業台が浮かび上がった。
異常はすぐに見つかった。
床に、傷がついている。
いや、傷というより、何かで引っかいた跡だった。
石床に深い溝が三本、並んで刻まれている。どれも人間の指でつけられるような幅ではない。溝の端は壁際まで伸び、そこで途切れていた。
ダニエルはしゃがみ込み、短剣の先で溝を確かめた。
石が削れている。
表面に残った粉を指先でつまむ。黒い粒子が付着したが、魔力の痕跡はほとんど残っていなかった。新しい傷だ。少なくとも、昨夜ここを確認したときにはなかった。
彼は地下室を見回した。
棚は倒れていない。道具も散らばっていない。窓はなく、扉には内側から鍵がかかっていた。
何かが侵入した形跡はない。
それなのに、床には巨大な爪痕がある。
「……まさか、あれが原因か?」
ダニエルはすぐに考えを改めた。
卵が何かを呼び寄せた可能性はある。だが、そう断定するには情報が足りない。床の傷だけでは、相手の大きさも正体も分からない。そもそも、卵の中にいるものが何なのかさえ不明だった。
彼は階段を上がり、居間へ戻った。
鞄は開いたままだった。
卵の赤い筋が、先ほどよりも強く明滅している。
ダニエルは携帯電話を取り出し、別の連絡先を開いた。
ルシアン。
人間に相談できない問題が起きたとき、頼る相手として適切かどうかは疑わしい。ルシアン自身が問題の原因になることも少なくない。
だが、彼は悪魔だ。
人間が知らないことを知っている。少なくとも、人間よりは。
呼び出し音が一度鳴る。
『何だ』
すぐに声が返ってきた。まるで、最初から電話のそばにいたかのようだった。
「今、来られるか」
『用件による』
「魔術的な異常が起きている」
『お前の家では日常茶飯事だろう』
「床に巨大な爪痕がついた。鏡に影が映った。鞄の中から何かが鳴いている」
電話の向こうで、沈黙が落ちた。
『最後の一つを、もう一度言え』
「鞄の中から何かが鳴いている」
『何が入っている』
「それを知りたいから呼んでいる」
『お前は本当に、面倒なものを引き寄せる才能があるな』
「引き寄せたのは俺じゃない。モーガンだ」
『その女が絡んでいるなら、なおさら面倒だ』
「同感だ。来い」
『命令するな』
「頼んでいるように聞こえたか?」
『まったく』
「なら、話は早い」
通話が切れた。
ダニエルは携帯電話を見つめた。
「……来るのか、来ないのかくらい言え」
返事はなかった。
彼は鞄のそばに椅子を持ってきて腰を下ろした。卵から目を離さず、短剣をテーブルの上に置く。聖水も手の届く場所に用意した。
数分後、居間の空気が冷たくなった。
暖房は切っていない。窓も閉まっている。それでも、室内の温度がゆっくりと下がっていく。
「勝手に入るなと、何度言えば分かる」
「扉が閉まっていたからな」
声は背後から聞こえた。
ダニエルが振り返ると、ルシアンが窓際に立っていた。黒い上着を着崩し、いつものように人間離れした落ち着きをまとっている。彼は部屋を一瞥し、テーブルの上の鞄へ視線を止めた。
「それか」
「見ただけで分かるのか?」
「いや。お前の顔が、何かを爆発させる五秒前の顔をしている」
「今すぐお前を爆発させることもできるぞ」
「その場合、家の修理代はお前持ちだな」
ルシアンは鞄に近づいた。
卵の赤い筋が、彼の接近に反応するように明滅した。
ルシアンの表情から、軽い笑みが消えた。
彼はすぐには触れず、卵の周囲をゆっくりと回った。目を細め、殻の表面を観察する。指先をかざすと、空気の流れを確かめるように手を動かした。
「誰が持ち込んだ?」
「モーガンだ。三日ほど預かってほしいと言っていた」
「中身を説明せずに?」
「『預かり物』だそうだ」
「魔女というのは、説明責任という概念を知らないらしい」
「お前がそれを言うのか」
「私は説明を求められたことがない」
「求めても答えないからだ」
ルシアンは返事をせず、卵を見つめ続けた。
ダニエルはその横顔を観察した。
ルシアンは、何かを知っているときほど黙る。少なくとも、長い付き合いの中でダニエルが学んだことの一つだった。彼が何も知らないなら、もっと早く皮肉を口にする。
「何だ、これは」
ダニエルが尋ねた。
ルシアンは、すぐには答えなかった。
やがて、卵の上に浮かぶ赤い筋を指先で示した。
「見覚えがある」
「それは助かる。俺は今のところ、食べ物か呪物かの区別もついていない」
「食べるつもりだったのか?」
「お前が黙っていれば、そうする可能性もあった」
「人間は時々、驚くほど愚かなことを考える」
「悪魔に評価されるほど落ちぶれた覚えはない」
ルシアンは鞄の縁に手を置いた。
卵の表面が淡く光る。赤い筋が、ゆっくりと脈打つように明滅した。
その瞬間、ルシアンは手を引いた。
ダニエルは目を細めた。
「何か分かったな」
「分かったというより、確信に近づいた」
「もったいぶるな」
「お前は、少しは待つということを覚えたほうがいい」
「お前が答えるまで待っていたら、俺の家が先に死ぬ」
ルシアンは卵を見下ろした。
「竜だ」
ダニエルは黙った。
数秒後、口を開いた。
「……何だって?」
「竜の卵だ」
「竜?」
「その言葉に別の意味があると思うなら、説明してみろ」
「俺は悪魔祓いだ。竜の卵を預かる仕事は専門外だ」
「悪魔祓いの専門範囲がどこまでなのか、私にも分からなくなってきた」
ダニエルは額を押さえた。
竜。
古い文献には、何度も登場する存在だった。土地の魔力を変化させ、周囲の環境に影響を及ぼす強大な魔法生物。伝承の中では神の使いとして崇められることもあれば、災害そのものとして恐れられることもある。
ただし、現代において竜を実際に目撃したという話は、ほとんどが信用に値しなかった。
大半は誇張された伝承か、魔術的な幻覚か、酒場で退屈した人間の作り話だ。
それが今、彼の居間にある。
黒い殻に赤い筋を走らせた、ダチョウの卵ほどの物体として。
「本当に竜なのか?」
「少なくとも、竜の卵に極めて近い」
「近い?」
「殻の構造、魔力の流れ、周囲から魔力を吸収する性質。どれも一致している。まだ孵化していないから、断定できない部分はあるが」
「竜の卵なら、なぜ俺の家で鳴いている?」
「私が知るわけがない」
「お前は悪魔だろう」
「悪魔は万能ではない。人間が自分たちの無知を認めたくないからといって、何でも私に押しつけるな」
ルシアンは卵から一歩離れた。
「問題は、これが孵化に近づいていることだ」
「どのくらい近い?」
「分からない。だが、内部の生命活動は活発になっている。殻の魔力も不安定だ」
「つまり?」
「長くは持たないかもしれない」
ダニエルは、鞄の中で明滅する赤い筋を見た。
「孵化したらどうなる?」
「竜になる」
「その説明で納得すると思うか?」
「私にとっては十分だ」
「俺にとっては、家が燃える可能性があるかどうかが重要なんだ」
「その可能性はある」
「……帰れ」
「ここは私の家ではない」
「今すぐ帰れと言ったんだ」
「そして私は聞こえなかったことにする」
ダニエルは深く息を吐いた。
ルシアンは、こういうときに限って役に立つ情報を持っている。問題は、その情報が役に立つほど状況が悪化することだった。
彼は卵をもう一度観察した。
「この家の魔力を吸っているのか?」
「正確には、周囲にある魔力だ。お前の結界も、その一部だろう」
「結界を壊している?」
「今のところ、壊すほどではない。だが、卵が成長すれば話は別だ」
「結界が破れたら、何が起きる?」
「外から何かが入ってくるかもしれない。あるいは、中から何かが出ていくかもしれない」
「どちらも聞きたくなかった」
「なら、聞かなければよかった」
ダニエルはルシアンを睨んだ。
そのとき、卵の中から再び音がした。
コツン。
続いて、短い鳴き声。
キュウ。
ルシアンは目を細めた。
「怯えているな」
「竜が?」
「卵の中のものがだ。周囲の魔力を吸収しているのも、成長のためだけではないかもしれない。外からの刺激に反応している。自分を守ろうとしているのだろう」
「誰から?」
「それを調べる必要がある」
ルシアンは鞄の内側を調べた。
黒い布の縫い目を指でなぞり、底の隅に残った細かな粉をつまみ上げる。粉は灰色に近く、光にかざすと微かに青く輝いた。
「これは何だ?」
ダニエルが尋ねた。
「封印の残滓だ。卵を隠すためのものだろう。だが、術式が崩れかけている」
「モーガンが施したのか?」
「可能性はある。ただし、彼女が最初からこれを持っていたとは限らない」
ルシアンは粉を指先でこすり合わせた。
「誰かが、この卵を探しているのかもしれない」
ダニエルは玄関のほうを見た。
モーガンが帰り際に言った言葉が、頭の中によみがえる。
――私が持っていると、見つかる可能性があるの。
そして、夜中に音がしても驚かないこと。
彼女は卵の正体を知っていたのか。それとも、何かを運んでいることだけを知っていたのか。
どちらにしても、説明を省いた理由は明らかだった。
知っていることを話せば、ダニエルが預かるのを拒むと分かっていたのだ。
「モーガンの工房に行く」
ダニエルは言った。
「今からか?」
「明日まで待って、竜に家を乗っ取られるのは避けたい」
「竜はまだ卵の中だ」
「お前は、卵の中にいるから安全だと考えているのか?」
「そうは言っていない」
「なら、行く」
ダニエルは鞄の蓋を閉じた。ただし、留め具はかけなかった。中の卵を刺激しないよう、布を元の位置に戻す。
ルシアンは玄関へ向かうダニエルを見て、肩をすくめた。
「魔女の工房には、罠があるかもしれない」
「分かっている」
「呪いもあるだろう」
「分かっている」
「それに、竜の卵を狙っている連中が待ち構えている可能性もある」
ダニエルは振り返った。
「お前は、俺を止めたいのか。それとも不安を煽りたいだけなのか?」
「後者だ。前者なら、もっと効果的な方法を使う」
「性格が悪いな」
「今さら気づいたのか?」
ダニエルはコートを手に取り、玄関の鍵を確かめた。
その背後で、鞄の中から小さな音がした。
コツン。
二人は同時に振り返った。
卵の赤い筋が、暗い部屋の中でゆっくりと明滅している。
まるで、二人の会話を聞いていたかのように。
「……留守番をさせて大丈夫か?」
ダニエルが尋ねると、ルシアンは卵を見つめたまま答えた。
「大丈夫だと保証できるものは、この世にほとんどない」
「役に立つ返事をしろ」
「なら、連れていけばいい」
「この状態で?」
「ここに置いておくよりは、私の目の届くところにあるほうがいい」
ダニエルは鞄を見た。
それから、ルシアンを見た。
「お前が持て」
「断る」
「さっき連れていけばいいと言っただろう」
「提案と実行は別だ」
「お前、本当にいつか殴るからな」
「その前に、竜が生まれるかもしれないな」
ダニエルは返す言葉を失った。
モーガンの工房へ向かう理由は、もう十分だった。
卵の正体を知ること。封印が崩れている原因を突き止めること。そして、誰がこの竜を探しているのかを調べること。
どれも、明日の朝まで先延ばしにできる問題ではなかった。
ダニエルは玄関の扉を開けた。
「行くぞ、ルシアン」
「私はお前の助手ではない」
「なら、今夜は見物人だ」
「報酬は?」
「生きて帰れたら、酒を一本やる」
「安いな」
「なら、自分で買え」
ルシアンは不満そうに眉を上げたが、結局、ダニエルの後に続いた。
扉が閉まる直前、居間の隅に置かれた鞄が、かすかに震えた。
その中で、まだ生まれていない竜が、小さく鳴いた。




