第二章 預かり物
翌日の夕方、ダニエルは台所で焦げたトーストを削り落としていた。
朝食をまともに取るつもりはなかった。昨夜の仕事が長引いたせいで睡眠時間は四時間にも満たず、昼過ぎまで寝た結果、食事の時間がすべて後ろにずれていた。今さら昼食を作る気にもなれず、かといって夕食には早い。そこで、パンを焼いてコーヒーを淹れるという、料理と呼ぶにはあまりにもささやかな行為に落ち着いた。
問題は、トースターが故障しかけていることだった。
「……次に悪魔祓いの報酬が入ったら、こいつを買い替えるか」
黒くなったパンを皿に移しながら、ダニエルはつぶやいた。
悪魔祓いの仕事は、世間が想像するほど儲からない。依頼人が貧しければ料金を取れないこともあるし、教会からの依頼には妙な名目の経費が差し引かれる。悪魔に憑かれた人間が、必ずしも金持ちとは限らないのだ。
そして、悪魔を祓ったからといって、悪魔が壊した家具や壁の修理代を誰かが負担してくれるわけでもない。
昨夜の地下室も、床に刻まれた儀式の跡と、依頼人が倒れた際に割れた椅子のことで揉めているに違いなかった。
ダニエルは焦げたパンを一口かじり、無言で噛んだ。
味は、炭に近かった。
そのとき、玄関の呼び鈴が鳴った。
ダニエルは時計を見た。午後五時十二分。
この時間に訪ねてくる人間に心当たりはなかった。教会の関係者なら、たいてい事前に連絡を入れる。依頼人なら、呼び鈴を鳴らす前に何度か扉を叩くことが多い。
そして、ルシアンなら呼び鈴を使わない。
そもそも、あの悪魔は呼び鈴というものを人間の無意味な儀式だと考えている節があった。ダニエルの家に入る際、許可を求めるという発想そのものが欠落している。
呼び鈴がもう一度鳴った。
「今行く」
ダニエルはパンを皿に置き、玄関へ向かった。
扉の向こうにいたのは、黒いコートを着た女だった。
肩まで伸びた暗褐色の髪。年齢を判断しにくい顔立ち。薄い唇には、何かを面白がっているような笑みが浮かんでいた。
片手には、古びた革の鞄を提げている。
「久しぶりね、ダニエル」
「モーガン」
「その顔は何? 歓迎されていないのは知っているけれど、もう少し愛想よくしても罰は当たらないと思うわ」
「魔女に愛想を振りまくと、あとで面倒なことになると学んだんだ」
「ずいぶん昔の話を根に持っているのね」
「お前が俺の寝室にヤギを出現させた件なら、昨日のことのように覚えている」
「ヤギはかわいかったでしょう?」
「朝の四時にベッドの上で糞をする動物を、俺はかわいいとは呼ばない」
モーガンは声を立てて笑った。
彼女は魔女だった。
ただし、森の奥で呪いの薬を煮込み、通りかかった旅人を蛙に変えるような、絵本に出てくる魔女とは少し違う。少なくともダニエルが知る限り、モーガンは蛙に変えた人間を元に戻す仕事のほうが多かった。
本人の説明によれば、原因の大半は本人の不注意であり、残りは本人の好奇心だった。
ダニエルはその説明を一度も信用したことがない。
「それで、今日は何の用だ?」
「お願いがあるの」
「帰れ」
「まだ何も言っていないわ」
「お前がお願いを持ってくるときは、たいてい俺の家か、俺の身体か、俺の寿命のどれかが危険にさらされる」
「今回は家だけよ」
「安心材料としては最低だな」
モーガンは革の鞄を持ち上げた。
「これを預かってほしいの」
ダニエルは鞄を見た。
使い込まれた茶色の革製で、両側の留め具には細かな傷がついている。古いが、粗末な品ではない。持ち手の付け根は補修されており、底には乾いた泥がこびりついていた。
奇妙なのは、鞄の周囲に漂う空気だった。
何かがそこにある。
目に見えるものではない。匂いでもない。魔術に触れた人間なら、皮膚の表面をかすめる微弱な違和感として感じ取れる類いのものだった。
ダニエルは無意識に右手をわずかに動かした。
袖口の内側には、護符が縫い込まれている。
「中身は?」
「預かり物」
「それは鞄の説明だ。中身を聞いている」
「大切なものよ」
「大切なものなら、自分で持っていろ」
「私が持っていると、見つかる可能性があるの」
モーガンの声から、わずかに笑いが消えた。
ダニエルは彼女の顔を見た。
さっきまでの軽薄な態度は残っている。だが、目だけは違った。冗談を言っている人間の目ではない。
「誰に見つかる?」
「その説明は、今はできないわ」
「できないのか、したくないのか」
「どちらも」
「正直で結構」
ダニエルは扉の外に視線を向けた。
通りには、夕方の薄い光が残っていた。向かいの家の窓からテレビの音が聞こえ、遠くで車が通り過ぎていく。いつもと変わらない住宅街だ。
少なくとも、表面上は。
「教会に持ち込めない事情があるのか?」
「教会に預けたら、二度と戻ってこないでしょうね」
「教会が何でも没収する組織だと思っているなら、ずいぶん偏見があるな」
「あなたは、そういう冗談を真顔で言うから困るのよ」
「冗談に聞こえたなら、俺の演技力も捨てたものじゃない」
モーガンは鞄を差し出した。
ダニエルは受け取らなかった。
「期限は?」
「数日」
「具体的には?」
「三日か四日」
「それは期限じゃない。天気予報だ」
「遅くとも四日以内には戻るわ」
「中身が危険物なら?」
「危険物ではないわ」
「その答えを信じろと?」
「あなたの家に置いておくのが一番安全なの」
その言葉が、ダニエルの注意を引いた。
「どうしてそう思う?」
「あなたの家には、あなたの結界があるでしょう」
モーガンは玄関の枠に目を向けた。
扉の上部には、古い木材に紛れるように細い刻印が施されている。外から見ただけでは、傷か木目の一部にしか見えない。魔術的な感覚を持つ者なら、そこに張り巡らされた防護の構造を感じ取れるはずだった。
「最近、強化したと聞いたわ」
「誰から?」
「噂は足が速いのよ」
「噂に足があるなら、そいつを捕まえて歩かせてやりたいな」
「相変わらずね」
モーガンは鞄をもう一度差し出した。
「お願い、ダニエル。何も聞かずに預かってくれるだけでいいの」
「お前の言う『何も聞かずに』ほど、信用できない言葉もない」
「中を開けても構わないわ。ただし、触らないこと」
「中身を見てもいいのに、触るな?」
「ええ」
「それは普通、逆じゃないか?」
「普通のものではないからよ」
ダニエルはしばらく黙っていた。
引き受ける理由はない。
むしろ、断る理由ならいくらでもあった。モーガンは情報を隠している。預ける物の正体を明かさず、誰に追われているのかも説明しない。危険ではないと言いながら、触るなと釘を刺す。
悪魔祓いの経験から言えば、こういう話はたいてい、扉を閉めたあとに後悔することになる。
それでも、彼女の声には焦りがあった。
モーガンは気まぐれで危険を招くことはあっても、理由もなく怯える女ではない。彼女が何かを恐れているのなら、それなりの理由がある。
その理由を聞き出すには、まず鞄を預かるしかないのかもしれなかった。
ダニエルは小さく息を吐いた。
「三日だ」
「四日以内と言ったでしょう?」
「俺は三日と言った。三日以内に戻ってこなければ、鞄を開ける。中身が危険なら教会に引き渡す」
「あなた、昔から交渉が下手ね」
「お前と交渉している時点で、俺はすでに大きな譲歩をしている」
モーガンは満足そうに微笑んだ。
「ありがとう」
「礼は中身を回収してから言え」
ダニエルはようやく鞄を受け取った。
革の持ち手が手のひらに触れた瞬間、彼は眉をひそめた。
重い。
見た目から想像したより、ずっと重かった。中に金属製の道具でも詰めているのだろうか。鞄を持ち上げた手に、奇妙な温かさが伝わってきた。
火に近づけた石のような、鈍い熱だった。
「……これは何だ?」
「言ったでしょう。預かり物よ」
「質問を変える。どうして温かい?」
「気のせいじゃない?」
「俺の手が勝手に発熱していると?」
「そういう体質になった可能性もあるわね。悪魔祓いを続けていると、何が起きても不思議じゃないもの」
「お前の口を閉じる呪文はないのか?」
「あるけれど、今使う必要はないわ」
モーガンはコートの襟を整えた。
それから、ふと思い出したように付け加えた。
「もう一つ。夜中に音がしても、驚かないこと」
ダニエルの表情が止まった。
「今、何と言った?」
「音がするかもしれないと言ったの。驚かないで」
「中に何が入っている?」
「さあ」
「モーガン」
「本当に、まだ分からないのよ」
彼女の返事は、さっきまでよりも少しだけ慎重だった。
ダニエルは鞄を見下ろした。
革の表面に、細い傷が何本も走っている。そのうちの一本は、引っかいたように深く、持ち手の付け根から底のほうへ斜めに伸びていた。
爪の跡に見えなくもない。
「……お前、これをどこで手に入れた?」
「それは、あなたが知る必要のないこと」
「俺の家に置くんだぞ」
「だからこそ、あなたには知っておいてほしいこともあるわ」
「今のところ、何一つ教えてもらっていないが」
「それもそうね」
モーガンは悪びれずに笑った。
ダニエルは扉を閉めるべきだった。
今すぐ鞄を返し、彼女の後ろ姿を見送って、焦げたトーストの残りを捨て、できれば何もなかったことにする。それが最も賢明な選択だった。
しかし、手の中の鞄から伝わる熱は消えていなかった。
彼は魔術の気配を探った。
鞄の周囲には、かすかな魔力がまとわりついている。だが、それは呪物によくある濁った気配とは違っていた。何かを攻撃しようとする意思も、こちらを拒むような反応もない。
ただ、そこに存在している。
そして、妙に生き物じみていた。
「四日だぞ」
「ええ」
「それ以上は待たない」
「分かっているわ」
「それと、次に俺の家へ何かを持ち込むときは、事前に説明しろ」
「次があればね」
モーガンはそう言って踵を返した。
階段を下り、通りへ出る。彼女は一度も振り返らなかった。
ダニエルは扉の前に立ったまま、その背中が角を曲がって見えなくなるまで見送った。
それから、手の中の鞄に視線を戻した。
「……ろくなことにならない」
彼は扉を閉め、鍵をかけた。
続けて、玄関に施した結界を確かめる。刻印に指先を近づけると、薄い抵抗が返ってきた。防護は正常に働いている。外部からの干渉を遮断し、許可のない存在が家の中へ入り込むことを防ぐ仕組みに異常はない。
それでも、鞄は温かかった。
ダニエルはそれを台所のテーブルに置いた。
革底が木の表面に触れると、小さな音がした。
コトン。
中で何かが動いたような音だった。
ダニエルは動きを止めた。
数秒待ったが、何も起きない。
「……気のせいだ」
彼は自分に言い聞かせるようにつぶやき、鞄から離れた。
人間は、理解できないものに遭遇すると、まず気のせいだと考える。悪魔祓いを職業にしている人間でさえ、その習性から完全には逃れられないらしい。
ダニエルは皿に残ったトーストを見た。
すっかり冷めている。
彼はパンをゴミ箱に捨て、コーヒーを飲み干した。
その間、鞄は何も言わなかった。
少なくとも、人間の言葉では。
日が暮れるころ、ダニエルは鞄を居間の隅へ移した。
中身を確かめるべきだという考えは、何度も頭をよぎった。だが、モーガンの「触らないこと」という言葉が引っかかっていた。彼女の頼みを聞く義理はない。それでも、魔術的な封印が施されている可能性を考えれば、むやみに開けるのは危険だった。
悪魔祓いの仕事で何度も学んだことがある。
呪物は、見た目が地味なほど厄介なことがある。
そして、厄介なものほど説明書がない。
ダニエルは鞄の周囲に簡単な探知の術式を置いた。鞄そのものに触れず、内部から漏れる魔力の変化を検知するためのものだ。何かが動けば、糸のように張った術式が反応する。
これで十分とは言えないが、何もしないよりはましだった。
彼は時計を確認した。
午後七時四十分。
モーガンが帰ってから、二時間半が過ぎていた。
鞄は静かだった。
ダニエルは夕食を作り、食べ、食器を洗った。書斎で仕事の記録を整理し、教会から届いていた依頼の通知に目を通した。どれも急ぎではなかったので、返信は翌日に回すことにした。
午後十時を過ぎるころには、いつもの夜が戻っていた。
家の中は静かで、窓の外では風が木々を揺らしている。玄関の結界は正常で、探知の術式にも変化はない。
ダニエルは居間の椅子に腰を下ろし、読みかけの本を開いた。
数ページ進んだところで、ふと顔を上げる。
鞄の置かれた隅を見た。
何もない。
「……俺は疲れている」
そう結論づけて、本に視線を戻した。
そのときだった。
コツン。
小さな音がした。
ダニエルは本を閉じた。
音は、鞄の中から聞こえたように思えた。
彼は立ち上がり、ゆっくりと近づいた。探知の術式に異常はない。鞄から漏れる魔力にも、大きな変化は見られなかった。
それでも、今度ははっきりと聞こえた。
コツン。
何かが内側から、革の壁を叩いている。
ダニエルは腰のホルスターから小さな銀の十字架を取り出した。武器というには頼りないが、相手が悪魔なら反応を見ることはできる。
十字架を鞄に近づける。
何も起きなかった。
祈りの言葉を短く唱える。
やはり、反応はない。
「悪魔ではない、ということか」
彼は十字架を下ろした。
その直後、鞄の中から、かすかな音が響いた。
キュウ。
ダニエルは固まった。
それは、何かが鳴いたような音だった。
小さく、か細く、喉の奥から絞り出したような声。
彼は鞄を見つめた。
数秒後、もう一度。
キュウ。
今度は、はっきり聞こえた。
「……モーガン」
ダニエルは額を押さえた。
「お前、いったい何を預けていったんだ」
返事はなかった。
鞄の中から、もう一度、小さな鳴き声がした。




