第一章 いつもの仕事、いつもの悪魔
午前一時十七分。
ダニエル・クロウは、地下室の床に描かれた円を見下ろしていた。
円の内側には、黒い染みが広がっている。古いコンクリートに染み込んだ血ではない。少なくとも、人間の血液ではなかった。鼻を刺すような腐臭と、濡れた鉄のような臭いが混ざり合い、地下室の空気を不快なものに変えている。
壁際では、四十代の男が椅子に縛りつけられていた。
男の頭は垂れ下がり、肩が不規則に震えている。口から漏れる呼吸音は、喉の奥に何かを詰まらせているようだった。
「最後にもう一度聞く」
ダニエルは袖口をまくり、床に置いた聖書を拾い上げた。
「出ていく気はあるか?」
男が顔を上げた。
いや、正確には、男の顔を使っている何かが、こちらを向いた。
濁った眼球が、ゆっくりとダニエルを捉える。口の端が耳の近くまで裂けるように吊り上がった。人間の顔がそんなふうに動くのは、解剖学的にいえば難しい。神学的にいえば、もっと面倒だった。
『お前が命令するのか』
声は男のものではなかった。複数の喉が同時に発声しているような、ざらついた低音だった。
「俺が質問して、お前が答える。会話っていうのはそういうものだ」
『貴様は何も理解していない』
「それはよく聞く。もう少し新しい台詞を用意しておいてくれ」
悪魔の口から黒い液体が垂れた。床に落ちたそれは、音もなく煙を上げる。
ダニエルは眉をひそめた。
今回の依頼は、近隣の教区から回ってきたものだった。依頼主の話では、男は三日前から奇妙な言動を繰り返し、家族に暴力を振るい、壁に意味不明な文字を書きつけるようになったという。医師は精神疾患を疑い、警察は家庭内暴力として介入した。しかし、男の寝室の天井に逆さまの足跡が現れた時点で、家族は別の専門家を探すことにしたらしい。
その専門家がダニエルだった。
世の中には、仕事を選べる人間と選べない人間がいる。ダニエルは後者だった。もっとも、前者だったとしても、悪魔祓い以外にまともな職歴がないのだから、選択肢は大して変わらなかっただろう。
男の家族は二階に避難させてある。警察には、地下室から聞こえる音について説明を求められたら、配管の故障だと答えるよう伝えておいた。
配管は便利だ。
人間の理解を超える音が鳴っても、壁から血が流れても、とりあえず配管のせいにできる。少なくとも、警察が報告書を書く間くらいは。
ダニエルは聖書を開いた。
「お前の名を告げろ」
『名を知ったところで何ができる』
「請求書に書ける。悪魔祓い一件、追加料金あり。原因、態度が悪い」
悪魔が笑った。
男の喉から出たとは思えない笑い声だった。地下室の裸電球が明滅し、椅子の脚が床を引っかく。男の身体が大きく反り返った。革ベルトが軋み、金属の留め具が悲鳴を上げる。
ダニエルは一歩も退かなかった。
退けば、悪魔はそれを恐怖と解釈する。悪魔というのは、人間以上に相手の弱みを探すのが好きな連中だった。もっとも、人間も似たようなものだ。違いは、悪魔がそれを隠そうとしないことくらいだった。
「お前は招かれていない。ここにいる理由もない。この男の身体から出ていけ」
『この男が私を呼んだ』
「呼んだことと、居座っていいことは別だ」
『彼は助けを求めた』
「それなら、まず助ける相手を間違えたな」
ダニエルは床の円に目を落とした。
白い粉で描いた線は、地下室の壁際まで途切れることなく続いている。四隅には小さな銀の釘を打ち込み、円の内側には塩と聖油を混ぜた印を置いた。悪魔の逃げ道を塞ぐためのものだ。
もっとも、こうした儀式には絶対という言葉が似合わない。準備を怠れば命を落とすし、準備を整えても命を落とすことはある。神学の教科書はそのあたりを曖昧に書く。著者が実際に悪魔と向き合ったことがないからだろう。
ダニエルはラテン語の祈りを唱え始めた。
男が叫んだ。
最初は怒りだった。次に嘲笑が混ざり、やがて声は助けを求めるものへ変わった。
『痛い』
ダニエルは詠唱を止めなかった。
『やめろ。頼む。私はここにいたくない』
その言葉だけなら、信じてやりたくなる。
だが、悪魔は嘘をつく。真実を語ることもあるが、それは嘘を信じさせるために必要な場合だけだ。ダニエルは長年の経験から、その程度の区別はつけられるようになっていた。
「お前はこの男の身体を使っている。本人の意思に反してな」
『彼は私を呼んだ』
「呼んだのは一度だ。契約を結んだわけじゃない」
悪魔の動きが止まった。
ほんの一瞬だった。
だが、ダニエルには十分だった。
男の家族が話していた内容を思い出す。男は亡くなった娘の部屋に閉じこもり、何日も眠らずに過ごしていた。娘の死後、男は何度も「もう一度だけ話したい」と口にしていたという。
助けを求めた。
その言葉は、必ずしも悪魔を呼び出す儀式を意味しない。強い悲しみや執着に引き寄せられるものはいる。だが、呼び寄せられたことと、招待されたことは同じではなかった。
悪魔は男の絶望につけ込んだ。男が何かを呼んだのだとしても、身体を明け渡す契約を交わした証拠はない。
ダニエルは詠唱の調子を変えた。
相手を追い払うだけでは足りない。悪魔が足場にしているものを切り離す必要があった。
「この男の悲しみは、お前のものじゃない」
『黙れ』
「この男の記憶も、お前のものじゃない」
『黙れと言っている!』
男の身体が椅子ごと跳ね上がった。
地下室の照明が消えた。
暗闇の中で、ダニエルは聖書を左手に持ち直した。右手には、聖油を入れた小瓶がある。視界を失った程度で祈りを忘れるほど、彼は信心深くもなければ愚かでもなかった。
壁の向こうで、何かが爪を立てた。
天井から埃が落ちる。
悪魔の声が耳元で響いた。
『お前は何を失った?』
ダニエルは答えなかった。
『お前も誰かを救えなかったのだろう』
その言葉には、わずかな変化があった。男の声でも悪魔自身の声でもない。ダニエルが忘れようとしている何かを、正確に探り当てたような響きだった。
悪魔は人の弱みを見つけるのが得意だ。
それが本当に理解しているからなのか、何千年もかけて人間を観察してきたからなのか、ダニエルにはわからない。どちらにしても、ありがたい才能ではなかった。
「お前の仕事は心理分析じゃない」
彼は聖油を床に振りかけた。
暗闇の中で、円の線が淡く光った。
「出ていけ」
最後の祈りを唱える。
声は震えなかった。震えたところで効果が変わるわけではないが、悪魔に余計な情報を与える必要もない。
男が息を吸い込んだ。
次の瞬間、地下室を満たしていた圧力が消えた。
照明が戻る。
男の身体は椅子に崩れ落ちていた。肩が上下し、喉から荒い呼吸が漏れる。眼球は元の位置に戻り、口元から黒い液体は消えていた。床の染みだけが、先ほどまでの出来事を主張している。
ダニエルはしばらく男を観察した。
「聞こえるか?」
男がかすかにうなずいた。
「名前は?」
男は自分の名前を答えた。
「今日が何日かわかるか?」
答えは正しかった。
ダニエルは男の手首に触れ、脈を確認した。速いが、安定している。瞳孔の反応も正常だった。ひとまず、身体は本人に返ったらしい。
「家族が上にいる。医者にも診てもらえ。悪魔がいなくなったからって、身体まで新品になったわけじゃない」
男は震える唇を開いた。
「娘は……」
ダニエルは一瞬だけ黙った。
地下室には、まだ聖油の臭いが残っている。床の黒い染みは乾き始めていた。
「俺には死者を連れ戻す力はない」
男の顔が歪んだ。
「だが、あれはお前の娘じゃない。少なくとも、あの声を借りていたものはな」
それ以上の慰めは口にしなかった。適当な希望を与えるのは簡単だ。だが、希望を売る商売はもう十分にある。教会も、占い師も、死者と話せると主張する連中も。
ダニエルは結束を解き、男を椅子から助け起こした。
悪魔祓いは終わった。
請求書を書く時間だった。
*
自宅に戻った頃には、午前二時を回っていた。
ダニエルの家は、街の中心部から少し離れた古い住宅街にある。二階建てのレンガ造りで、外壁の一部は雨に削られ、玄関の階段にはひびが入っている。庭には雑草が伸び、郵便受けは数年前から傾いたままだ。
不動産業者なら、修繕の必要な物件と呼ぶだろう。
悪魔なら、近寄りたくない家と呼ぶ。
ダニエルにとっては、家賃の心配をせずに済む程度には自分のものだった。それ以上の価値を求めるつもりはない。
玄関の鍵を開ける前に、彼は扉の枠に指を滑らせた。
目には見えない線が、そこに張られている。
結界。
正確には、外部からの干渉を弱め、招かれざるものが勝手に入り込むのを防ぐための術式だった。完璧ではない。完璧な結界など存在しないし、そう主張する術者がいたら、そいつは詐欺師か、まだ自分の失敗を経験していない人間だ。
指先に違和感はなかった。
扉を開ける。
「遅かったな」
居間から声がした。
ダニエルは目を閉じた。
「俺の家に勝手に入るなと、何度言えば理解できる?」
「君が理解できるまで」
居間のソファに、ルシアンが座っていた。
黒い髪を後ろへ流し、仕立てのいいスーツを着ている。夜中の二時に他人の家でくつろぐ男としては、妙に身なりが整っていた。片手にはダニエルのグラス、もう片方の手にはウイスキーの瓶がある。
瓶は半分ほど減っていた。
ダニエルは上着を脱ぎながら、その量を確認した。
「それ、俺の酒だろ」
「君の家にあった」
「俺の金で買った酒だ」
「人間は所有権にずいぶん執着するな」
「悪魔は窃盗を哲学に昇華するのか?」
「昇華というより、合理化だ」
ルシアンはグラスを掲げた。
「飲むか?」
「自分の酒を出せ」
「私の酒は君の好みに合わない」
「お前の酒は消毒液みたいな味がする」
「君の舌は安物に慣れすぎている」
ダニエルは返事の代わりに瓶を取り上げ、残量を確かめた。
まだ半分ある。
許容範囲だ。悪魔が家に入り込んでいる状況で酒の残量を気にするのは、優先順位として間違っている気もしたが、人生には他に気にするべきことが多すぎる。
彼はキッチンへ向かい、棚から別のグラスを取り出した。
「今日はどうだった?」
ルシアンが尋ねた。
「悪魔を一匹追い出した。人間を一人返した。床を汚した。報酬はまだ受け取っていない」
「充実した夜だ」
「お前は?」
「夕食を食べた」
「何を?」
「人間が聞いて喜ぶようなものではない」
「その答えを聞くたびに、俺はお前の食生活について考えないようにしている」
「賢明だな」
ルシアンはソファの背にもたれた。
彼が悪魔であることは、疑いようがない。人間の姿を取っているが、細部には人間と異なるところがある。暗い場所で目がわずかに光を返すこと。鏡に映る輪郭が、ときどき実物と一致しないこと。そして、彼が部屋にいると、空気の温度とは別の何かが変化すること。
ダニエルは、それらを初めて見た時のことを覚えている。
覚えているが、思い出したいとは思わない。
ルシアンとの関係は、契約でも友情でもない。少なくとも、両者が同意できる呼び名はまだ見つかっていなかった。ルシアンは必要以上に家へ来る。ダニエルは必要以上に追い返さない。お互いに相手を信用していないが、相手が何をするかについては、ある程度予測できる。
人間関係としては、悪くない部類だった。
基準をどこに置くかという問題はある。
「結界が少し変わったな」
ルシアンが言った。
ダニエルはグラスを持つ手を止めた。
「どこが?」
「玄関。外側の干渉を弾く術式が強くなっている。前に来た時より、少しだけ」
「先週、補修した」
「何かあったのか?」
「先週、何かあったかどうかを俺が覚えていると思うか?」
「君の記憶力は悪くない。都合の悪いことを忘れる才能があるだけだ」
「それを記憶力と呼ぶなら、お前は礼儀を知らない」
「悪魔に礼儀を求めるとは。人間の期待は時に残酷だな」
ダニエルはグラスを口に運んだ。
結界を補修したのは、数日前に玄関の外で見つけた奇妙な痕跡がきっかけだった。扉の下に、黒い灰のようなものが細く残っていた。魔術的な反応は弱かったが、自然に付着したものとは思えなかった。
何者かが侵入を試みたのかもしれない。
あるいは、単なる汚れだったのかもしれない。
ダニエルはその痕跡を採取し、術式を調べ、結界を補修した。それで終わりにした。調べても正体がわからないものはある。すべての謎に名前をつけようとすれば、眠る時間がなくなる。
ルシアンはグラスの中身を揺らした。
「今夜の相手は?」
「男に取り憑いた悪魔。娘を失った悲しみに付け込んでいた」
「よくある話だ」
「お前たちの業界は、もっと独創的な手口を考えるべきだな」
「人間の欲望が変わらないのだから、商売の形も変わらない」
「お前たちが商売と呼ぶものを、俺たちは犯罪と呼ぶ」
「立場の違いだ」
「法廷で使ってみろ。裁判官が気に入るかもしれない」
「裁判官の魂に興味はない」
「助かった。俺もお前が裁判官に気に入られるところは見たくない」
ルシアンは笑った。
彼の笑い方は、人間のものに似ている。似ているだけで、同じではない。目元はほとんど動かず、口元だけがわずかに歪む。初めて会った時、ダニエルはそれを不気味だと思った。今では、彼が本当に面白がっている時と、相手をからかうために笑っている時の違いくらいはわかる。
今の笑いは、後者だった。
「それで、君はその男を救ったわけだ」
「仕事だからな」
「信仰のためではなく?」
「請求書を送る相手がいる」
「神への奉仕にしては世俗的だ」
「神は請求書を払わない」
「払ってくれるなら、私も改宗を考える」
「お前が改宗したら、教会が燃える」
「それはそれで、歴史に残るだろう」
ダニエルはグラスを置いた。
こうした会話をしていると、ルシアンが悪魔であることを忘れそうになる。もっとも、彼が人間だったなら、ここまで頻繁に会うこともなかっただろう。人間の知人は、たいてい自分の問題を持ち込む。ルシアンは問題そのものを持ち込む代わりに、他人の問題を面白がる。
それも迷惑ではあったが、少なくとも予想はできた。
「明日は何をする?」
ルシアンが尋ねた。
「寝る」
「それだけか?」
「悪魔祓いの翌日に睡眠を取る。人間の身体には、そういう機能が必要なんだ」
「君は身体の維持に熱心だな」
「死んだら仕事ができない」
「死んでも仕事を続ける連中はいるだろう」
「俺はそういう働き方を推奨しない」
「雇用主が聞いたら悲しむな」
「雇用主がいるなら紹介してくれ。保険付きで頼む」
ルシアンは立ち上がり、上着の裾を整えた。
「そろそろ帰る」
「鍵は返せ」
「持っていない」
「合鍵を作っただろ」
「作ったとは言っていない」
「否定もしないな」
「君は私を疑いすぎる」
「お前は疑う理由を毎週のように提供する」
「信頼関係というものが育たないわけだ」
「種をまいていないからな」
ルシアンは玄関へ向かった。
ダニエルも後を追う。扉の前で、ルシアンは一度だけ結界の線に目を向けた。ほんのわずかな仕草だったが、ダニエルは見逃さなかった。
「何か気になるのか?」
「いや」
「今の間は何だ」
「君の家の結界が、以前よりましになった。それだけだ」
「褒めているのか?」
「観察結果を述べている」
「お前の褒め言葉は、死体の検視報告みたいだな」
「少なくとも、嘘はついていない」
ルシアンは扉を開けた。
夜の冷気が玄関に流れ込む。外には街灯の光が落ち、濡れた道路が鈍く光っていた。雨は止んでいたが、雲はまだ低い。
「次に来る時は酒を持ってこい」
ダニエルが言った。
「君のために?」
「俺の酒を飲むために来るなら、せめて経費を負担しろ」
「考えておこう」
「その言葉を信用するほど、俺は酔っていない」
「それは残念だ」
ルシアンは夜の中へ出ていった。
数歩進んだところで、彼の姿が街灯の影に溶けるように消えた。歩いて角を曲がったのか、別の方法で移動したのか、ダニエルにはわからない。尋ねても、まともな答えは返ってこないだろう。
彼は扉を閉め、鍵をかけた。
結界の線に指を触れる。
異常はない。
ダニエルは玄関の灯りを消し、居間へ戻った。グラスを流しに置き、ソファに残された酒の染みを確認する。ルシアンがこぼしたものだ。あの男は、悪魔のくせに酒の扱いが下手だった。
明日は掃除から始まる。
寝室へ向かう途中、ダニエルは地下室の扉の前で足を止めた。階段の下には、儀式に使う道具や古い書物が保管してある。今日の仕事で使った聖書も、後で元の場所に戻さなければならない。
だが、今は眠かった。
彼は地下室の扉に鍵をかけ、二階へ上がった。
午前二時四十三分。
家は静かだった。
結界は正常に働いている。玄関の外に怪しい痕跡はなく、窓の鍵もすべて閉まっている。悪魔は帰り、悪魔祓いは終わった。少なくとも、今夜については。
ダニエルは寝室の灯りを消した。
人間の一日は、こうして終わる。
そして翌日も、たいていは同じことの繰り返しだった。




