88.不均等で不安定な魂
「す、枢機卿様……ごきげんよう……」
恐る恐るといった様子の声に振り向くと、リーヴとともにキリオが歩み寄って来て、枢機卿の前で頭を下げた。胸の前で合わせた手が微かに震えている。ハーグリーヴ枢機卿に怯えながらも、挨拶をしないのは失礼かもしれないと思って来たのかもしれない。
「ご、ご挨拶が遅くなって、申し訳ありません……キリオと申します……」
「僕はリーヴと申します」
リーヴも同じように頭を下げる。こちらは特に緊張した様子は見られない。ハーグリーヴ枢機卿の空気に圧倒されるようなことはないのだろう。
「話には聞いているわ」枢機卿は優しく微笑む。「私が怖くて近付けなかったのでしょう?」
「そっ、そんなことは……! 平民の僕が枢機卿にお会いするなんて、恐れ多くて……」
「そんなに気負う必要はないわ。私は枢機卿という肩書きは持っているけれど、教団では司祭長より立場は下……。むしろ他の司祭たちと変わらないのよ」
神様が何か言ってるよ。まず枢機卿が司祭長より下というのがあり得ないんだ。
「ただ親戚のおばさんが遊びに来たと思って接してちょうだい」
「それは無理があるでしょう」
呆れる俺に対しても、枢機卿は穏やかに微笑む。
「それくらいの扱いで構わないということよ」
誰が枢機卿を「親戚のおばさん」と思えると言うのだろうか。まったく神様というものは人間と感覚が離れすぎている。
「実際に教団で何かをしようと考えているわけでもないの。ただ様子を見に来ただけなのよ。みなさんも、私のことは気にせず、いつも通りに過ごしてちょうだい」
キリオとリーヴ以外はそれなりの身分を持っているからか、枢機卿の言葉に素直に頷く。枢機卿が恐れるべき存在だとは思っていないだろう。キリオはガチガチに緊張したままだが。しばらくヤンデレ特性は封印かもしれないな。とは言え、枢機卿がこのエントランスに同席することになれば、全員が気を抜けなくなるだろう。枢機卿もそれはわかっているはずだ。
『やあ、これは懐かしいお方にお会いした』
ゆったりとした足取りで猫の精霊が歩み寄って来る。枢機卿がハーグレイヴズ神であることはすでに見抜いているようだ。
『あら、久しぶりね。彼はこの神殿の中庭に住む水の精霊なの』
『へえ……だからしょっちゅう俺のところに来るのか』
俺たちは心の声で会話する。猫様の声は他の者たちには聞こえない。俺は猫様の前ではすでに取り繕う必要はないことを知っているので、念話では素のままでいられるのだ。
『司祭長は実に興味深いよ。この世界において不均等で、不安定な魂だ』
『俺の魂自体が不安定なのか?』
『この世界においてはな。もともとこの世界の魂ではないからだろう』
精霊は魔力に敏感な生き物だ。魂が魔力を伴った概念であるなら、その違いを見抜くのは簡単なことだっただろう。それが不均等で不安定というのはよくわからないが。
『だが、この世界には必要不可欠な魂だ。この世界が正しく存在するためにな』
ここは俺が創り上げた世界。正常に機能するために俺の魂が必要なのだろう。しかし、それが不均等で不安定というのはどういう意味なのだろうか。
『そのために、世界王はこの子をこの世界に導いたのよ』
『俺の世界で俺の望みを叶えるためじゃなかったのか?』
『もちろんそれもあるわ。けれど、順番としては世界の創造が先。世界王があなたの作品をひとつの世界として創造し、あなたの魂を導いた。あなたが二度と悲しまなくて済むように』
俺はこの世界で目覚めるより前のことを憶えていない。前世の俺がどんな人間だったのかも、どんな人生を歩んでいたのかもわからない。それも、世界王が俺の望みを叶えるため。俺は記憶も悪役神官の役割も捨て、希望の世界で生きている。それが世界王の望み。そして俺が望んだこと。俺の記憶にない望み。俺の記憶は、この世界のどこかに保管されているのだろうか。




