83.ハーグリーヴ枢機卿
遠くから一台の馬車が近付いて来ると、俺たちの背後に控える教団員たちが緊張した空気になるのがわかった。あの馬車に枢機卿が乗っているのだ。
ややあって、馬車は門の前で停まる。先に降りて来たのは、司祭の服を纏ったふたりの女性。そのひとりが馬車の中に手を差し出すと、細い指の手が重ねられた。思わず唾を飲む俺。馬車から姿を現したのは、金の刺繍がふんだんに施された美しい司祭服の背の高い女性だった。ウェーブのかかった金糸の髪が陽の光を受けて虹色に輝いているようで、実に神々しい姿だ。
「みなさん、ごきげんよう」
俺たちは辞儀で女性を出迎える。女性――枢機卿は俺たちを順番に見回して、美しい笑みを浮かべた。
「お出迎えありがとう。私《わたくし》はハーグリーヴ。この教団の枢機卿よ」
ハーグリーヴ……? ハーグレイヴズ神に似た名前だが、枢機卿もハーグレイヴズ神の加護を受けているはずだろうし、生まれながらにそうであれば、ハーグレイヴズ神から名を分けられていてもおかしくはないのかもしれない。
「お待ちしておりました。ご無事のお戻り、心よりお慶び申し上げます」
「ありがとう。フラン司祭長にお会いするのは初めてね」
「お会いできて光栄です。どうぞ、中へ。長旅でお疲れでしょう」
「ええ」
しかし、何か引っ掛かるような気がする。この枢機卿、何かを隠しているような気がする。これまで教団員たちに枢機卿のことを尋ねてみたが、たいした情報が集まらなかったのだ。ナビによると原作に登場しない人物とのこと。いまは警戒するに越したことはないのかもしれない。
ハーグリーヴ枢機卿をサロンに案内すると、サランが人数分の紅茶を用意して待っていた。枢機卿は静養から戻って来た。しばらくは安静に過ごしてもらう必要があるだろう。
「噂に聞いているわ。随分と活躍しているみたいね」
紅茶を飲んでひと息ついて、ハーグリーヴ枢機卿が言った。
「たまたま上手くいっただけです」
「さすが世界王に愛された子だわ」
思わずティーカップを持ち上げる手が止まる。吸った息を吐き出すのを堪え、いつもの営業スマイルでマーヤと攻略対象たちを振り向いた。
「全員、少し外していただけますか? 枢機卿とふたりきりでお話がしたいのです」
マーヤと攻略対象たちは顔を見合わせたあと、頷いてサロンをあとにする。ハーグリーヴ枢機卿は枢機卿であるからして、俺にとって危険な人物ではない。護衛がいなくなったとしても問題ないだろう。
サロンの扉が閉まるのを確認すると、俺は堪えていた溜め息を落とした。
「まさかとは思うが……あんた……」
「ええ。ハーグレイヴズよ」
あまりににこやかに言う枢機卿に、俺は思わず頭を抱える。
「この国の守り神が何やってんだ……。どおりで庭からいなくなったと思った」
ハーグレイヴズ神が人間の姿に扮し、枢機卿としてこの地に降り立った、ということだ。静養に行っていた頃がどうだったかはわからないが、なんらかの目的があって人間界に降りて来たのだ。
「どうしても、あなたのそばにいたくなってしまったの」
「俺のそばに?」
「あと、世界王を出し抜いてやりたくて」
枢機卿は爽やかに微笑む。その動機は不純と言わざるを得ない。
「なんて私利私欲に塗れた神なんだ……」
「いいじゃない。この世界はあなたの世界でもあり、私の世界でもあるのよ」
確かにそれは認めざるを得ない。この世界は俺が作品として創り上げた世界ではあるが、ハーグレイヴズ神が加護する世界。ハーグレイヴズ神が自分の好きなように行動しても、咎められることではないのだ。
「それに、私が協力すれば、あなたの失われた記憶を取り戻すことでもできるかもしれないわ」
「……それについては、もういいと思ってるんだ」
ハーグレイヴズ神の力があれば、世界王が消した俺の記憶を復活させることもできるだろう。だが、俺の記憶は一度、街角の女王の魔法で戻りかけた。そのとき、俺は狂気化の魔法にかかって暴走しかけた。それだけ俺が記憶を取り戻すことが危険ということだ。
「フランとしての記憶がないのは不便だが、俺はいまの生活に満足してる。前世の俺がこんな世界を望んでいたんだろうな。孤独じゃない俺を」
いま、俺の周りには多くの人がいる。孤独とは無縁の世界。世界王が俺の望みを叶えるための世界なら、孤独からの解放が俺の望みだったのだろう。
「まあ多少おかしな点はあるが、キリオもそのうち主人公らしくなるだろうしな。この先、攻略対象たちはキリオに夢中になる。俺はそれでもいい。とにかく断罪さえ回避できればそれでいいんだ」
「……ずっと思っていたのだけれど……」枢機卿が目を細める。「鈍感すぎるわ」
「キリオのことだろ? おかしな子だが、世界王の補正が入ってるんだろ」
「それだけではないけれど……。まあ、そこがあなたの魅力なのかもしれないわ」
俺は首を傾げた。いつの間に俺の話になっていたのだろうか。
それより、と俺は身を乗り出す。
「で、教団に来た理由は?」
「言ったでしょう? あなたのそばにいたくなったのよ」
「世界王を出し抜くためだけに人間のふりまでしてか?」
「問題ないわ。私は少し特別な力を持つだけの人間、程度の能力値にしてあるわ
呆れるほかない。そんな偽装までして、俺のそばにいるためだけに人間に扮してこの世界に降り立った。神様がそんなことでいいのか?
「まあ、まさか神様が降臨しているなんて誰も思わないだろうな」
「私は守ってやりたいの。あなたが望んだ、あなたの世界をね」
「世界の歪み、か。それについてハーグレイヴズ神としてはどう思う?」
「先ほど、猫の精霊が来たでしょう? 彼の言うことも一理あるの」
ハーグリーヴ枢機卿が戻って来たのはつい今し方だが、その前に猫の精霊と話をしているところから見ていたらしい。神にはこの世界のすべてが見えているのだろう。
「もしかしたら、フランが破滅することが歪みだったのかもしれないわ。この世界は、あなたの望みを叶えるために、あなたが創った世界だもの。この世界にとって、フランの破滅は不都合だったのでしょうね」
「なるほどな。まあいい。変な問題は起こさないでくれよ」
「ええ。久々の人間界を楽しむことにするわ。あなたたちの邪魔はしないから安心してちょうだい」
久々と言ったか? つまりこれまでにも人間に扮してこの地に降り立ったことがあるのか。精霊だけでなく、神様まで自由な世界なんだな。俺の世界としては、それくらいがちょうどいいのかもしれない。




