81.歪み
「ナターシャ。残念ながら俺はフランという名前しか憶えていないんだ」
前世の名前を憶えていたら名乗れただろうが、そうは言っても、街角の女王――ナターシャと違って現在の俺は「フラン」だ。以前の名前に意味はなかったかもしれない。
「あんたの魔法で記憶の断片を見たが、キリオの魔法でまた封じられてな」
「世界王陛下の贈り物ね。それがこの世界に必要なことだったんでしょうね」
あの魔物化した姿が呪いを溜め込んだ存在であることが、ナターシャを見ればよくわかる。愛する世界王の前とは思えないほどリラックスしている。「妖精」という言葉が似合う姿をしているが、ファンタジー作品で見るような可愛らしい姿勢ではないな。クッションに寄りかかる姿は駄目になった人間によく似ている。庭の居心地が良いのはもちろんだが、ここまで適応するとは。
「あんたはフランがどういう人間だったか知ってるか?」
「厚顔不遜な男よ。自分の利益しか考えない。民を顧みない。力を惜しむ」
「散々だな」
苦笑いを浮かべる俺に、ナターシャは軽く肩をすくめる。嘘は言っていない、という表情だ。
「元々この世界に存在していた司祭長フランは、そういう人間だったのよ」
「元々この世界に存在していた?」
「フランのすべてが書き換わったの。世界王陛下の贈り物の恩恵でしょうね」
ふむ……。俺はこれまで、クリスの言葉やダンの態度で司祭長フランの人間性を測っていたが、元々この世界に存在した司祭長フランという人間を想像したことがなかった。自分の創った世界で、フランは悪役神官で間違いないのだと、疑いもしなかったからな。
「いまのこの世界では、司祭長フランは以前から、教団のため、民のために尽くす素晴らしい司祭長だったことになっているのよ」
「俺がこの世界に来たばかりのときは、クリスに責務から逃れるとまで言われたぞ」
ギュスターヴ公爵家で目を覚ましたときのクリスの第一声は「自分の責務から逃れるために記憶を失ったふりをしている」だったか。あの頃のクリスを思い返せば、フランが素晴らしい司祭長だと思われているとは到底、思えない。
「あんたが生まれたばかりだったからよ。世界の中身が一瞬にして書き換わると歪みが生じるの。徐々に書き換わっているのよ。いまも、ね」
「そういえば、世界王がこの世界の歪みがどうのと言っていたが」
「そうね……。でも、ただの精霊だったあたしにはなんとも言えないわ。あんたの魂がこの世界に来てフランの過去が書き換わったことで歪みが生まれた、としか」
つまり、なんにしても俺の転生が原因ということか。俺の転生は世界王の贈り物。俺が望んだのか、世界王が望んだのかは、いまとなってはわからないが。
「どうするんだ、世界王。あんたの行いが俺の世界を歪ませてるぞ」
「あんたっ、世界王陛下になんて口を……!」
ナターシャはバッと体を起こして顔をしかめるが、すぐ息をついてもとの姿勢に戻った。
「まあいいわ。世界王陛下に愛される人間だけに許される特権かもしれないわね」
俺もナターシャのように初めからこの世界に生きている存在だったら、世界王に対してもっと萎縮したり、遜ったりしていたのだろうか。想像もできないが。
「ただ、キリオがああいった性格になったのは歪みのせいじゃないわよ」
「そうなのか」
「キリオは抑制されて生きて来た。それがあんたに出会って爆発しただけよ」
そうか、爆発したのか。爆発してしまったのかー……。まあ、抑制されていたものが解放された、ということならいいんだが。
「あんたは愛されてるのよ」
「俺が? まさか。俺は悪役神官だ。誰かに愛される資格なんてない。いずれキリオが俺を断罪するさ」
物語ってのはそういうもんだしな。悪役は断罪される。それが主人公と攻略対象はハッピーエンド。それが物語の醍醐味ってものだ。
「あんた、それ本気で言ってるの?」
「悪役ってそういうもんだろ」
もとからこの世界に生きているナターシャには想像できない話かもしれないが、物語はいつも、悪役が断罪されてハッピーエンドになるものなんだ。世界王がこの世界のこと、俺のことをどう思っているかは知らないが、それでキリオと攻略対象たちが幸せになるなら、俺の役割も悪いものじゃないよな。俺が悪役神官の役割を捨てていたとしても、いつか物語は強制力で正されるものなんだ。
「……あんた、ほんとにわかってないのね」
ナターシャが呆れた表情で溜め息を落としたとき、空間が揺れた。
『我が愛する子の好きなようにすればよい』
「……それが世界王陛下の御心でしたら」
世界王を意識すると、ナターシャは途端にしおらしくなるらしいな。
「だが、世界の歪みは放っておけないだろ。精霊も感知していたくらいだ」
「精霊の視点から言わせてもらうと、人間に影響することはないわ」
「そうなのか」
「あたしたち精霊のような上位の存在が影響を受けてしまうだけよ」
「じゃあ、俺が生んだ歪みが……」
人間たちの心を変え、ナターシャは呪いを溜め、街角の女王などという呼称をつけられるような魔物と化したのか?
「あたしは気にしてないわ。結果的にこの庭に呼んでもらえたんだし。世界王陛下のおそばにいられる。それが何よりも幸せなのよ」
それが本心であることは、ナターシャの表情を見ればよくわかる。街角の女王は世界王に対する執着とも言える愛だけを残していた。それだけは本当のことなのだろう。
「だからと言って放置はできないだろ。他にも歪んでしまう高位の存在が出て来るかもしれない」
「ハーグレイヴズは何してんのよ。まさか民のことを放っておいて好き勝手やってるんじゃないでしょうね」
ナターシャは本当にハーグレイヴズ神が苦手なんだな。精霊でも神を嫌うことがあるんだな。
「この庭からでも世界のことはわかるだろ。何か察知したら教えてくれ」
「いいわ。あんたに恩を売っておいて損はないでしょうしね」
現金な精霊もいたもんだ。やっぱりファンタジーの世界ってのは面白いな。
「あんたの世界を守ることに協力してあげるわ。あんたのためじゃなく、世界王陛下のためにね」
「ああ。賑やかになりそうだな」
俺と世界王、ハーグレイヴズ神だけの静かだった庭が、ナターシャのおかげで楽しい場所に変わりそうだ。俺としては大歓迎である。




