78.都合の良い夢
聖堂へ向かうあいだ、教団員たちは大騒ぎだった。俺たちは教団員に声をかけることもなく、全力疾走で聖堂を目指す。侵入者はすでに神殿内で行動を起こしている。一刻も早くその撃退に駆けつけなければならなかった。
聖堂はすでに屋根が抜け落ち、煙が上がっている。開けるべき扉は廊下に転がっていた。火の手こそ回っていないもの、美しかった聖堂は見る影もない。鼻と口元を袖で塞ぎながら聖堂に入ると、何かが宙に浮かんでいる。それは紫色のドレスの少女であった。ただし、人間の三倍はあろうかという大きさだ。
「街角の女王……!」
クリスが声を上げる。紫色のドレスの少女は、影の落ちた顔で笑っている。三日月形の口からは不気味な笑い声が漏れていた。
「なァんだ。こんな簡単なコトだったのね」
それはまるで悪戯を仕掛けた子どものような声だった。陰になって見えない顔は、真っ直ぐに俺を見ている。
「ねェ、司祭長。この世界は随分、あなたにとって都合が良いみたいね」
「司祭長様をお守りしろ!」
ダンの号令で、神殿騎士たちが俺を囲んだ。それを見ても、街角の女王はおかしそうに笑っている。
「ねェ、司祭長。あなたがこんな都合の良い夢の中に居てもいいのかしら」
街角の女王が軽く手を振る。その途端、俺は何かが体に圧し掛かるような感覚に陥った。ぐ、と唸り声を上げる俺に、クリスとセオドアが駆け寄って来る。立っていることがやっとなくらいの圧力が俺に降りかかる。何かの魔法が俺に注がれたのだ。
「あなたにこんな都合の良い夢が許されるはずはない。ふたつの罪を背負ったあなたには」
そのとき、パキン、とガラスが割れるような音とともに、俺の頭の中に様々な映像が流れ込んだ。
忘れていたもの。忘れたかったこと。それは、世界王に消されて失った記憶。
「あ……ああ……」
雪崩れ込む記憶が俺の頭を締め付ける。忘れなければならなかったものがフラッシュバックするように脳内を駆け巡る。
誰かが俺を呼んでいる。耳の奥を支配する耳鳴りが、その声を遠くする。
「あなたに、世界王の贈り物を受け取る資格はない」
鮮明に響く声。いまは、それしか聞こえない。
――ああ……そうだ……。俺は……。
――私は……。
忘れてはならなかった。忘れていいはずはなかった。
ふっ、と体から力が抜ける。倒れようとした瞬間、誰かが俺を抱き留めた。
「司祭長様」
澄んだ声が耳鳴りを掻き消す。俺を抱き締めるのがキリオだと理解すると同時に、頭の中を駆け巡る映像が止まった。
「頭の中の人に命じてください。まずは魔力遮断を」
浅い呼吸を繰り返しながら、俺は薄れつつある耳鳴りの中に呼び掛ける。
(ナビ。魔力を遮断してくれ)
【魔力を遮断します。キリオと魔力を同調します】
ナビの声と同時に、俺は温かいものに体を包まれる感覚になった。心地良いものが、俺に圧し掛かる重力を消していく。
「僕の魔力に同調できたみたいですね。深呼吸して、僕の魔力に意識を集中してください」
キリオの手が俺の背中をとんとんと優しく叩く。そのとき、街角の女王の頭上に複数の光の玉が浮かび上がった。それは俺とキリオに向けて放たれるが、神殿騎士たちが研ぎ澄まされた剣で打ち落とす。街角の女王の魔法が再び俺に届くことはなかった。
「司祭長様。あなたに罪などありません」
まるで霧が晴れるように、温かいものが俺の頭の中に浸透する。
「あるのは、ただ、導く力だけ」
――ああ、そうか……。
耳鳴り、失われた記憶、すべての映像が掻き消えた。キリオが離れていくと、俺は宙に手をかざした。俺の手から溢れた光が街角の女王の魔法を打ち砕き、少しずつその体に侵食していく。
「確かに、この世界は私にとって都合が良い。だが、私も、彼らも、意思を持ってこの世界に生きる人間だ。都合の良い夢なんかじゃない。ここは現実だ」
「やめて……やめてよ……」
か細い声が訴える。悲しみに満ちた声は、先ほどまでの楽しむような色を消していた。
「ただ……そうだね。もし次に会うことがあれば、私の“庭”に来るといい。きみにとっても都合の良い夢を見せてあげるよ」
「あ、あ……消えたく、ない……」
懇願する声を最後に、街角の女王の姿は俺の周囲を取り巻く光に掻き消された。それと同時に、聖堂内に満ちていた重苦しい空気が消える。
ひとつ息をついたとき、チリン、と軽い音がした。街角の女王がいた跡に、小さな鈴が落ちている。それは、キリオと神殿内を歩いているときに音を聞きつけた鈴だった。
「やっぱり」俺は呟く。「あのときの妖精か……」
「あれが街角の女王だったってことですか?」
「そういうことでしょう」
本来であれば、街角の女王の魔法は俺の耐性に阻まれたはずだ。街角の女王は傷付いた妖精に扮して、俺の魔力を吸い取った。それに基づいた魔法を編むことで、俺に効果のある魔法を生み出したのだ。
「司祭長殿」クリスが呼び掛ける。「もう平気なのですか?」
「はい。キリオのおかげで助かりました」
「何が起きたのかよくわからんが」と、セオドア。「街角の女王はこれで消滅したってことか?」
「消滅したはずです。もうこの国が街角の女王に脅かされることはありません」
あとは世界王が街角の女王をどうするかにかかっている。それは俺にしかわからないこと。キリオでさえ知り得ることではないのだ。
「司祭長様」神殿騎士が言う。「ここの片付けは我々にお任せください」
「では、お任せします」
「せっかく美しい聖堂だったのに」リーヴが残念そうに言う。「これではしばらく祈祷はできなそうですね」
「それは大丈夫だよ」
明るい声で言うキリオに、俺はなにやら嫌な予感がした。まるで答え合わせをするように、手を組んだキリオが輝く瞳を俺に向ける。
「だって、聖堂に負けない美しさを持つ司祭長様がいらっしゃるんだから」
先ほどのキリオは別人だったのだろうか。だが、その明るい表情こそキリオだと言える。街角の女王の脅威は失せた。それはキリオの清らかな魔法によって成し遂げられたことなのだが、その言葉はそれを撤回したくなるほど俺に陶酔していた。




