76.期待と失望
エントランスから離れるあいだ、キリオはどこか神妙な面持ちをしている。何か良からぬことを考えているのではないかと身構えていた俺は、いつもの調子を失くしたキリオに拍子抜けしていた。それもエントランスから完全に見えなくなるまでの猫かもしれないと思っていたが、どうやらその様子はない。このあとどうなるかはわからないが。
「……あの……司祭長様」
キリオが遠慮がちに口を開いた。やはりいつものキリオとは様子が違う。セオドアは以前、キリオのことを「純粋ぶっているだけかもしれない」と言っていた。だが、いまのキリオからその様子は感じられない。
「司祭長様は、ご自分が世界王の寵児だと言われたとき、どう思われましたか?」
キリオの問いに、俺はキリオの不安を見た気がした。キリオは自分が第二の世界王の寵児だと知り、俺に会うためにリュクスを飛び出して来た。それは、この質問を俺にするためだったのだ。
だが――
「残念ながら、憶えていないのです。リュクスに行く二日前より以前のことを、私はまったく憶えていません」
キリオに落胆した様子は見られず、ただ俯いている。
「いまはどう思っていらっしゃるのですか? 世界王の寵児なんて、重圧ではありませんか?」
「もちろん重圧ですよ。司祭長という肩書きも含めてね。何も憶えていない私がこの先、司祭長としてやっていけるのか……。私には治癒魔法しかありませんから」
いまでも司祭長としての仕事はまったくできていない。事務仕事から祈祷まで、治癒魔法以外のことはすべて部下たちに任せきりだ。このままじゃ無能上司になってしまうんじゃないかと思うが、中途半端に手を出して混乱させることも避けたい。できないなら手を出すな。それが俺のポリシーだ。情けないけどな。
「僕……光属性の魔法を持っているとわかったとき、治癒魔法も期待されたんです。でも……僕は、治癒魔法を持っていませんでした。たったそれだけのことで、失望されたんです」
キリオの表情から、それがとても残酷なことだったのがよくわかる。世界王が身勝手にキリオの能力を削っただけなのだが、世界的に見ればそれで均衡が保てていると言える半面、人間の俺たちにとっては死活問題なのだ。
「だから、第二の世界王の寵児と言われて、村の役に立てるんじゃないかと思ったんです。でも、あの襲撃を止められなかった……。あのとき、司祭長様と出会って……」
すぅ、と息を吸ったキリオが、胸の前で手を組んだ。なんだろう、嫌な予感がする。
「僕は司祭長様と出会うために治癒魔法を持っていなかったのだと……運命を感じたんです」
キリオの瞳が満点の星空のように輝く。その視線は前を向いたままだが、俺は思わず目を細めた。こうなったとき、キリオの表情は信じられないほど生きるのだ。先ほどまでしょんぼりしていたキリオはどこへ行ったのだろう。
「それから司祭長様のことしか考えられなくて……気付いたら、村を飛び出していました。だから」
キリオの顔がぐるんとこちらを向く。まるで光線を発しているかのような瞳に、俺は軽い眩暈を感じた。
「司祭長様に人生を捧げるつもりでいるのです」
「それこそ重圧ですよ」
俺は苦笑する。俺の表情はキリオの視界に映っていないらしい。
「私は世界王の寵児だと持て囃されていますが、こうして記憶がないのです。私は、自分が何者なのかもわかっていません」
この神殿に来てしばらく経つが、いまだに自分に関する記憶はひとつも戻っていない。周囲の人々に助けられてここまで生きてきたようなもの。誰かが欠ければ、俺はまともに暮らすことすらできなくなるかもしれない。
「記憶とともに治癒魔法を失っていれば、教団は私を追放したでしょう」
その途端、キリオの瞳から輝きが失われた。キリオも村民から治癒魔法を期待され、持っていないことで失望された。俺はそのつもりはなかったのだが、その話とリンクしてしまったのだ。
これは申し訳ないことをした。とは言え、それが確かなことだと思う。記憶も治癒魔法もない人間を、教団はいつまでも司祭長にしておかなかっただろう。記憶も治癒魔法も持たない人間の世話をする、教団はそんな慈善事業ではないのだ。




