75.自由な存在
あれから数日、神殿は平穏な日々を送っていた。街角の女王はまだ尻尾を見せていない。王宮も報告を受けて追っているらしいが、特筆すべき成果はないようだ。俺にも度々出撃要請が来ているが、攻略対象たちがそれを許さない。俺としても、先日の件もあったし、できれば遭遇したくないものだ。
『随分とお悩みのようだね』
新聞を中指と薬指でなぞって読んでいた俺の前に、あの喋るペルシャ猫が上がって来た。猫というものは、なぜ高いところに軽々と上がることができるのだろうか。
(街角の女王については誰もが頭を悩ませている。国の一大事みたいなものだ)
『世界王の寵児が狙われている現状、神殿にとっても脅威なのだろう』
(世界王には責任を取ってもらいたいもんだ)
街角の女王は世界王に対する執着とも言える愛を宿したまま魔物化した。だからこそ世界王の寵児を狙う。世界王から寵愛を受ける者が妬ましく、許せないのだろう。俺たちは直接に街角の女王に挑んだことがないと言うのに、世界王から愛された人間というだけで攻撃して来るのだ。
「またその猫が来ていたのですか」
不思議そうに言いながら、クリスが俺のもとに歩み寄って来た。俺は慌てて姿勢を直し、営業スマイルを浮かべて見せる。
「精霊だそうですが、なんの精霊なのですか?」
『私はただの猫だよ』
「私はただの猫だよ。だそうです」
クリスは相変わらずの表情で首を傾げた。この猫の外見はただの猫。俺も心で会話することができなければ、ただの猫だと思っていたことだろう。
『さて、邪魔者は退散するとしよう』
謎の置き台詞を残して猫はテーブルから降りる。そのまま軽い足取りで去って行った。
「猫は自由でいいですね」
「精霊という存在は自由なものです。世界王の遣いだとされていますが」
「ならば世界王が自由な存在なのでしょうね」
すべての世界の王。あの庭で言葉を交わした世界王は、確かに自由だと思える。俺のことを気に入っているからって、自分の領域に招くなんて自由にも程があるだろう。実に羨ましい限りだ。
ちなみに、クリスとはなんとか気まずくならずに済んでいる。俺がそう努めているからな。気まずくなって神殿から出て行くと言われても困る。クリスが神殿から出るということは、ギュスターヴ公爵家の者として裁かれる可能性がある。クリスなら「それも致し方ないこと」と言って受け入れそうな気がするのだ。俺としても、そんなことにはなってほしくない。
あれは事故。そう、事故なんだ。
「司祭長様、おはようございます」
穏やかな声とともにキリオとリーヴが歩み寄って来る。しかし、クリスを見た途端、その表情は一変する。
「最近、なんだか司祭長様とクリス様は妙に仲が良くないですか?」
「えっ」
「やっぱり、冒険者の迷宮で何かあったんじゃないですか?」
「クリス殿が私に親切なだけですよ」
適当な笑みを浮かべて言う俺に、キリオは不満そうに唇を尖らせた。
さすが第二の世界王の寵児、そして主人公。勘が良いやらなんやら。
しかし、キリオとリーヴの影の薄さが気になる。主人公なのに、あまりにイベントが起きなさすぎる。攻略対象たちは常に俺のもとにいるし、俺の近くにいれば何かしらイベントが起きるはずなのだ。だが、キリオが誰かの好感度を上げている様子はない。
キリオの存在感が薄いというより、攻略対象たちが濃すぎるのだ。リーヴなんて空気だぞ、空気。リーヴはどうやら俺には興味がないらしい。キリオはリーヴルートなのだろうか。妙に俺に懐いてはいるが、キリオが主人公であることに間違いはない。きっとそのうち、キリオは主人公として攻略対象たちを魅了するだろう。
まあ、正直なところ、憶えていないのでリーヴが攻略対象なのかどうかはわからないのだが。
「あの……司祭長様」キリオがおずおずと言う。「少しふたりでお話させていただけませんか?」
「ふたりで?」
何やら嫌な予感を思わせる言葉ではあるが、キリオは何かを企んでいるようには見えない。純粋に、司祭長として俺と話をしたいという雰囲気だ。
「離れたところに団長がいても構いませんか?」
「離れていてくださるなら構いません」
先ほどまでの遠慮がちな表情とは一転、キリオは鋭い視線をダンに向ける。「邪魔をしないなら」ということだろう。だが、俺は護衛から離れられない。万がいちのことがあっては困るのだ。ダンの同行は避けられないことだ。それについては納得してもらわなければ困る。キリオもそれを理解してはいるだろうが。




