73.街角の女王の罠
不意に、俺の背後からガラガラと何かが崩れる音がした。振り向いたときには遅く、俺の足元が大きな穴となっていく。
「司祭長様!」
キリオの叫びにも似た声とともに伸ばされた手は俺には届かない。バランスが取れないまま穴に吸い込まれる俺の手を、瞬時に反応したクリスが掴んだ。しかし、クリスの足元も崩れ、俺たちは暗闇の中へと吸い込まれた。
襲い掛かるであろう痛みを覚悟していた俺は、地に体が着く感覚に違和感を覚えた。まったく痛くないのだ。それは俺の体を抱き締めたクリスが下敷きになってくれたのだとすぐに気付いた。クリスは小さく唸り声を上げながら起き上がる。その動きはぎこちなかった。
「クリス殿、私を庇ってくれたのですね」
俺は慌ててクリスの手に手を当てた。回復魔法が使えてよかった。俺の魔力がクリスの体に行き渡ると、クリスは小さく息をついた。
「どうやら、足元が崩れたというわけではなさそうですね」
クリスの言葉に、俺も頭上を見上げた。そこに、俺たちが落ちた穴はなかった。仲間たちの声が聞こえないところを考えるに、俺たちが落ちた穴は何かしらによって埋まってしまったのだ。
「私たちは亜空間に引き摺り込まれたようです」
つまり、これは何者かの罠ということ。俺を仲間たちから引き離そうとした者が存在する。俺の手を掴んだのが誰であろうと、俺は亜空間に引き摺り込まれるのに抵抗できなかったのだ。
そこへ、くすくすと笑う声が聞こえた。クリスが剣に手を添え、俺を背に庇うと、宙に何者かの姿が浮かび上がる。それは豪華なドレスに身を包んだ少女だった。少女は俺たちを見下ろし、口を三日月のようにつり上げて笑っている。
「街角の女王……」
クリスが呟く。これが、王都の南門への襲撃で傷付いた少女に扮して紛れ込んでいた街角の女王の本来の姿なのだ。
「世界王の寵児……あなたは邪魔なの。世界王の寵愛は私だけのものよ」
「例え司祭長殿どうにかしようとしても、世界王はお前を愛さない」
毅然とした声でクリスが言うと、少女はさらに笑みを深めた。
「ああ、あなたも邪魔ね。でも、ちょうどいいわ」
街角の女王が手を振りかざす。その途端、クリスの体がぐらりと揺れた。すぐに足を踏ん張って体勢を整えたクリスに、街角の女王はまたくすくすと笑い、もやのように姿を消した。
「クリス殿……」
手を伸ばした俺を、クリスが軽く押し退けた。俺は尻餅をつきそうになることに耐えながらも、クリスの様子がおかしいことはすぐ理解した。
「私に近付かないでください」
クリスは何か魔法をかけられたのだ。逸らされて顔は見えないが、心なしか息が荒い。
【魅了の魔法をかけられました】
魅了だって? なんだって街角の女王はそんな魔法を……。
【解呪が必要です】
(どうすれば解呪できる?)
【魔力を注ぐ必要があります】
(どうやって?)
【接吻です】
忘れてた。この世界では魔力を誰かに分け与えるためにはキスをしなければならないんだ。つまり、俺の魔力を注いでクリスの状態異常を解かないといけない。
(これは……俺がやらないといけない、んだよな……)
【腹を括ってください】
この場には俺とクリスしかいない。俺以外にクリスの魅了の魔法を解いてやれる者はいない。ナビの言う通り、腹を括らなければならない。
俺はひとつ息を吐いてから、クリスの肩に手を添えた。クリスが俺の手を振り払おうとしたのにも構わず、強引にクリスの顔をこちらに向けて唇を重ねた。その瞬間、クリスが俺の体を押し倒し、俺に覆い被さる。クリスの理性を吹き飛ばしてしまったようだ。口付けが深いものに変わり、俺は思わずクリスを突き飛ばそうとした。だが、ここで引いてはクリスの魅了の魔法を解呪できない。俺は息が苦しくなる中、とにかく魔力を注ぐことを意識した。
クリスの手が俺の上着の隙間に潜り込んだ。これはまずい。浮かされたクリスの顔に、思わず心拍が上がる。この手には抵抗しなければならないが、魔力の注入は中断できない。
【解呪を試みます。魔力の注入を維持してください】
どうやら解呪はナビがやってくれるらしい。だが、この状態は非常に危険だ。
俺の貞操の……そして、クリスの命の危機。もしこんなところを誰かに見られたら。このことを誰かに知られたら、きっとクリスはただでは済まない。
【魔力残量低下中。解呪を持続します】
くそ、しぶとい魔法だ。そろそろクリスの手を振り払わないと、このまま流されるわけにはいかない。
【解呪完了。魔力残量の維持のため、魔力遮断を実行します】
ナビの宣言と同時に、クリスが俺から離れていった。どうやら魔法が解けて、正気に戻ったらしい。俺は乱れる呼吸を整えながら体を起こす。クリスは俺から目を背けていた。
「申し訳ありません。司祭長殿になんということを……」
「どうか気に病まないでください。無事に解呪できて何よりです」
本当に、無事でよかったな。俺の貞操。
(街角の女王はなんだって魅了の魔法なんか……)
【フラン様が魔力注入で解呪することを見越していたのでしょう。フラン様の魔力が尽きることを狙ったのです】
(なんとかもってくれてよかった)
俺の魔力も、クリスに残った理性も。
「申し訳ありません。司祭長殿、大丈夫ですか?」
「ええ。ですが、少し休まないと動けそうにありません」
いろんな意味でな!
「申し訳ありません。こんな単純な魔法に引っ掛かるとは……」
「街角の女王が油断ならない魔物だとよくわかりましたね。さすが元精霊です」
まさかとは思うが……成人向けじゃないよな、この世界。好感度を上げるためのイベントだとしたら、あまりにあまりだろ。もしこれがキリオだったら読者がキレ……いや、歓喜するか。世界王もこれを見ているのだろう。どうせ世界王も読者と同じようなもんなんだろうな。
深く息をついたクリスが立ち上がる。差し出された手を取ろうとした俺は、足に力が入らずへたり込んでしまった。
「腰が砕けてしまったようです……」
なんとも恥ずかしい。司祭長の威厳も何もあったもんじゃない。
気遣わしげに俺を見たクリスのそばで光が瞬いた。鳥の形のそれは、伝達魔法の「報せ鳥」だ。
「腐敗の核を破壊したようです。私たちはこのまま神殿に戻りましょう」
ふたつの報せ鳥を出したクリスは、相変わらず立ち上がれない俺を軽々と抱えた。ダンもそうだったが、ふたりとも大の男を持ち上げられるなんて、よく鍛えられているな。
「神殿まで転移します。しっかり捕まっていてください」
「はい」
転移魔法は実に便利だ。俺もそのうち覚えたほうがいいのかもしれないな。




