70.冒険の準備
「司祭長様! 大変です!」
ばたばたと荒い足音とともに聞こえたのは、緊張した面持ちのキリオの声だった。その後ろにリーヴの姿もあり、ふたりとも焦燥感を湛えた表情をしている。
そういえば、このふたりのことを忘れていたな。攻略対象たちが濃すぎて。彼らはこうして俺の周りに集まって来るが、キリオが主人公らしくなれば攻略対象たちもキリオのもとに行くのだろう。それはそれで寂しいが、物語ではそうなるのが当然なのだ。
「どうしたのですか?」
「“冒険者の迷宮”が腐敗しているらしいんです」
物語では聞き慣れたが、この世界では聞き慣れない言葉に、俺は首を傾げる。
冒険者の“迷宮”ということは、おそらくダンジョンのことだろう。そのダンジョンが“腐敗”しているというのは?
首を傾げたままきょとんとしている俺を見て、リーヴが口を開いた。
「迷宮というのは、魔物の巣窟です。冒険者の迷宮はその中でも低級なので、駆け出しの冒険者が依頼に利用するんです」
なるほど、冒険者か。ここは剣と魔法のファンタジーの世界だから、俺のイメージする通りの冒険者が存在するのだろう。冒険者は迷宮に行くことで金を稼いでいるのだ。
「その冒険者の迷宮が腐敗して」キリオが言う。「上位の魔物が湧くようになっているんだそうです」
「腐敗というのは?」
「迷宮内に漂うマナが腐っているということです」
クリスの説明に、俺はまた首を傾げた。マナというのは、すべての生命の源であると言われる成分だ。空気中にも含まれていて、俺たちは呼吸のたびにマナを吸っているらしい。それを魔法に変換して利用することもあるが、人体にマナを吸収する仕組みはない。マナを吸っても、それが身体に影響することはないのだとか。
「大気中に存在するマナがなんらかの影響を受けて腐り、迷宮を異常状態にするのです」
「冒険者の迷宮が腐ったとなると」と、セオドア。「低級の冒険者にとっては危険だな」
「それで神殿に攻略要請が来たということですか」
ダンの言葉にキリオが頷く。王宮に行くんじゃなくて、神殿に要請が来るのか。マナに精通するのは聖属性と光属性の魔法使いということか。
「世界王の寵児として迷宮を正常化させてほしい、とのことです」
つまり、この話はキリオに来たということだ。キリオだけで対処できるとは俺も思えない。だからキリオは俺たちに言いに来たんだ。
「それなら私が行きましょう。キリオは……」
「もちろん僕も行きます。司祭長様は街角の女王に目を付けられていますし……」
街角の女王は魔物というだけあって、迷宮に出現することもあるということか。それは確かに、俺にとって危険なのかもしれない。もし狙いが第二の世界王の寵児であるキリオに移れば、もっと危険なことだ。
「それなら、私たちが行けば問題ないな」
セオドアが俺の肩に腕を回す。その途端、先ほどまで穏やかだったキリオの表情が一変する。この可愛らしい顔立ちからは想像もできないほどの憎悪がセオドアに向けられた。
「またそうやって司祭長様に馴れ馴れしく触れるのですね……」
「なんだ、悔しいのか?」
セオドアは挑発するように笑っている。キリオの表情には、セオドアが王族でなければ拳でも飛ばしたのではないかと思わせるほどの怒りを湛えていた。
「王族という権力を盾に司祭長様に無理やり迫っているのではないですか⁉」
「悔しかったら第二の世界王の寵児として司祭長を魅了してみたらどうだ?」
「僕はそんな卑劣なことはしません! 僕の誠実さを伝えるだけです!」
魅了というのは、そういう魔法があるのだろう。魔法の効果は想像できるが、そういったステータス異常に俺はどの程度の耐性を持っているのだろうか。聖属性の魔法を持つ教団の司祭長が魅了のような魔法に簡単にかかることがあるのだろうか。そんなことがあったら困るんじゃないか?
「まあ、落ち着いてください。そういうことなら、私たちで迷宮に行きましょう」
「じゃあ、手続きと準備をして来ます」
リーヴに引き摺られるようにしてキリオも去って行く。キリオは光属性の魔法を持ち、リーヴも攻略対象。迷宮攻略に行くのが通常のイベントだとすれば、リーヴも何かしら戦う方法を持っているはずだ。
「では、フラン様も冒険用の支度をしましょう」マーヤが言う。「その服は冒険には向いていません」
それはその通りだろうな。この服はこの服で何かしらの効果が付いているだろうが、こんな肩が出るような格好をしていたら、何かの拍子に怪我をして、肩がぼろぼろになるかもしれない。
クリスたちも準備に向かうと、俺は自分が少しだけわくわくしていることに気が付いた。ファンタジーの世界には来たものの、ほとんど神殿から出たことがない。冒険というものがどれほど危険なものかはわからないが、冒険者というものは、ファンタジー好きなら憧れを持つものではないだろうか。それがいま、叶おうとしているのだ。




