44.フランの日常
俺がエントランスで本を読んでいることも日常化して、いまでは教団員たちも気軽に挨拶をして来るようになった。記憶を失ったことで司祭長の人が変わったことは教団員たちにも浸透したらしい。遠巻きに眺められるだけだったときは寂しい思いもしたし、こうして気さくに絡んでもらえるのは素直に嬉しい。教団員たちの雰囲気も穏やかで、神殿は俺にとって心地良い場所となりつつあった。
とは言っても、文字が読めない問題が解決するわけでもない。いまだに技巧「読解力」を使って指でなぞらなければ読めないのだ。それで困ることもいまのところ特にないが、司祭長の責務を全うするために必要になるときもある。
祈祷に使うハーグル言語は、表記も非常に難しい。英語圏の人がさらさら~っと書いた英文のようにも見えるが、アルファベットには見えない。それでも、技巧で読めばなんとなく頭には入ってくる。フランの頭の中にはハーグル言語が残っているんだろうな。
「ハーグル言語を読んでいるのですか?」
俺がここで本を読んでいると、こうしてクリスもエントランスに来ることが増えた。俺としては部屋でひとり籠って本を読むのが嫌なだけなのだが、時間が空くと様子を見に来てくれるようだ。
「祈祷にはハーグル言語が使われています。残念ながら私は憶えていませんので……」
「いつもそうして指でなぞっていますが、それは何をしているのですか?」
俺の隣に腰を下ろしつつクリスが問う。あ、と俺は思わず手を止める。いまさらながら、俺は文字が読めないことを誰にも話していない。おそらく、常にそばにいるマーヤには気付かれているだろうが、なんとなく言わないまま来てしまったのだ。
「……こうすることで頭に叩き込まれるのです」
俺は曖昧に微笑んで言った。司祭長の曖昧な微笑みはもはや技巧だろ。こうして勘の鋭いクリスでも騙されてくれるのだから。
「いつもここにいるんだな」
次に顔を覗かせたのはセオドアだった。セオドアがクリスの反対側に腰を下ろすと、エドワードはそのそばに控える。俺はいまだセオドアに心を許したわけではないが、突っ撥ね続けるほど子どもでもない。セオドアもここへ来たばかりのときほど尖ってもいないしな。
「何も憶えていないので、教団がどう動くのか観察しているのです」
「へえ。記憶がないってのも不便なものだな。文字もわからないんだろ?」
あっけらかんと言うセオドアに、思わず俺は顔を強張らせた。ぎぎぎ、と油が切れたロボットのようにセオドアを見つめると、セオドアは何も考えていないような顔をしている。
「な、なぜ……」
「文字が読めない者はそうやって技巧で読むんだろ」
セオドアは俺の手元を指差す。そりゃそうだよな。知ってる者もいるよな。
俺は内心、汗だくになった。セオドアの反対側に居るクリスが、くすりと小さく笑ったからだ。
「司祭長殿は、噂通り嘘つきのようですね」
こんなことなら下手な嘘なんてつかなければよかった。そもそも、文字が読めないことくらい、隠すほどのことでもなかった。俺がこの世界の右も左もわからないことはクリスも知っている。文字を読めなかったとしてもおかしくはないのだ。
「ですが、そこまで記憶が欠如しているのですね」
クリスがいつもの調子に戻って言うので、俺も小さく息をついた。
「そのようです。ですが、技巧を使えばハーグル言語も理解できます」
「頭で理解できるようになれば」マーヤが言う。「いずれ祈祷することもできるようになりますよ」
「うーん……」
言葉では理解できるが、それを実際に発音することができるかと言うと怪しい。神殿に戻ってから、他の司祭の祈祷を聞いてきた。感覚としては、英単語を覚えてもそれを実際に使うとなると話が変わる、といったところだ。フランの喉は発音できるようになっているはずだが、中身が俺に変わったという点がその辺りにも影響してくるかもしれない。俺には自信がなかった。
「やっぱり教団にはフラン様の祈祷が必要ですよ」
「そこまで期待されるとプレッシャーなんだけど……」
「何を仰います」生真面目な表情でダンが言う。「司祭長様は、もともとその重圧の中で生きていらしたのですよ」
「記憶を失う前の私は、でしょう。記憶がない以上、重圧を感じざるを得ません」
本来のフランは、司祭長という肩書きに相応しい度量だったのだろう。司祭長の座に就いたのは二年前らしいが、司祭長として祈祷を行っていた。司祭長が祈祷を行うのは王室の人間が来たときだけだとナビは言っていた。いまの俺は、セオドアだとしても落ち着いて祈祷できる自信がない。そもそもハーグル言語を覚えていないということもあるが、果たしていまの俺が司祭長の肩書きのもと祈祷を行うことができるだろうか。




