12.右も左も
俺の怪しい微笑みにも表情を動かさないクリスの視線が、ベッドに放ってあった本に注がれる。マーヤが選んだ、この国の国史の本と、教団に関する資料だ。本来のフランであれば、手に取ることすらなかった本である。
「王国と教団に関する本を読んでいたのですか」
「ええ」
「本当に何も憶えていないのですか」
「残念ながら。教団に戻ればどうかわかりませんが」
脅しのような言い方になってしまったが、それは変わりようのない事実だ。フランはもともと教団に属する司祭長。それがいまは誘拐、幽閉されている。この環境がフランにとって劣悪であることは、クリスもわかっているはずだ。
「戻りたいと思いますか」
「どうでしょう」
俺は曖昧に微笑む。本来のフランなら、どう思うだろうか。こんなところで落ち着いて昼食を取っているような人間だとは思えない。だが、この屋敷には魔法が仕掛けてあり、俺が魔法を使えば多大な被害が出る。本来のフランであれば、それも構わないのだろうか。いまの俺にはわからなかった。
「この世界の右も左もわからない私が、司祭長の座に居続けることに意味があるか……いまの私には判断し兼ねます」
「右も左も……? そこまで記憶がないのですか?」
「そのようです。国の名前もその本で知りました」
クリスがどう思ったかはわからないが、それは本当のことだ。いまの俺は国名さえわからない。そもそも文字が読めない。それについては黙っておいたほうがいい。そんな気がした。
「それでは、ご自身の価値についても理解できていないようですね」
クリスは険しい顔のまま言う。俺は曖昧な微笑みを湛えたまま応えない。
その実、答えることができないのだ。こんな記憶のない状態で「自分の価値」なんてわからない。司祭長が特別な存在であることはわかるが、それがどんな価値を生むものであるか。それはいまだわからない。だから曖昧に笑っておくことしかできないのだ。
「わかっていれば、こんなところでのん気に食事なんて取っていないはずです」
「そうでしょうか。わかっているからこそ、ということもないでしょうか」
なに言ってんだ、俺。どういう意味だよ。ミステリアスな雰囲気を出したすぎて変に思わせぶりなことを口にしているだけなんだよな。
「他人事のようですね」
「他人事なのです。記憶がない現状、他人の評価に頼るしかありません」
司祭長の――俺の価値は、勢力の弱い公爵家が誘拐してまで得たいもの。勢力が弱いからこそ、なのだろう。そこから察するしかないが、ギュスターヴ公爵家が筆頭公爵家のナタウェル公爵家に勝るほどの勢力を付けることができる程度の価値ということ。それが高いのか低いのか、貴族制度のない世界で生きていた俺にはよくわからないが。庶民万歳。
クリスは何か言いたそうにしていたが、何も言わない。何も言えないのかもしれない。クリスも誘拐という罪を犯したギュスターヴ公爵家の人間。彼も無実ではいられないのだ。
乱暴にドアが開かれる。朝食も終わり、食後のお茶に移ろうとしていた俺は、油ギッシュで暑苦しいギュスターヴ公爵の登場に、少しだけうんざりしていた。公爵はこうして無遠慮に部屋に入って来て、俺の肩を掴むのだ。
「フラン、記憶は戻ったか」
「残念ながら」
記憶喪失がひと晩でどうにかなるとは思えない。ギュスターヴ公爵はそれだけ焦っているのだ。司祭長ともなれば、教団は血眼になって俺を探しているはず。公爵としては、一刻も早く記憶を取り戻させたいところだろう。記憶を取り戻しても、俺がギュスターヴ公爵家に取り入るとは思えないが。
「それなら尚更、クリスとの契約を急がねば」
ところで、このおっさん、俺のことを普通に「フラン」と呼んで来るが、どういう関係性なのだろう。ただ自分のほうが偉いと思っているだけなのか、記憶がないから親密であることをアピールすることが目的なのか。
いや、実際、公爵と司祭長ではどちらが偉いのだろう。司祭長は教団の中ではトップの地位だが、社会的地位はどうなのだろうか。
「父上、どうか冷静なご判断を」クリスが制止する。「ここで私が契約すれば、神殿騎士団は見逃しません。私が契約したとしても、私を殺せば無効になるのですから」
ふむ、クリスの冷静さは評価に値する。クリスの言う通りなら、神殿騎士団は躊躇いなくクリスを殺すだろう。確かに公爵の考えは冷静さを著しく欠いていた。
「司祭長の寵愛を手に入れれば、神殿騎士団など無力だ」公爵は唾を飛ばしながら続ける。「クリス、お前なら司祭長の寵児として相応しい。相応しく育てて来たはずだ」
つくづくと思うが、クリスがこのおっさんの息子であることが信じられない。どうやら公爵夫人は亡くなっているらしく、クリスはきっと母親似なのだろう。父親がこんなどうしようもない人間であれば、息子は冷静にならざるを得ないのかもしれない。
「お話はわかりました。司祭長殿は記憶を失われて敏感になっているのです。どうかお静かになさってください」
つまり「黙れ」ということだ。クリスもなかなかに言うねえ。公爵は何も言えなくなって、また荒々しく部屋を出て行く。まさに嵐のようなおっさんだ。クリスの苦労が窺える。




