11.クリス
コンコンコン、と軽快なノックが鳴る。この音はマーヤだ。というより、マーヤの他にこの部屋に来る者なんていない。実に寂しいものである。と言っても、この家の者と積極的に交流しようとは思えないのだが。
どうぞ、と応えると、やはり訪問者はマーヤだった。料理の乗ったワゴンを押している。本を読むことに熱中して、いつの間にか昼食の時間になっていることに気付いていなかった。
「昼食をお持ちしました」
「ありがとう、マーヤ」
マーヤはテーブルの上にてきぱきと食事を並べる。どの料理も美味しそうで、昼食の時間に気付いていなかったはずの腹が急に空腹を訴え始めた。この家の勢力はかなり弱いと言っていたが、腐っても貴族は貴族。その料理はどれも逸品だった。
食事を始めると、俺はマーヤに問いかける。
「クリス殿は、私が司祭長になったのは、前任の司祭長の罪を帳消しにするためだって言ってたね」
「はい。そう思っていらっしゃいますね」
「私には黒い噂はなかったのかな」
「ないとは言えません。フラン様は人を魅了して止みません」
マーヤの言葉に、それはそうだろう、と俺は考えて鏡台を振り向く。肩に当たらない部分で切り揃えられた浅葱色の髪。中性的に見える端正な顔立ち。それでいて、こんな色っぽい服装をしていれば、人を魅了するのは簡単なことだろう。
「それを利用して女性を誑かしているとか、王族に取り込もうとしているとか、そういう類いの噂はよく聞きますね」
「噂でしかない、ってことか」
「はい。フラン様ご自身は否定なさいましたけど……」
「まあ、その噂が本当だとしても、認めるはずがないね」
噂を認めてしまえば、司祭長の立場は危ういものになる。司祭長の座は相当に良い席であるはず。フランがそう易々と手放すわけがないだろう。
「しかし不思議ですね」マーヤが小首を傾げる。「フラン様ご自身がフラン様のことをお尋ねになられるなんて」
「何も憶えていないいま、自分自身が他人のような感覚だよ」
実際、俺にとってフランは他人だ。フランにとっても俺は他人。何もわからないのはお互い様ってところだろう。
またノックの音がした。マーヤでないとすれば、次に訪ねて来るのはもうひとりだけ。顔を覗かせたのはクリスだった。
「ごきげんよう、クリス殿」
「ごきげんよう。まだ記憶は戻りませんか?」
「残念ながら」
俺は曖昧に微笑んで見せる。幸いにもこの顔は、感情を表に出さないことが上手いようだった。前世の俺だったら、頭の中が丸わかりになってしまう顔をしていたかもしれない。黒い噂が本当かどうかはともかく、フランは隠し事が上手いらしい。と言っても、いまはそれほど隠さなければならないこともないのだが。
「神殿騎士団が司祭長殿を探し回っています。ここに辿り着くのも時間の問題でしょう」
言葉通り、フランの所属する教団が運営する神殿の騎士団だろう。騎士団と聞くと仰々しく感じるのは、軍隊とは異なる存在のように思えるからだ。
「公爵と違って、随分と落ち着いていらっしゃいますね」
ギュスターヴ公爵の焦りようと言ったら、この鉄面皮がなければ笑っていたかもしれない。それに比べ、クリスは肝が据わっている印象だ。
「父は小心者なのです。もともと、公爵位に就くような人間ではないんですよ」
「災難なことです」俺は微笑みを湛えたまま言う。「その地位に就くに足る度量を持っていない者が高い身分になるということは」
「その点、あなたは司祭長の座に就くに相応しい度量だったようですね」
クリスの言葉は嫌味のように感じられるが、実際、その通りなのだ。徐々にこの身体に魂が馴染んできたのか、俺は本来のフランが持ち合わせていたらしい冷静さを取り戻しつつあった。もともとフランは、誘拐された程度で精神が揺らぐような人間ではなかったのだ。
「ギュスターヴ公爵家もクリス殿が早めに代替わりなさってはどうですか?」
「父は許しませんよ。父は、健康なうちはなんとしても公爵位に縋り付くでしょう」
「ですが……例えば、投獄でもされれば」
俺は意味深な笑みをクリスに向ける。その途端、クリスの顔が訝しげに強張った。
「冗談で済む話ではないでしょう?」
「ええ、その通りです。ですが、そのときは私も無事では済まされないでしょう」
「残念なことです」
口ではそう言いつつも、自分の表情が微笑みを湛えたままであることはよくわかる。フラン司祭長はそういう人間なのだ。




