第55話 エイコとベラケレスの選択 黒髪の女神
車はカーナビの指定した施設の前まできた。
「どうやって入るんすか。あれ」とヒロユキが唸る。
暗い受付だった。病的にも見える真っ白なタイルと壁にスチールの光沢を放つカウンターテーブル。
カウンターの奥の呼び出しボタンに向けて腕を伸ばすと、近くに置いてあった花瓶が倒れた。
軽い音を立てて倒れた花瓶の中は、からからで、花は枯れていた。
ボタンが無反応で、大声で誰何するが何も起こらない。エイコが奥にある鉄製の扉を乱暴に叩こうとした、そのとき、重い音を立てて扉があいた。中から人間のようなものが顔を出す。
「ナニか……」と滑らかな機械音を出す自動人形の顔面をたたいて黙らせ、エイコはカードキーを頭の後ろに差し込んだ。焦って手が滑りなかなか差し込み口に入らない。やっと接点が合って、カードが滑らかに吸い込まれていく。
これは凛子の生体ID入りのキーだ。
ベラケレスの親族として日本政府が正式に認めた親族ID。
生体IDは、ただの鍵ではない。
これを使えば、国外に出ることも、口座を動かすことも、犯罪の記録をなすりつけることもできる。
自分の人生そのものをエイコに預けることと同義と言っても過言ではない。
それほど危険なものを渡される。
横でじっと見つめていたヒロユキがぽつりと一言。
「汚す人間に、こんなものは預けないでしょう」
機械音だけが流れる自動ロボを見つめるエイコ。
しばらくして自動ロボがくるくると顔面を回転させ始める。回転はしばらく続いたが、やがてピタリと止まって、「凛子様。ご子息の面会ですね。どうぞこちらへ」と音声が流れ、しずしずと自動ロボが動きだす。
長い廊下だ。けれどエイコはもう廊下の奥にある扉だけを見ている。
心臓がバクバクと打っているのに頭だけはぼんやりする。まるで体と魂が、切り離されてしまったような離人感に、ふらふらと歩いていた。
奥の一角、煌々と照らされた廊下の先に、扉が見える。頭上のラベルには「処置室」。
自動ロボが、くるりと振り返って「現在、処置中です。こちらでお待ちください」と機械的な音声で、脇にあるベンチを指さした。正確には鉛色の触手を伸ばした。
それを無視してエイコが扉を静かに押す。
扉はあっけなく開いた。
広い空間の正面に大きな機械が設置されていた。
その脇には人一人を収容する大きさの装置が置かれ、固い機械音を立てている。
隣には驚いた顔をした真壁が何かわめいているが、エイコの耳には入っていない。
エイコの瞳孔が開いた。
知っている。自動手術用のフレームだ。
スローモーションのように映像が脳で流れ始め、全てが脳の中で焼け付いていく。
その鉄の箱の中には、何が。
ずっと考えたくなくて。
止まっていた思考が、爆発の連鎖のように一気に脳内を加速した。
その鉄の箱には、なにがはいっている。
腰から崩れ落ちた。
間に合わなかった。
もう、何の希望もない。
その瞳も、その手も、その笑顔も、もうない。
幸せになってほしい。なってほしかった……のに。
それだけが本音だと、信じていた。
でも、すべてが壊れてから頭に残った考えは。
「コフィン・スペースから出て行ってくれ」と真壁がわめいている。
コフィン。
フレームの隣に一回り小さなボックスが置かれている。
エイコの科学者としての頭脳だけが、その言葉に反応した。
その小さな物体は、生体処置「前」の隔離フレーム。
「まだ……?」
真壁が何か言っているが、「まだです」だけしか聞こえなかった。
エイコは息が止まるような緊張の中で、それでも床を這うという行為を行った。
足が動かない。
それでも、体を引きずって無機質のコフィンに這いよると、かぎ爪式の閂に縋り付いて、魂の無い死者のようにずるりと起き上がる。片手が、あらかじめ知っている指定の場所へ伸びた。
エイコの手だけが手順を知っている。
パラメータa,b,n,sbb$……、open。
1センチだけ開いて止まる。
エイコは、そのまま強化ガラスのつなぎ目を勢いよく蹴り上げる。扉はバキ、と強い音を立てて、壊れた。喉から勝手に言葉が紡がれた。
「バカなことしないでよぉ……」
固い箱の底に収められている彼の顔を見た瞬間に、すべての蓋が開いた。
自分が恋人も作らずふらふらと研究ばかりしていた理由も。
大好きだったのに、失いたくないと思っていたのに。
自分の心を踏みつけて封印し、出てこないように栓をした。
箱に身を投げこむようにして全身で縋りつく。暖かい。
「馬鹿……馬鹿……」
何度も繰り返して3度目の「馬鹿」を弱々しくつぶやいたとき、肩が動いた。
エイコは「あっ……」と声が漏れるが言葉が続かない。
藍色の瞳がぱちりと開くと、開いた蓋と顔の横のクッションをぐるりと一周した。
「……マスター。ここは冷えます」
エイコは魂の抜けたような顔で呆けていた。やがてベラケレスの頬を、一度だけ弱く叩く。ぺち、と間抜けな音がしてベラケレスが目を見開いた。
「もう、どこにも行かないでほしい」
言った途端、涙があふれてきてエイコは泣いた。エイコは彼の前で泣いたことはない。
今までの分、どころか一生分の涙が堰を切ったようにあふれてきて止まらない。
今度はベラケレスが目を見開いて固まっている。
そして、ああ、とぼんやりと呟いた。胸のなかで泣きじゃくる一人の女性の背中を抱いて言った。
「私の確率の女神は、黒髪だったのか」
どうして気づかなかったのだろう。
同じでなくてもいい。
人間でもいいし、AIでもいいし、なんでもいい。
ただ、二人でずっといたい。
それだけだった。




