第53話 エイコとベラケレスの選択 68パーセント
あんなにあなたを見ていたのに、私には何も分かっていなかった。
この目は色のついたただのガラス玉だったのです。
あなたの好きなものも、嫌いなものも、歩き方も、声色も知っていました。
それでも。
一番大切なことだけは、何ひとつ見えていなかった。
ただ、あなたと歩いていた2年。
私の生を人生と呼んで良いならば、ですが――今までの人生の中で一番幸せでした。
もし……何かの間違いが起きて、この恋に未来があるなら……そのときは、あなたと同じ景色を見てみたい。
少し、疲れました。
眠ることが休息だとするなら、少し眠るのもいいですね。
――小さな声が、夢の底に沈んでいた。
* * *
エイコは夢を見ていた。
お腹が空いて荒野を彷徨う。手で汚れた土を引っ掻いてやっと手に入れたのは銀色のリンゴ。食べられない。
直せない病が死体安置所に運び込まれる。大切な人が次々と運び込まれてパニックになり、思い立ってさっきのリンゴをかじる。
硬いリンゴが歯に響いて痛い。
口元を抑えて飛び起きた。
「夢か……」
額に流れる汗を手のひらでぬぐいながら身震いした。
ノロノロと身支度をして研究所に向かう。遅刻ギリギリの時刻、足早でデスクに向かい、デスクで固形栄養食の袋を破った。朝食を抜いたのは何年ぶりだろうか。
夜間に清掃が入ったようで、机はピカピカに磨き上げられていた。チリ一つない机の端に、整理された書類が積んである。
いつもはそれを見て満足した気持ちになる。なのに今日は全く気持ちよくない。
ぼんやりと机に頬杖をついて、そろそろパソコンを開こうか迷っていると、モニターに濃い影が落ちた。視線を上げた先に珍しい顔を見つけてエイコは呟いた。
「師匠……?」
目の前に立つ老人、山根凛子にはたくさんの肩書がある。
エイコの最も尊敬すべき師匠であり、AI研究所を一人で切り開いた女、そしてベラケレスの母。
「うちの子が変なんだよ」
凛子が無造作に落とした書類が目の前に降ってくる。
反射的に受け止めようとするが、量が多い。慌てて手を差し出すが間に合わず、いくらか床に落下した。
それを「もう……なんなんですか、相変わらず雑なんだから……」と自分の雑さの全てを棚に上げて文句を言いながら拾い集めるエイコだが、その中の1枚の文字が目に入って目を見開く。
「既存ボディ処分区分……」
意味がわからない。なんだこれはと凛子を見ると真剣な表情をした凛子と視線がぶつかった。
「それだけ、やつの電脳ゴミ箱から復元できたんだ」
間違ってアルミホイルでも噛んだような表情の凛子を、エイコは目を見開いて見つめる。
慌てて床に落ちた資料をかき集める。エイコは文章と空間に特殊な能力を持っている。ざっと数秒目を通しただけで全文が読める。しかし、どれを読んでもよくわからない。
「師匠、順を追って、話してください、全部」
凛子は天才だ。どんな難問も基本的には一人で解いてしまう。その凛子が、どうしょうもないような顔をしている。
「私は、ベラケレスに、生前相続で全部渡すつもりだったんだ」淡々と凛子は続ける。「だがずっと断られていた。すっごい嫌そうだったんだよ、あいつ。いらない、使い道なんか無いって」
それは、エイコには"彼らしい"と思えるものだった。金に価値など感じていない。執着のあるものと無いものの差が激しい男だ。
「だけどさ、ついおととい。やっぱりいるってさ」
凛子の戸惑ったような表情。エイコは嫌な予感がどこかから湧き上がってくるのをはっきりと感じた。
凛子が机のスペースに無造作にノートパソコンを開いた。古い、重量のあるタイプのノートパソコンだ。あちこち傷がついて破けたシールが彼女の辿った軌跡に溢れた"しがらみ"みたいに端末に張り付いている。
凛子のパソコンだ。スーパーコンピュータ並みの性能を小さなボディに詰め込んだ凛子専用のパソコン。
ぶぅん、と起動音が鳴ると重苦しい処理音が響いた。
「ねえ、今日はベラケレスは?」
「休み……ですよ。昨日から3日間の。チェスの世界大会がある日は毎年そうです。録画含め何度も見るから仕事しないって毎年言ってます」
「あいつ……。でも、ほんとうに?」
凛子が不安そうな顔を見せる。ベラケレスのことを間違いなく一番知っているのは開発者の凛子のはずだ。それでも、エイコに目を向ける。
「有休申請にはそう書いてありました。システムにもそう記されてました」
エイコは勤怠システムを開いて答えた。
「いや。そうじゃないよ」
凛子の声は、低かった。
「そうじゃないってどういう」と言いかけるエイコだったが、ふと最近の様子を思い出す。
チェスの世界大会の前夜はいつでも大騒ぎだ。やれ熱い手だのやれ新しい手法が、だのとうるさい。
でもおとといは、「恒例行事です。明日からしばらく休みますね」とそれだけだ。
「もしかしてやられた……?」
呆然と呟いた。
いつもの行事。それを匂わせて、接続のある状態で不信を回避したのか。
凛子は難しい顔をして自分の端末を操作している。エイコはそれが個人予定へのハッキングだと気づいた。
「師匠、貸してください。私が」申し出る。そこでやっと、端末を渡す凛子の手がかすかに震えているのに気づいたのだ。画面には、天才の彼女に似つかわしくない、入力エラーの画面が並んでいた。
ここにきてエイコも、警鐘がガンガンと鳴り響いて頭が痛い。それでも慣れた手が正確な手つきを再現している。
「……これ」
ベラケレスの予定表、画面には何もなかった。
朝のミーティング予定:クリア、定例会議:解除、研究発表会:削除。
スケジュール表は来月の先まで真っ白で、たった一つ、エイコとの面談の予定だけが、取り残されたように残っている。
「うそだろう……」と凛子が力なくつぶやいた。
来月以降のすべてのスケジュール無し。
二人は顔を見合わせた。
どちらも、何も言わなかった。
* * *
ベラケレスは検索結果を見つめていた。
「人工生体へのコアおよび脳情報インストール」
その下にある研究者インタビュー。「人間になる方法」その稚拙な記事内容。
彼はため息をついて一度だけ目を伏せた。
それでも、削除はできなかった。
* * *
それからの2人は、デスクからロッカーからひっくり返して1週間前のゴミ箱まで漁ってやっと一通の紙切れを取り出した。
「この名刺……真壁」
「誰ですか」
「かつて研究所にいた狂人さ。日本のロボット産業が、もともと有機体と無機体、両方を研究していたことは知っているな」
「はい。有機体を機械へ、無機体を身体へ近づける、二系統の研究。でも、感情自律AIの出現で、日本の産業は一気に無機体に寄った」
「そう。消えたもう一方、人体をロボットにする研究をしていたのが真壁さ。サイバネティクス技術、初めは医療、介護方面への適用など真面目な研究だった。だが、やつが加入したことで事態は悪い方向に進み始めた」
「悪い方向……」
「人体とAIの境界を越えたのさ。人間をAIへ、AIを人間へ。やつは、その線を無法で溶かした。そして……」
「研究所を追われた……?」
重々しく頷く凛子。
「……ただし、研究は死ななかった。紙の上では非公認。だが、必要とする連中はいくらでもいた。AI研究所が日本の表の研究機関とするなら、やつの機関が裏の研究機関だ」
日本の参考図書のどれにも載っていない研究機関。
「生体サイバネティクス研究機構、そして施設長の真壁有希矢」
* * *
首都高湾岸線の最後の出口を降りて、車はゆっくりと浦影町へ入った。
海は見えない。
けれど、潮の粘り気を含んだ空気がどこからともなく運ばれてくる。
改札の一つしかない小さな駅で、昼下がりの駅前の駐車場はガラガラだ。通りを歩くと学習塾の明かりがついている。
ドラッグストアから、景気の良い音楽が流れてくる。カイロと羽毛スリッパ特売!の張り紙。
子どもを乗せた自転車が、電動アシストの駆動音を立てて坂を上がっていく。
その道を一本外れた先に、個人経営の大きいパチンコ屋がある。その脇の階段。照明が切れそうな地下へ続く階段の先。
そこが生体/非生体再設定機構承認機関「ヘッジ・ヴィス記念病院」だ。周りの住民には皮膚科だと思われている。
階段を降りていく。受付は閑散としている。
自動ロボが音声を再生する前にインターフェースをその頭に差し込んで情報を流し込むと、女性の顔をしたロボは不自然な笑顔のまま固まった。
後ろから不意に声がかかった。
「次は電脳空間で会うと思っていましたよ、ベラケレス」
「8年ぶりですね」
ベラケレスの真壁を見る目は決して旧知の同僚を見る眼差しなどではない、冷たい視線だった。
「どうしてこんな辺鄙なところに?」
書類を差し出してベラケレスは聞いた。
その質問に真壁はおかしそうに笑う。細めた目は一見優しそうに見える。しかし奥に狂気が潜んでいることをベラケレスは知っている。大きな口をにぃ、と耳につきそうなほど引き上げて、弾んだ声で、もみ手をしながらベラケレスの書類を受け取る。その表情は、まるで獲物を前に舌なめずりする蛇だ。
「ここねぇ、便利なんですよ。軍事演習場が近いでしょ」
「ああ」
首都高を通って一気に南下する周辺一帯は、政府施設や、軍関係施設、特定ホスピスなど、首都機能を支える大型施設が密集する。
「不審な形をした車が何台通っても、誰も気にしないじゃないですか」
暗幕の付いた大型車両、特殊装置付きのトラック、そして高級な霊きゅう車。
ベラケレスは、書類を片手にうきうきとタップダンスのまねごとをし始める真壁から、そっと視線を外した。
「……ふん、相変わらずのマッドサイエンティストか」
真壁はタップダンスの延長線上のような動きで部屋の端へ踊り寄って、扉の前に佇んでいた自動ロボに書類を突き付け「片しておけ」と低い声で命じた。そしてまた、奇妙に弾む足取りで部屋の中央に戻ってくる。
「まぁ、単純に、患者に軍関係者が多いってのもありますね」
以前から会話の呼吸の合わない男ではあった。けれどこの8年で一気に加速したらしい。
ふいに、真壁の視線が、彼の下肢へ落ちる。
「足は、直したんですか」
「……」
「この機会に直す?」
「不要です」
真壁の笑顔が一瞬固まる。ベラケレスのはっきりとした強い拒絶だった。
「……そう、それは重畳」
重畳?と目を細めるベラケレスに、真壁は書類を机に置きながら「人体のファントムペインのデータが取れます」と笑った。
部屋の奥には、棺桶のような長い筐体が横たわっていた。
医療用の白ではない。内側に薄い金属光沢があり、縁には透明な排液チューブが何本も絡みついている。
「さて、こちらへ。脳移植をするときにね、移植後の二時間は、あらゆる液体を抑える必要があるんです。唾液、尿。あらゆる液体をです。これはそのための隔離槽です」
真壁は、誇らしげにそれを叩いた。
「見た目が棺桶に似ていると、よく言われますがね」
ベラケレスは静かに冷えた息を吐いた。
「そろそろ、その口を閉じろ、と言うべきですか。何のためにここまで来たと? お前のような変人で変態で狂人のところに」
微笑の形のまま、真壁の顔が固まる。
「ただし残念なことに、その仕事だけは一級品です。だから私はここにいる」
固まった真壁の顔が途端につまらなそうな顔になる。真壁には、真面目になると逆に覇気がなくなる、妙な癖がある。
そのまま、興味もなさそうな口調で言葉を投げ捨てる。
「68パーセントです」
一枚の紙きれを「最後の書類です。サインをどうぞ」と投げ飛ばすようによこしてから、真壁は続ける。
「成功率ですよ。私の腕をもってしても。用意した人造有機ボディと既存コアが合うかどうか。それは能力や設備の話じゃない」
「というと?」
「運、です。こればかりはどうしようもない」
なるほど、とベラケレスは目を伏せた。
「この私が、確率の女神に縋る日がくるとは」
けれどそれでいい。後悔も、迷いもない。ぐずぐずと悩んでいたこの2年間よりよほどすがすがしい一日だった。
棺桶に似た隔離槽の蓋が、ゆっくりと開いた。




