第52話 エイコとベラケレスの選択 分かれ!
幾日か経った。
ベラケレスは忙しい、と言って代替ハンターをよこしてきた。
避けられている理由は薄々分かっている。
業務の間にコツコツと進めている研究は順調で、数百ページ目の電子論文のページを手繰りながら、エイコは論文の必要に迫られて辞書に手を伸ばした。
薄汚れた革表紙に、「AI法」と金色の文字が刻まれている。
この書籍は、この部屋だけでなくAI研究所のあらゆる部屋にデフォルトで設置されている。
編纂者は西崎敏也。現日本公社の社長である。
エイコは、ぱら、ぱらとゆっくりページをめくった。
このAI法があるおかげで日本のAI産業は独自の発展を遂げた。
今ではAIの生活全般はこれを基本にして動いている。
しかし、完璧ではない。
この法律が唯一規定も想定もしていないたった一つの事象のことをエイコは知っている。
それはAIの寿命に関する規定である。
当初から話はあった。何をもって死とするか、それを人工的に与えるか否か。
2051年現在、結論は出ていない。
結論どころか議論すら開始できないまま、感情自律AIはヒトとして社会に受け入れられ始めている。このままでは感情自律AIは永遠に生きることになる。
人間は必ずいつか死ぬ。
それなのに、また大切な人を作らせて、また失わせる。それを繰り返す。それがエイコには「正しい動き」だとは到底思えなかった。
エイコの機械的な頭は、こういうときだけ妙に冷静になる。
感情を、問題文に変換する。
問1。
AIは回路が壊れない限り永遠に生きることができる。でもエイコは今年30歳になる。80まで生きたとしてもあと50年。共にいる。今はいい。ベラケレスはエイコが死んでしまった後、どうやって生きていく?
解答欄には、いつも同じ答えが浮かぶ。
エイコの頭は、完璧で冷酷な解答を、常に推奨してくる。
エイコはそのまま本に額をつけて、いつの間にか眠ってしまった。
もう夜が明けそうだ。
ふちに夜露の溜まった窓の向こうはしらじらとし始めている。
ひっそりと扉のあたりから低い、きぃ、という音が鳴る。
寿命という星霜、時間、積もった雪のような温かい空間。そんなイメージに引きずられたのか、眠っている間にいくつかの夢を見たようで、エイコの表情は眉を寄せたりほほ笑んだり、忙しかった。
ベラケレスは渡そうとした書類を持ったまま、しばらくそれを見ていた。
四半時も経たないうちに真っ黒なまつげの縁取った瞳が開いて、机につっぷしたまま、隣でパラパラと書類をめくっている男をとらえた。
「資料です」と控えめな声で言うのに「ありがとう」とだけ返してぼんやりとまどろみと現実の境界を引き始めた脳を甘やかしてやる。
「朝焼け……」
「なんですって?」
「あなたの瞳って不思議だよね。普段は青なんだけど下から見るとちょっとオレンジなの。朝焼けのかすみの下の青みたいだね。綺麗だね」
ずっと昔、冷えたコンクリートの上で見た、くすんだ朝焼けとは違う、鮮やかな色あい。
エイコは寝ぼけていた。しかし朝焼けのかすみの瞳が驚きに瞳孔の紺色に支配されたのを見て、現実に引き戻されて、頭を振った。
「眠ってたのか」
「……見ていたことがあるんですか、私の目の色なんて」
エイコは一瞬はっとした顔をしたが、曖昧にほほ笑んだ。
「そりゃね」
「……見ていたなら」
夜の瞳が、天井を当てもなく彷徨った。
「私が何を望んでいたのかも、分かったはずだ」
エイコは手を出して書類を受け取る。それから、イエスともノーとも言えない口調で「うぅん」とだけ言った。
「……ずっと綺麗だなって思ってた。だからかな。同時に、あんたには幸せになってほしいとも思っていた」
「……あなたは、ならないんですか、幸せ」
「あんたの目はとても綺麗。……あんたと私は違うわ」
「……朝焼けの瞳ですって。本気で?」
ベラケレスの表情が奇妙にゆがむ。
「あなたが望むなら、この目など不要です。私は朝焼けなど見ていない。興味もない」
口に出せばもう止まらなかった。青から緑、黄色、オレンジと徐々に変わっていく空も、通りの乾いた空気も、ずっと向うの電車の音も素通りしていく毎日の中。
「ただ、あなたを見ていただけです」
行き場を失った言葉があふれ出て、届く前に消えた。
窒息しそうなほどの息苦しい沈黙がその場を支配する。
「……でもさ」
エイコの切り出すその目は、遠くを見ているように儚い視線だった。
「私はあと50年もしないうちに、いなくなるよ。私なりにあなたのことは……気に入ってる、と、思う。だからこそずっと幸せでいてほしい。……本心だよ」
忌々しげにベラケレスが舌打ちした。
「私に、陳腐な言葉を言わせないでください。『そんなことを私が考えないとでも思いましたか?』と。」
言葉は鋭いが、その目は深く沈んでいて、丸い刃のようにエイコの心に突き刺さった。尖っていないのにゆっくり、深く切り込んで切り裂いていく。
「……ばか。バカだね。私はあんたにふさわしくないって言ってんのよ……」
「それは……」
言葉を遮るように鋭くエイコの声が響いた。「分かれ!」
初めて響くエイコの怒鳴り声。
「……愛ってなに。私はあんたを好き? わからないの。分からないのよ」
どこまで行っても、どこにもたどり着かない関係性だ。ましてや、片方が正常じゃないタイヤで、どこにもたどり着けない。
「正直言っていい? 私、人間なのかなぁ」
「好きとかどんな感情でどんな温かさなのか、考えれば考えるほどよく分からない。人間なのに、あんたみたいにちゃんと分かってない」
急に、エイコの声がつたなくなる。小さい子供が顔を出したような透明な独白。
「もしかしてさぁ、愛されたことがないから、かな。お父さんお母さん。どうして私を、捨てたの。どうして私に愛をくれなかったの。どうして欠陥品にしたの」
ずっと認めるのが怖くて口に出せなかった。
けれど出してしまったらもう止まらない。
「……私は、ほんとに人間なのかな?」
ベラケレスは、じわじわと後悔が渦巻いて、激しい奔流のように自分の体を満たすのを、呆然として観測していた。
エイコが抱えていた虚無の正体に触れてやけどをしてしまった。どうして分かったなんて思っていた?道化も甚だしい。絶望が広がる。
「ごめんなさい」
ぽつり、ぽつりとベラケレスが口を開く。
「ずっと考えていました。私の寿命が永遠なら、あなたの子孫を見守ったっていい。あなたが笑顔で愛する人と笑ってくれるなら、それでいいと」
それは紛れもない本心のはず。
なのに。
「でも、何度シミュレーションしても失敗してしまう。あなたの隣で笑顔を向けられるその男に、私は耐えられない。どうにかなってしまいそうだ」
何度やっても失敗するシミュレーション。
そして考えてはいけない一つの感情。
「未来のあなたの隣にいる男を、私は、殺してしまうかもしれない」
もう隠せない。許される道がないなら、せめて何もかも正直に言ってしまおう。
「そんな自分が一番憎い」
醜くて愚かで惨めな本心。
「けれど、それでも―― 貴方が好きだ」
エイコの歪んだ表情を、名残惜しそうに一瞥した。それを最後に、ベラケレスは後ろを向いて、振り向かずに去っていった。




