第51話 エイコの選択 分からないふり
最近はやたらと昔を思い出す、とエイコはため息をついた。
考えを巡らせるが原因は分からない。
「それ」は、今思えば本当にバカバカしい始まりだったのだ。
お互い残業明けで、まともな思考に乏しいまま、昼下がりの談話室でひとときの休憩をしていただけ。
同僚の若手が向かいのテーブルで休憩していた。エイコもベラケレスも顔見知りだった。ふと、同僚の食べていた手作りの弁当のことで話に花が咲き、和やかなムードで談笑していた。
ベラケレスは、ずっとエイコの隣にいた。
エイコとベラケレスはその休憩室でよく議論をする。
脳科学の最新の研究発表の話、昨日見たウェブの記事の話、研究所の隅に置かれた新しい自動販売機のラインアップの話。二人の話は時に唐突で突拍子もなく、それでいながら綺麗な着地点に予定調和のように到達する。そして時々ベラケレスの独壇場になり、エイコはただ微笑みながらその話を聞いている。また、ごく稀に、二人にしか分からない独特のリズムを持っている。
なので、ほかの人間が割って入ることはあまりない。
あのときは、たまたま二人とも少し疲れていて、同僚の家庭の愚痴の聞き手に回っていた。少なくともエイコはその時間を楽しく感じていた。
だからもしかすると、疲れていて、その分あんまり楽しくて、少々口が軽くなっていたかもしれない。
新婚家庭の愚痴のような、しょうもない何かの雑談のついでにふとエイコがからかうように口を開く。
「あんたも私にべったり引っ付いてないで、誰かいい人探しなさいよ」
しょうもない雑談だと思っていたはずなのに。
藍色の目が驚いたようにまん丸くなって固まった。
突然空気が冷えた気がして、やけに静かになった。そのうち給湯室で沸かしたお湯がこぽこぽと遠くから音を出し始めても、固まった表情からは何も返ってこない。
かちゃ、と硬質な音を立てて何かが床に落ちた気がした。それは現実だったか、もしくは全くの気のせいかもしれない。けれど彼女はその音を無かったことにした。
「しょうがないなぁ」と一言二言言ったあと、口を開いた。
「AIと付き合うのが一番いいわ。AIの女の子紹介しようか?」
ふと思いついただけなのに、まるでずっと前から考えてました、とでも言いたげな口ぶりになった。
ベラケレスはずっとエイコの隣にいた。
でも、「いりません」と言ったきり黙ってしまった彼を見て、エイコはそれ以上何かを言うことはやめたのだ。
ただ、バカバカしい始まりからたどり着いた、バカバカしい茶番、それだけだ。
* * *
ある日の業務でエイコは少しだけ怪我を負った。
その日はエンダーの当たり日だった。エンダーは電気を帯びている。それに当てられて、伝送路にある青暗い照明がぱち、と小さな雷のような音を立ててはぜる。
見渡す限りエンダーをすべて消し炭にした。エイコは満足そうに深く頷いた。真新しい耐電手袋を手の甲まで深く嵌める。
「装置の配置完了。エンダー制圧、空間クリア。帰りましょうか」
先ほどの戦闘で焦げた手袋をぷらぷらと振り回し「反省だね」とサークレット越しに相棒に話しかける。
「申し訳ありません……。空間圧縮の方が早いと思ったもので……」と小さな声が返ってきた。
種々さまざまなエンダーを一度に焼こうとして空間固定と圧縮を行う。それは良いが、ベラケレスが圧縮用電圧を1つ読み間違ったのだ。
とっさに設置しかけた装置を引き抜こうと手を突っ込んだら手袋が小さく焼け、焦げた匂いが充満する。そのためエイコは舌打ちしながら強引に装置を取り出し、穴の開いた手袋を勢いよく脱ぎ捨て、ビニール袋に放り込んだ。
「マスター、こちらに」といつの間にかボディ具現していたベラケレスが手を差し出している。
ビニール袋を手渡し帰路に就いた。
黙って従うベラケレスを横目で見ながらエイコはふと昔を思い出した。
ずいぶん安定したと思う。
少しでもエイコの身体が傷つけば茫然自失する昔のベラケレスを思い出す。
ずっと以前、彼が相棒を失ったことを知っている。
けれどもう立ち直ったのだろう。
今なら、とずるく思わなかったと言えば、嘘になる。
「あ、そういえばね」
帰り際の更衣室に向かう廊下でエイコは何でもないことのように口を開いた。
「今度の12月の内示でね、研究部門に異動になるかも?」
乾いた空気のほこりを吹き飛ばすような強い声が廊下に響く。
まだ日は高い。それなのに一瞬、廊下の先が暗く陰ったような錯覚を覚える。
「誰が?」と首を傾げる隣の男に「私」と高い声で言った。
途端ベラケレスの顔色が変わる。
「まさか、内示候補者一覧には……」と言い募るのに、畳みかけるようにエイコはいった。
「そこは名前、抜いてもらった」と言うエイコに「なぜ」と言葉がかぶせられたので「だってあんた見るじゃん」とおどけるように人差し指を振る。
エイコは知っている。彼が12月、4月、9月、全ての区切りで毎回内示一覧に目を通しているのを。
「言ってほしいです」
「文句言うじゃん」
間髪なく返される言葉にとげは出ていないはず。エイコは慎重に言葉を続けた。
「まだ決まりじゃないし、さ。揉めてんのよ。後任問題で。あんたの隣に来たい候補者が死ぬほどあふれてんの。女性の方がやりやすいかな、と思ったんだけどさぁ。蓋開けてみたらあんたのファンばっかりくるの、なんなの」
テンポよくお喋りの止まないエイコと対照的に、ベラケレスは無口だった。いつものお喋りの影も形もないベラケレスに、振り向きもせずエイコはしゃべり続けた。
ベラケレスの足が次第に早まってエイコの隣に並んだ。そしてそのまま無言で追い越し、エイコの真正面でぴたりと止まる。
前方をふさがれてとっさによろけそうになるエイコは文句を言おうとした。けれど振り向いたベラケレスの顔を見て、口を止めざるを得ない。
今まで見たことのない顔だった。
「どうしてあなたはそうなんですか……。何も! わかってない! 私が女の子紹介してほしそうに見えましたか……!」
私は――ずっとあなただけを……。
後半の小さな声は、聞き取れないほど細かった。
続く言葉をのみ込み、あとには不自然に唇をかみしめたベラケレスの苦しそうな表情だけが残る。
代わりに続く言葉はいつも通りの文句だった。
「……明日は10時から作業です。よい一日を」
ベラケレスは唇の端を引き上げていた。いつもと違う笑いだった。
けれど、エイコは何も言わない。
通じ合ってしまうより、わからないふりをしている方がずっと楽だ。
通じ合ってしまえばもう終わりだ。




