第50話 ベラケレスの論理 フォルダ
静かで妙な空気が夜に落ちた。
ベラケレスは、じっと見つめる視線を感じ、肌がちりちりするような圧を受け流して、注射器をケースで包んだ。エイコが悲しいようなぼんやりしたような顔をしてその光景を見ている。
視線を袖で隠しながらゴミ箱に放り込んだ。こんなものを使わせる気はない。
「……一年前に、相棒が死にました。本当に、ふっと、煙みたいにいなくなったのです」
「……ああ」
まるで、知っている、とでもいうような心地よい口調で静かに答えるエイコを見て、ベラケレスの目元がほんの僅かに緩んだ。
気づいたらその先まで喋っていた。
「私は待っていた。すぐ帰ってくると思っていた。なんてことないイベントだと……」
ベラケレスが言葉に詰まる。息を吸い込むと、後悔の匂いのする空気にめまいがしそうだ。
「……そうやって私がうかうかしている間に相棒はいなくなりました。人間はアッという間に死んでしまう」
「……死ぬね」
仕事を一緒にしていても、夜になれば、みんなそれぞれの場所へ帰っていく。けれど朝には何事も無かったようにまた顔を合わせる。そんな毎日を流し暮らすうちに、どこかでその繰り返しを永遠だと信じていたように思う。
それがどれだけ儚くて薄い夢だったかなど、知らずに。
「……今でも、私の頭はあのときの後悔で満たされています。あのとき止めていたら、私も一緒に行っていたら? 時間は巻き戻らない。だから無駄な考えです」
過去への後悔と未来への不安、連鎖して無限演算のように頭の中で空回りする。
「……それでも止まらない」
ふいに、むなしくなる。誰かに聞いてみたくなる。
「私は、どうしたら?」
答えがないことは知っている。それでも口にしてみる。
「……そうね。死んじゃったもんはもう戻らない」
答えはあっさりときた。顔を上げるとエイコが微笑んでいる。
「でもさ。自分の心にはさ、永遠に置いておけるよ。心の中にその人の姿形を思い出して、自分の中に住まわせてあげるの。その人のフォルダ作る感じ」
楽しそうにエイコは言う。
「時々フォルダ開いてね、語り掛けてあげるの。死んじゃったかもしれないけど死んでない。私の中にいるもの」
その笑みは嬉しそうで、つられてベラケレスも笑った。
「私はそうやって、亡くしたたくさんの人たちを自分の心に住まわせてみた」
その黒い目は遠くを見ているようで、実は何も見てないようで。ベラケレスには少し分かった気がした。現実味の無いぼんやりした顔をして、ここではないどこかを見ているような彼女の表情の意味を。
彼女は自分と対話しているのだ。正確には自分の中のたくさんの人と。
「不思議な方法ですね」
とベラケレスはつぶやいた。
「あなたAIだから得意でしょ。自分の中にフォルダを作るの。大好きだったあの人のフォルダ、お世話になったこの人のフォルダ。たくさん、たくさん」
「ずいぶん、賑やかになりますね」ベラケレスは生まれて初めて、不器用に優しい微笑みを浮かべた。
その独特の方法におかしくなって、山峰のことをフォルダに入れてみる瞬間を想像する。
「ね。たのしいよね」とエイコが満足そうに笑う。
しかし、ふとその声が無機質に戻る。
「まぁ……そうできないときもあるけど」
エイコの表情がいつの間にか陰っている。
「姿形がわかんないもんはどうしようもないもんね。あーあ。お父さんとお母さん、どうして写真の一枚も残してくれなかったんだろうなぁ」
ベラケレスは、知らず目を見開いていた。
その寂しそうな横顔に。
息が不自然に止まって、出そうとした言葉が直前でほどけて消えた。
彼女のその吐き出した息を。つぶやいた言葉を。
まつげが強く光を弾いた様子を。
目をそらすことが出来ず、瞬きすら忘れてその横顔を見ていた。
その現象の意味を理解したのはずっと後になってからだった。
気づいた頃には、もう止められないほど進行していた。
* * *
彼女が私の世界に入ってきたあの瞬間、私の電脳の奥深くにかすかな陰影が見えました。
その陰影は少しずつ輪郭を帯び、まるで現像液の中で浮かび上がるアナログ写真のように、私の日常の輪郭を浮かび上がらせていきました。
気の滅入るようだったサーバ室には、無機質な駆動音に混じって、彼女の声が時々、風のささやきのように小さく溶け込むようになりました。
部屋いっぱいに広がっていた焦げたケーブルの匂いの中から、かすかなシャンプーの柔らかな香りを捉えるようにもなりました。
調整された五感が、すべて狂ったのか。
感覚エラー判定プロトコルを何度走らせても、「異常無し」判定に、私は戸惑いました。
最後には視認器官まで狂い、視界の隅が、いつも彼女の姿を探すようになりました。
私はそこでやっと理解したのです。
翔吾を忘れたわけではない。
しかし、私の記憶領域には、新しく彼女が住み始めた。




