第48話 ベラケレスの論理 仏像みたいな女
どんどん月日が流れた。
彼が就任してから2年が経っていた。電脳空間は当たり前のインフラになり、人々は電脳空間で語り合い学校に通い、電脳空間で死ぬ。
伝送路の規模が大きくなったことで予算は潤沢になり研究所の駐車場は広くなって、サーバ室の空調は贅沢なオート制御になり、ヘンリーは研究所の所長に就任していた。
AI研究所の規模はさらに拡大して人員も増えた。仕事はどんどん楽になっていた。
しかし、ベラケレスは時間に余裕ができても、足を治そうとは思わなかった。
それは山峰との思い出を一瞬で消されたことへの、ベラケレスなりの抵抗だった。
そもそも電脳空間では対向重力が働くため、気にはならない。
相変わらず午前中は足を引きずって出勤するが、その頃には誰になんと言われようとも別に構わないと思っていた。彼を彼と認識して話しかけてくるような者も、もうほとんどいなかった。
* * *
そんなある日、自宅の冷蔵庫の調子が悪く、ベラケレスは朝の食堂にやってきていた。
食堂には興味が無かったため、3年目にして初めて足を踏み入れたことになる。
専用カードで食事券を発券すると、奥へゆっくり歩を進める。
途中で、なんの気なく窓際の方を見た。窓際に整列するように赤い円形のテーブルがいくつか置いてあった。そこで、賑やかにお喋りしながら食事する一団が目に入った。4人掛けのそのテーブルに、倍の7人も座って窮屈そうに肩を窄めている。
その中で一人だけ女性がいる、なぜか妙に目についた。
一人だけ、薄汚れ裾のほつれた白衣を被るように着て、一人だけイスの上に立膝で、たった一人だけ、一切他と言葉を交わさず一心不乱に麺をすすっていたから。
整った礼儀正しい一団の中で一点だけ異質な色。それが彼女だった。
よく見ていれば整った容姿だと気づいたかもしれないが、美醜に興味のないベラケレスの目には入っていない。
ただ、その様子がどこか引っかかった。立膝で肩肘をついて片手でくるくるとした癖毛を耳に掻きあげて、無表情で麺をすすっている。その姿があまりにも熱がなく静かで、彼女の周りだけ空気が静止しているような、仏像が座っているみたいだなと思ったのが第一印象だった。
食事を終えたベラケレスはさっさと食器を片付けて食堂を出た。数時間後にはその一団の記憶は消えていた。
果たして、次の日も冷蔵庫の調子は悪い。
買い物にも行けかったベラケレスは冷蔵庫のコンセントを抜いてため息を一つ、食堂に向かった。
メニューなど気にしたこともない。粛々と食事を終えると、綺麗に重ねた食器が載った盆を持って立ち上がった。
その日も窓際の同じ位置に、その一団はいた。
しかし、今日は少しだけ違う。何やら大きな声で威圧するような声で何人かが言葉をぶつけ合っている。
AIの神経系に関する議論が論じられているようで、やっとベラケレスは思い出した。
中国からの脳神経学シンポジウムのための研修団が来ている予定だった。
通り過ぎようとするベラケレスの真横で、ひときわ大きな声が聞こえて、一団は急に静かになった。
その直後、「この、孤児女が」と妙にはっきりとした声で聞こえる。
面倒な騒動が起きる前にヘッドホンのボリューム受音を調整しようとした、その時。
涼やかな声が聞こえた。
「そうよ。戦争孤児なの。それが何か?」
その温度の消えたような機械的な音声に、少しだけ振り返る。
ちらりと目をやって、あああの時の仏像の女だと理解する。
しかし食器を静かに片づけて事務室に向かった。
何日か後、またあの女を別の場所で見かけた。
新作のエンダー討伐ゲームの前だった。「新作!」と書かれた札の前でじっと手を組んで座っている。
ベラケレスは運んだ資材を担当者に渡して立ち去ろうとした。しかし、不思議な声が聞こえてその足が止まる。
「13.34.4.5」と奇妙な言葉が彼女の口から流れてきた。
彼女が熱心に覗き込んでいる、そのアプリ画面をベラケレスは知っている。
モニターの横に空間認識用の青いバーが付いていて、上下左右にバーを移動させながら、出てくるエンダーを倒すタイプのものだったはずだ。
しかし彼女の手はバーに触れていない。
「22.34.4.5」「49.36.4.5」次々と言葉が出てくる。
不思議に思ってモニターに目をやった瞬間、思わず心のなかであっと呟いた。
座標か。
音声マイクオンして座標入力を行なっているのだった。
とっさに位置センサーや補助装置を探したが何もない。それなのに、全て一発でエンダーの真ん前だった。
ということは、目と感覚だけで位置座標を設定しながら駒を動かしている。確かに座標なら一瞬で移動できるので点数が上がる。ただし実際にやるには非常に精度の高い空間認識力が必要だ。
ただ機械のような無機質な声だけが滑るように部屋の中を流れていく。
異様な光景に、思わず声が漏れる。
「AI?」
ピクリと小さな頭が動くが女は振り返らない。
しかしそれに乱されたのか、「49.36.4.……8」と、最後の座標だけわずかに遅れる。
しかも誤っている。
「Y座標2位置……6、いや7……です」思わず口が出てしまった。女の声が被さるように設定音を吹き込んだが、間に合わない。画面には「Died」の文字と「268点」と黒帯の文字が浮かび上がっていた。
ベラケレスは女が振り向く前に、そそくさと廊下の端に消えていた。
早足に廊下を進みながら、頭は先ほどの様子を考えていた。
268点?見たことのない数値だ。それにあのアプリに本来音声入力IFなど備わっていない。おかしな改造された入力端末も、あり得ない速度の正確無比な座標指定も、あらゆる面で、あの女がAIであろうと考えた。
しかし、違う。
彼女がAIでしかありえないはずなのに、自分のどこかの部分が、「違う」と言っている。少し胸が痛い。
ベラケレスは知らず胸を押さえた。コアの誤作動など初めてのことだった。落ち着いた後、自分でも分からない感覚値をたたき出すコアに「誤作動」と判定付けて調整部にデータを遠隔送信した。
そして、ゆっくりと通りの角に消えた。
* * *
次の日、冷蔵庫は完璧に修理を終えていた。
しかし、ベラケレスは何故か食堂にいる。
窓際の日の当たる席で暖かい日光を浴びながらゆっくりコーヒーを飲んでいると、いつもの一団が後ろのスペースにいる。
彼らは食事が終わっても何をするでもなく1時間以上そこでたむろしている。
そしていつでも小さなお喋りから議論が始まる。白熱してくると食堂中に響く声で怒鳴り始めるものもいる。
話題は神経系のニューロンの接続について、興味深い議論だった。
聞いているうちに脳内反証と仮説が立ってしまった。
「……それはニューロン接続の仮想クラスター構築論理と」
――同じ。という言葉を思わず飲み込んでコーヒーを一口すすった。
危ない。思わず応答めいたことをつぶやいてしまった。
それに耳ざとく反応したのが彼女だった。
「この声、あのときの……?」
振り向いて椅子の背もたれに肘をかけ、細い目でベラケレスを見る。
その目は「観察」だ。体は一切動いておらず、目だけが高速で目の前の人物の頭からつま先まで舐めるようにゆっくり動く。まるで対象を三次元モデル化するために周回するドローンのような視線だった。
しかしその機械的なまなざしの寒さも、彼女が微笑むと一瞬で消えた。
「AIならAIの神経系のニューロンの接続分かるね?」
「え、ええ……」
名を名乗る隙もない唐突な切り口、AIであることに少しの疑いもない断定的な口調、そして正面から見据えてくる女の圧に、ベラケレスは少しひるんだ。
「やっぱり? 今のネットワーク論? 脳科学にそれ持ってくるの面白いね」
口調が柔らかくなり、周囲に温かい空気が流れたような雰囲気になる。
「以前は、個々のニューロンが独立した意思決定単位だと考えられていた。でも最近は少し違う。接続そのものが意思を形成するという説が浮上した。それは……」
流れるような言説だった。問われれば無視もできずベラケレスも素早くいくつかの論点と反証を述べる。
それに0.3秒のスピードで反応されて、また反証を考える。
あまりにも早い繰り返しだった。
2つのコップから絶えず水が注がれ合うような議論に、いつの間にか周囲がしんと静まりかえっていた。
「……そうすると近接にいない対象とのニューラルネットワークにおいては意思決定が遅延してしまう難点があるね。この点、AIならアドバイスある?」
一切迷いのない目。ベラケレスは、議論の内容に押されていた。
研究室にいけば。
「……長くなる。研究室で話しましょう」
こっそり研究室のスーパーコンピュータに接続するつもりで席を立つ。
ゆったりと頷く女は、隣の男に食器を無造作に押しつけて立ち上がった。
研究室の扉を開けると冷たい風が顔に吹き付けきた。
初めて、女に人間らしい動きが生まれた。
「寒っ。つか、なんなのこの服」
両手で自分のむき出しの腕を抱きしめて自分の服を忌わしそうに見た。不機嫌そうに手近のケーブルを、ヒールのかかとでつついている。
ベラケレスはここで初めまともに女に顔を向けた。
よくよく見れば上から下まで研究になじまない格好だった。
ネットワーク設備の研究室の空調は16度設定である。
研究員は大抵白衣か長袖、あと上着までしっかり着込む。対して女は薄い半袖ニット1枚だった。
「……そのサマーニットでは、寒いでしょう」
しかも下はさらに短いハーフパンツ。かかとの高いヒール。
女は面倒くさそうに服の袖をつまんだ。
「これサマーニットっていうの? 支給の洋服にあったから適当に着ただけ。サマーニット……ねぇ。夏なの? 冬なの? 意味わかんないね。うちんとこじゃ見たことないなぁ」
支給?と呟くベラケレスに、女は快活に頷く。暗く沼の底のような瞳なのに、喋り始めると活発な様子が一気に押し寄せ、涼やかな声とも相まって印象が一気に変わると感じた。「国費留学だから、給料無いの。身の回りのものは故郷のハルビンからの支給品」と喋る故郷の地名の言葉は、確かに滑らかな中国語だった。
「中国。ああ、確か……戦争……」
先日のやり取りを思い出してベラケレスは言い淀んだ。
「うん、戦争孤児だよ」
女はうるさそうに手を振った。
まるで、もう何度も繰り返した説明だと言わんばかりだった。
ベラケレスは女の視線の強さから逃げるように目を伏せる。
その先にあったのは、季節感の分からない薄手のニット越しの豊かな膨らみだった。
その一瞬を見逃さず、まるで待ってましたと言わんばかりに女は口角を上げた。
「……気になる?」
ベラケレスの視線の先の膨らみのトップを、ツンとつついてニヤリと笑った。
「Fカップよ」
「……そんなところは見てません」
道理でサイズがあってないなと思っただけです、と続ける。
「なーんだ。そっちが気になるヒトだと思ったのよ。それで声かけられたのかと思った。ちがうの、イケメンくんってつまんないな。興味ないんだ」と大げさに驚いた様子で女が口を歪める。
ベラケレスはといえば、最大級に冷静な顔を作って言い放った。
「……ニューラルネットワークについて議論しましょう」
この挑発は彼女の戦略に違いない。
そんな風に当時のベラケレスはとらえていた。




