第35話 アリスのおたふくかぜ
アリスのデスクの周りだけ、「ぱく、ぱく」とユーモラスで不思議な音がしている。
パククン、というゲームがある。
丸い体に2つの目がついたユーモラスな球体が、口をパクパクさせながら前に進み、「バグック」と呼ばれる敵キャラを駆逐していくゲームである。
これを、もじったデバッグゲーム「パックンバグ」。
その開発者、すなわちアリス・雪村が自作アプリの、デバッグをしている音である。
ピコピコ、ピコーン。
時々駆除数が上限に達してレベルアップしている音が響く。
アリスがオフィスに一人でいるのは珍しい。
周りから、ちらちらと見られていることなど意にも介さずデバッグを続けるアリスだが、時々「アリス〜このツール…直せる?」と無遠慮に画面を覗き込んでくる先輩がいる。
いつも大体、「どれどれ、アリスさんに任せなさい」と身を乗り出して相談に乗ってくれるアリスなので周囲の人気はとても高い。
けれど今日は違った。
「うん……うーん?」
生返事をするアリスはぼんやりとパソコンを見つめた。
机の上の、少し汚れたステッカーだらけのパソコン。
それを持ち込んでアリスの前において「どう?どう?」と目をキラキラさせながら聞いてくる同僚に目を向けてじいっと画面を見つめる。
赤、青、黄色。虹色、コーヒー色、鶯色。
アリスの色彩感覚は他とは少し違う。見える色の種類がほかの人よりはるかに多いらしい。
時々、パソコンを眺めていると眩暈がすることがあるのだが、今回はそんな日常的なものとは違う。
「分かんないけど、とりあえずデバッグしよ……」と画面から目を離さないままつぶやく。
いつもなら、「やってみよう!」と元気よく口を開いてくれる後輩が今日はどうしたことか。わくわくしていた同僚もやがて気づく。
「あれ、アリス?顔、赤くない……?」
その問いには答えず、アリスは宙を見つめたまま「ぱく、ぱく……」と呟いた。
そのまま、椅子ごと横に倒れた。
「おっ、おいアリスっ!ちょっと誰か!アリスが倒れたっ!」
隣で椅子の下敷きになった同僚はパニックになって転がったまま叫んだ。
「おたふく風邪だそうです……。はい、はい……診断書は不要、ですね。分かりました」
アリスは電話を切ろうとして少しだけ考え直し、一つだけ付け加えた。
――おたふくだから、アンバーにはくるなと伝えておいてほしい。
と。
電話を終えて一息つくと、ベッドにふらりと倒れ込んだ。
熱が出たのは2日前、職場で倒れてしまったのでそのまま所長の車に乗って家まで送ってもらい、1日寝込んだ。
その後動けるようになって病院に行ってみれば、案の定、病名がついてしまった。
それはいいのだが。
「おたふく風邪……」
最悪……と、力なくアリスはつぶやく。
頬が膨れている感覚が鏡を見なくてもわかるし、あと痛い。
病院から帰ってきて鏡を見て腰を抜かしてしまったアリスはそれ以来鏡を見ていない。
顔はダメだ。
人一倍、いや何倍も美意識の高いアリスにとって、顔が膨れてる、は致命傷だった。
丁寧に鏡台の鏡を取り外して、洗面所の鏡にピンクのタオルをかけ、最後に部屋を回って手鏡を回収して鏡台の下の引き出しにしまう。
そこまでは丁寧だったがそこからは乱暴に髪の毛をほどいて、もこもこパジャマに袖を通すこともなく、パタリと倒れ伏した。
一人暮らしのアリスの部屋はとても整っている。
12畳ほどの広すぎないリビング。
壁にはAlice In Wonderlandのロゴと手書き風のピンクのリボン、そして女の子がお茶会に参加しているのを描いた壁装飾。
脇に置かれた木の棚には、色とりどりのぬいぐるみがきれいに並べられている。
まるで子供の部屋のようにかわいらしい色合いだ。しかし、白とピンクを基調とした柔らかい色彩のインテリアは、見る人が見ればそれなりにヴィンテージだとわかる。
ベッドも、イギリスのハイブランドの、一般人には目の玉が飛び出るような高価な代物だ。
空は快晴だった。
氷の粒のような朝日が、キラキラと窓から差し込んでいる。
その光が、ぐっすり寝込んでいるアリスの頬に柔らかく降り注いだ。
しかし、全体的に部屋は薄暗い。
その薄墨の闇の中で、アリスはパチリと目を覚ました。
こちこちと、壁掛けの黒いアンティーク時計が静かに時を刻んでいる。その時計は彼女が唯一実家から持ってきたものだった。丸いフォルムに薄茶色の光る文字盤、コケティッシュな雰囲気がお気に入りで、全てを捨ててもこれだけはお別れができないと、震える手で抱きしめて持ち出した時計。
部屋が静かすぎて、その時計の音だけがやけに響く。
性転換手術を受けてからは両親とは不仲だった。彼らはこの部屋に足を踏み入れたことはない。資金提供だけさせてこの部屋に移ってきたあの日、金輪際、顔は合わせないと言い放って、玄関先で扉を閉めた。
バタンと扉を閉めた後の静寂、新しい壁紙の匂い、少しのワクワクと解放感で、離れていく車の音など耳にも入らなかった。
これからは一人だから。
この世界と付き合うのも、今まで以上に気を引き締めていかないといけない。
自由と孤独が背中合わせであることくらいは、あの日の自分にも分かっていた。
けれど、それがこんなふうに、時計の音だけを大きくするものだとは、まだ知らなかった。
納得済みでも、こんな日は少しだけ考えてしまう。
心の隙間に吹く風がほんの少し冷たいようで。
小一時間も経ったろうか。まどろみながら過ごすうち熱が少し引いてきて、リビングに行こうと体を起こした、その時だった。
――ピンポーン
チャイムが鳴った。
今なら出られそうだとアリスが体を起こしたその時。
――ピンポーンピンポンピンポン
アリスは眉をひそめた。宅配にしては騒がしすぎる。
焦りながらドアを開くと……。
玄関の向こうには大勢の同僚がいた。
皆マスクを付けて狭い玄関になだれ込まんばかりに詰め込まれている。
ひえ、と声が出て思わず一歩引く。
人の奥から見慣れた女性がかき分けて入ってきた。
エイコだった。
研究員たちをぐいぐいと押しのけて、隣の男から大きなビニール袋を受け取っている。そのまま扉を閉めようとするが、人が多すぎて閉まらない。
「ごめんねー……なんかみんな行くって聞かなくてさ。あっ、私おたふく一回やってるから大丈夫よ」
エイコが気軽な様子でビニール袋を差し出す。
扉の向こうから大声が聞こえる。
「差し入れです!」
「冷えピタです!」
「ゼリーもあるよ!」
「パックンバグの進捗、聞いていいですか?」
最後のひと言の直後だけ、鈍い音が聞こえた。
他にも、扉の隙間からどんどん袋が投げ込まれる。
さながらキャンプ地の焚き火のように積み上がった荷物がガサガサと賑やかな音を立てている。
しばらくあっけにとられて眺めていたが、そのガヤガヤが、なんだかひどく眩しく感じられて、アリスは少しだけ目を細めた。
「お仕事忙しいのに……すみません」
そんな言葉ばかり言わないで、といつもエイコには言われるのだが、今日は何も言われない。
「……大丈夫。お見舞い行くって言ったら、あいつらが3倍速で仕事終わらせたよ。来週分まで終わっちゃった」
エイコの言葉が優しく響く。
アリスは少しだけ目に水が溜まったのを誤魔化すように、焚き火みたいに積み上がった荷物を見下ろした。
「ちょっと張り切りすぎですよ……。スポドリこんなにがぶ飲みしないもん、小さいアリスちゃんは……」
ぷんぷん、と声を張ってみるが、言葉とは裏腹にエイコに顔を向けられないでいる。
「あっ、なんか冷えピタ足りないね。スポドリばっかあんじゃん」
と誰かの声が聞こえた。
それに応えてのんびりした声を上げたのは馴染んだ声だった。おそらくヒロユキである。
「あー……買いに行ってくるわ。ちょいコリンダー、一緒に……」
しかしその声が不自然に途切れる。
「……ち。いねぇのか。めんどくせ……」
小さな声がやけに耳に響いて、アリスは思わずヒロユキの姿を探す。
気安い先輩は、もうマンションの階段の方へ続く後ろ姿を見せていた。
その背中が、なんだか寂しそうに見えて仕方がない。
暖かくてやさしい焚き火のそばで、彼の隣だけ、ぽっかり空いてるような、そんな後ろ姿だった。
帰ってきたヒロユキがドラッグストアの袋を扉越しにそっとエイコに手渡す。
「さんきゅ」
「あの、エイコさん。……なんか」
「ん?何?」
ヒロユキは言いづらそうに口元を覆うが、エイコに促されて明後日の方を見ながらひそっとつぶやいた。
「なんか、あそこ。外の駐車場でずーっとウロウロしてるの、なんかアンバーっぽいんだけど……呼んだ方がよくない?」
「え?! アンバー?!」とびっくりしたアリスが体を浮かせるが、すかさずヒロユキに「おまっ! 病人はダメ! おとなしくっ!」と制される。
数分後、アンバーがエイコに引きずられるようにしてやってきた。
「痛い痛い……! エイコさん! 力っ」
その様子を見て一同呆れ返り、中にはガタっと音を立てて敷居を踏み外した者もいる。
マスクにサングラスに手袋、そして長ぐつとカッパ。
ちなみに雨は降っていない。
両手には大量のスポーツドリンクと解熱剤の入った袋を抱えて、なぜか望遠鏡らしき物を3つも首からぶら下げている。
「なんで望遠鏡3つ……」と呆れ返るアリスにアンバーが決まり悪げに返す。
「破損時のための予備です」
ふてくされた子供のような表情でそれらしいことを言う。アンバーは望遠鏡のレンズをくるりと回して、明後日の方を指差しながら続けた。
「来るな、と言われましたので……。あの辺から観測するのは、止められてませんし」
『観測すんな』
と一同の声が被る。
「仕方ないね……」
アンバーが目を合わせない様子が、これ以上詮索してくれるなと言っているようだ。
アリスは苦笑いしながらその幼い仕草を肯定するように頭をなでた。
以前なら少し腹を立てていただろう。
けれど、こんもりと積みあがったビニール袋と、アンバーの手の中の大量のスポーツドリンクを見ると、もう何も言えないのだった。
危険は依然としてある。
でも今は誰かといる。
焚き火のそばで。
アリスはその暖かさを、胸の奥にそっとしまった。




