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電脳ハンター 伝送路に愛は残るか  作者: 秋野PONO(ぽの)
第3章 それぞれの絆

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第21話 エイコの論理―その優雅な1日

 電脳ハンター統括、エイコ・ヤン・風上の優雅な一日は、一杯のコーヒーから始まる。

 粉の2人分は20グラム。朝はその半分だけ使う。

 夜の間にシワ1つ無く綺麗に用意してある紙フィルタにお湯をそそぐ。じわっという音とともにお湯が紙にしみこんでいく。

 朝もやのように空気に溶ける白い湯気を、手であおいで鼻先に運ぶ。もう少し盛大に湯気が立てば朝のパック代わりになるかな、などと馬鹿げたことを考える。


 コーヒーの5回目の注ぎが終わると、音声指示で静かなジャズを流す。

 

 冷蔵庫からラップをかけた小さなフライパンを取り出してフライパンごとトースターの中へ、スイッチを入れる。サラダを照明の下に出して、空気と同じ温度にしてやる。


 電気機器達が朝食を温めている間に、人間である彼女はパックしながらコーヒーを飲み、瞑想する。


 次に朝食を取りながらお気に入りの全てのブラウザのタブを更新して15分で内容を詰め込む。

 1つだけエイコの趣味でないチェスの世界大会のタブがあるが構わず読み込む。

 

 朝食を終えると論文を1ページだけ進める。

 毎日1ページだけ。それが彼女の理論だ。

 ただし、本日は少々違った毛色の文書を開いている。


 ――エンダー撃滅ツールの不具合について

 1ページ目には 

『対象が存在しない場合に、別の近傍対象へフォールバックする件、電脳空間内のタッチパネル感度不備について』と記載されており、いずれもハイライトがついている。


 ベラケレスが、報告書に追加したい項目があるとのことで、今日デスクに来るように言ってある。


 基本彼女は、残業中のヘロヘロ状態の時には「来るな」と言ってある。

 一語話すと百語返ってくるのが非常に煩わしいからだ……と自認している。

 

 だから、朝来るように言ってある。


 朝の電車はあんこの詰まったたい焼きのようだとエイコは思う。

 日本に初めて来た時、観察員の女性がたい焼きを奢ってくれたことをなつかしく思い出す。

 

 骨と皮ばかりだった13歳の戦災孤児の少女が可哀想に思ったのだろう、観察員の女性はその後も何くれと面倒を見てくれて、最後に保護観察プログラム付きの学校へ繋げてくれた。


 車を買うこともできるが、電車に乗ることは、儀式。

 

 十三年間。

 法のある国で、法のかけらもない暮らしをしてきた。

 人の死を間近で見てゴミ箱を漁って、ハチャメチャな生活をしていた、そんな自分を、封印するための儀式。

 

 満員の電車でどれだけ人にもみくちゃにされてもエイコは特に苦にならない。

 みんな少しずつ譲り合っている空気を肌で感じるから。

 電車の中で小気味よいボサノヴァを耳に流し込みながら目を閉じる。

 一人ではないが、一人の空間。

 嫌いじゃない。

 

 だから、誰かさんが車で送ると言って聞かない定時後も固辞して電車に乗る。

 

 電車が揺れても体幹の制御は完璧だ。

 時々、自分の相棒を見ていると、彼が機械なのか、自分が機械なのか分からなくなる瞬間がある。

 

 研究の扉をくぐる。ゲートは優雅な休憩所への入口でもあり、危険地帯への境界線でもある。

 この『奇妙な2面性』――それが職場に感じる素直な感想で、不思議に思いながらも、しばらくののち考えるのを放棄した。


「おはよう」と言い合うだけで自分の業務へ戻っていく同僚達、気持ちのいい距離感だ。

 時々、近所に出来たレストランの話なんかをもってくる同僚がいて、少し話し込むとあっという間に始業時間になる。


 始業すると朝のざわざわとした空気は一転し、オフィスはひんやりとした沈黙に包まれる。

 3台置いたパソコンを次々と点灯させていき、キーボードを取り出す。空中タップ用キーボードを使う同僚が多いが、エイコは「実際に叩いてる」感が好きで古いタイプの接触キーボードを使う。


 さて、昨日の業務報告書を5分で書き終わったあと、一息ついてあたりを見回す。

  

「マスター!昨日のチェス世界大会見ました?マーク・ベイルートのあのシビれる一手……!やはり私の見立てに間違いはありませんでした。あの一手は実は初手から始まってて…」

 「……うるせぇ」

「ええ。まだ何にも言ってませんよっ。あ、ありがとうございます報告書。私の方に転送してください。追記して提出しておきます」

 こちらが無駄話に呆れる前に業務連絡にすり替える。

 このこすい男のいつもの手である。

 さてさて、昨日は疲れは残っていないようで、良かったような、面倒くさいような。


 ほんのすこしだけ心が軽くなったことに彼女は気づいていない。


 ふわりとベラケレスのまとうムスクの香りが届く。

 エイコは元々香りは身にまとわない信条だった。

 だが、同僚のまとうオリエンタルムスクの甘い香りがどうもむず痒くて、半ば対抗するように白檀を選んでいる。


 しかし、誤算だったのは『自分の香りは自分には届かない』こと。

 自分の香りというのは防御力が低い。

 いや、むしろ防御力ゼロである。

 

 思わずエイコは思考をとめる。


 防御?

 何から?

 

 まあいいか。

 

 今日は相棒が騒がしいから考えるのはやめよう。

 そうやって電脳空間へ今日も赴く。

 すべては一時保留。

 

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