山道と邂逅
八幡原を北上した信繁一行は、善光寺を通り過ぎ、山間を縫うように通る北国街道を北へ進んだ。
――海津城を発つ際に香坂虎綱が口にしていた通り、先日積もった雪が初春の陽気で溶けた事で道が泥濘み、度々馬が足を取られてしまう。
そのせいで通常よりも移動に時間を食い、野尻城に着く前に日が暮れてしまったので、信繁たちはそれ以上の北上を諦め、その日は地元の豪族である芋川親正の居城である若宮城に泊まった。
そして、翌朝若宮城を発った信繁たちは、一刻ほど山道を進み――遂に、武田と上杉の勢力圏の境まで到ったのである――。
「――見えました」
緩やかに曲がる山道の向こうを指さした昌幸の声に、一行の間に小さなどよめきが広がった。
――百閒 (約180メートル)ほど離れた先に、馬から下りた大紋姿の男たちが立っているのが小さく見える。
「うむ……」
小さく頷いた信繁の表情にも、微かな緊張の色が浮かんだ。
彼を取り巻く供回りたちが、ゴクリと唾を呑みながら、無意識に腰の刀の柄に手を遣る。
「……佐助」
昌幸は、信繁の馬の口を取って歩く男にさりげなく囁きかけた。
「上杉衆が何か怪しい動きをしたら、すぐに動けるようにしておけよ」
「分かっている」
小者に扮した乱破の佐助は、鋭い視線を前方に据えたまま、昌幸の言葉に淡々と答える。
「誰に物を言っている。……お前の方こそ気を付けろよ。さすがに同時にふたりは守り切れん」
「無論だ。自分の身くらい自分で守れる。お前は典厩様を守る事だけに専念しろ」
「ふ……」
脇でふたりの会話を聞いていた信繁は、思わず苦笑いを浮かべながら、小さく首を横に振った。
「警戒を怠らぬ事は大切だが、そのように気負いすぎる必要も無いと思うぞ」
そう言いながら、彼は自分の横を馬で進む男をチラリと見る。
「何せ、こちらには前の公方様の弟御であらせられる覚慶様の使者殿が同道しておるのだ。いかに長年の因縁がある宿敵とはいえ、今ここで我らに刃を向けるという事は、自然将軍家に弓を引くのと同義となる。そのような不敬を、上杉方があえて犯そうとするとはとても思えぬ」
「……武田様の仰る通りです」
足利覚慶の使者・明智十兵衛光秀は、信繁の言葉に相変わらずの無表情で頷いた。
そんな彼に頷き返した信繁は、再び前方の集団へ目を向け、馬の横腹を蹴る。
「では……参ろうか」
「はっ」
信繁の声に応じた昌幸たちも、彼に続いて馬をゆっくりと進めた。
向こうで自分たちを待ち受けている一団の顔ぶれに注意深く目を配りながら、信繁は光秀に尋ねる。
「あの白髯を蓄えた老人は……宇佐美駿河守定満殿と見たが?」
「ご明察の通りに御座ります」
信繁の問いかけに頷いた光秀は、少し怪訝な顔をしながら訊き返した。
「……ご面識は無かったのですか? 川中島で何度か相見えたと聞いておりましたが」
「敵味方として戦ったのは確かだが、実際に顔を合わせた事は御座らんな」
光秀の問いかけに苦笑いしながら、信繁は首を横に振る。
「お屋形様などは、天文二十四年 (西暦1555年)の戦の際に会っておるはずですが。あの時、和睦交渉で越後方から何度かお屋形様の許へ遣わされたのが、確か宇佐美駿河守だったはず」
「その際に、貴殿は宇佐美殿とはお会いにならなかったのですか?」
「生憎と、某は旭山城を守る為に本陣とは離れた所に布陣しておりましたからな。だから、和睦交渉の場には直接立ち会っておらぬのです」
そう答えながら、彼は深い皺に覆われた老将の顔を注視した。
「成程……あれが、川中島で我らがしてやられた上杉家の軍師殿か。既に齢八十を超えていると聞くが、矍鑠としておる」
そう呟いた彼は、険しい顔をしている定満の横――集団を率いるように先頭に立っている壮年の男に目を移す。
「……して、あの方はどなたかな? 立ち位置から察するに、宇佐美殿よりも上の立場のようだが……」
「あぁ、あの御方ですか」
信繁に尋ねられた光秀は、彼の視線の先を追い、小さく頷いた。
「長尾越前守様です」
「長尾越前守……政景ですか!」
光秀の答えを聞いた昌幸が、驚きの声を上げる。
「確か……越後坂戸城主で、上杉家当主輝虎の姉婿にあたる男……ですよね?」
「左様に御座る」
昌幸の問いかけに、光秀は淡々とした様子で応えた。
それを聞いた信繁も、意外そうに目を見開く。
「当主の義兄が、わざわざ我らの出迎えに参ったという事か……」
「当家の使者がお屋形様の弟御である典厩様だったので、向こうも合わせたのかもしれませんね」
信繁の言葉に、昌幸が言った。
「確かに、言われてみればそうか……」
昌幸の言葉に頷いた信繁だったが、十五間 (約27メートル)ほどの距離まで近付いた事でさっきよりもはっきりと見えてきた上杉方の一団の様子を見て、どこか引っかかるものを感じた。
(……果たして、本当にそれだけの理由か?)
こちらの警戒を解こうとしているかのような穏やかな表情の政景に比べ、彼の傍らに控えるように立っている宇佐美定満の皺だらけの顔は険しかった。明らかに、歓迎しようとしている感じではない。
……まあ、それは分からなくもない。
何せ、武田家と上杉家は、信濃を巡って十数年も激しく戦い合ってきたのだ。しかも、定満は軍師としてかつての大戦に加わっていた上に、今はふたつの勢力がぶつかり合う最前線である野尻城の守将である。武田家に対して含むところが無いはずがない。
……しかし、
(あの表情から垣間見える不満というか苛立ちは……こちらに対して向けられたものだけではない……?)
なぜか、信繁の目にはそう映った。




