童と老将
「お待ち申しておりました」
上杉方の集団の中央に立っていた壮年の男が一歩前に進み出て、二間 (約3.6メートル)ほどの距離を置いて馬を止めた信繁たちに柔和な笑みを向けながら、小さく会釈をした。
「武田左馬助殿とお見受けいたし申す。私は、長尾越前守政景と申す者。此度、上様より直々に命を受け、貴殿らを春日山城まで案内する御役目を仰せつかり申した」
「これは、わざわざ出迎えにお越し頂き、かたじけのう御座る」
政景の慇懃な挨拶に柔和な笑みを浮かべながら、信繁も軽く頭を下げる。
そして、チラリと後ろを一瞥して、緊張に満ちた表情で上杉方の動きを注視している昌幸たちに「早まった事をするな」と目配せしてから、落ち着いた声で言葉を継いだ。
「いかにも、某が武田左馬助信繁に御座る。お初にお目にかかり申す、長尾殿。今後の道案内を宜しくお願いいたします」
「こちらこそ、宜しく申し上げます」
そう答えて信繁に微笑みかけた政景は、その傍らにいる光秀の方に視線を移す。
それに気付いた光秀が、恭しく首を垂れた。
「ご無沙汰しております、長尾様。お勤めご苦労様に御座りまする」
「昨年の暮れぶりですな。御息災のようで何よりです、明智殿」
光秀の挨拶に対しても、穏やかな表情で応える政景。
……と、光秀が何かに気付いた様子で眉を上げた。
「……卯松様もご一緒なのですか?」
「ん? あぁ……」
少し訝しげな光秀の声に、政景は僅かに口元を緩めながら頷き、それから背後に向けて手招きをする。
すると、一列に並んでいた上杉衆の中から、ひとりの少年が前に進み出てきた。
黒鹿毛の馬に跨った彼は、随分と体が大きい。だが、その額には前髪が残っている事から、まだ元服も終えていない年齢のようだ。
政景は、手綱を繰って自分の横まで馬を進めてきた少年の背中に手を回し、微笑みながら光秀の問いに答える。
「せっかくの機会なので、坂戸から連れて参った。此奴にとって良い経験になると思いましてな」
そう言うと、彼は信繁の方に顔を向け、言葉を続けた。
「武田殿。この者は、我が倅の卯松に御座ります。私と共に、此奴にも貴殿の案内役をさせたいと考えて連れて参りましたが……宜しいですかな?」
「あ、ああ、勿論に御座る」
唐突な政景の提案に少し当惑しながらも大きく頷いた信繁は、口を真一文字に引き結んだ硬い表情をしている卯松の緊張を少しでも和らげようと、出来るだけ穏やかな声で話しかける。
「……卯松殿と申したか? 某は武田左馬助信繁と申す。春日山までの道程、宜しく頼む」
「……はっ」
信繁の言葉に、卯松は特に表情を変える事無く、慇懃に頭を下げた。
「こちらこそ、よろしくお願い申し上げます」
「まったく、相変わらずお前は……。もっと愛想良くせよと申しておったであろうが」
「申し訳ございませぬ、父上。ですが、元より拙者が笑顔を作るのが苦手な事はご存知でしょう。これはもう拙者の気質というものですから、どうぞお諦め下さい」
思わず呆れ顔になった父親の苦言に対し、ふてぶてしいとも見えるほどの無表情のままで答える卯松。
ついこの間まで敵味方に分かれて争っていた相手を前にしている割には、物怖じしている様子は毛先ほども見えなかった。
(随分と肝の据わった童のようだな。さすがは、あの軍神殿の甥御か……)
卯松の態度に胸中秘かに舌を巻きながら、信繁はちらりと背後に目を遣る。
……どうやら、まだ幼い卯松がこの場にいる事によって、昌幸たちの警戒は大分薄らいだらしい。
明らかに先ほどよりも和んだ空気を背中に感じつつ、彼は再び上杉方の面々へと目を戻す。
(……ひょっとすると、初めからこうなるようにと、あえて自分の息子を帯同してきたのかもしれぬな。この長尾政景という男は……)
だとしたら、このいかにも人の好さそうな顔とは裏腹に、実はかなりの切れ者なのかもしれない――穏やかな笑みをこちらに向けている政景の顔を見ながら、信繁はそんな事をぼんやりと考える。
――が、
「……越前守様」
鋭く尖った氷柱のような冷たさを感じさせる声が、一同の耳朶を打った。
次の瞬間、緩みかけた場の空気が、再びひりつくような緊張を孕む。
そんな中、声の主が淡々とした口調で言葉を継いだ。
「畏れながら、某の事も皆様にご紹介頂けるとありがたく存じまする」
「あぁ……すまぬな、駿河守」
静かながらも険しい響きを帯びた老将の声に対し、それでも穏やかな表情を崩さずに応じた政景は、信繁の方に向き直る。
「紹介するのが遅れまして申し訳ございませぬ、武田殿。――この者が、この先にある野尻城を上様から任されている宇佐美駿河守に御座る」
「おお……これはこれは」
予測した通りの名前を聞いた信繁は、それでも初めて知ったという体で感嘆の声を上げてみせた。
「お主が、あの宇佐美殿か」
「……はっ」
信繁の言葉から一拍置いてから、老将は小さく頷く。
「……宇佐美駿河守定満に御座る。以後お見知りおきを」
「名は幾度も耳にしたが、面と向き合うのは今日が初めてだったはず……違ったかな?」
「……いえ」
定満は、信繁の問いかけに小さく頭を振った。
「某も、武田典厩殿の御高名は事ある毎に聞き及んでおりましたが、お目にかかるのは初めてに御座りますな」
そう答えると、彼はやにわに鋭くさせた目で信繁の顔をじっと見据える。
そして、彼には聞こえぬくらいに潜めた声で、ぼそりと付け加えた。
「……出来れば、八幡原の大戦の後の首実検で、その面を見とう御座ったな」
今回登場した卯松。
彼こそが長尾政景の嫡男にして、後に上杉謙信の養子となり、御館の乱で同じ養子の立場だった上杉景虎を倒して上杉家の当主となった上杉景勝その人です。
卯松 (以降は景勝)が生まれたのは弘治元年 (西暦1556年)なので、永禄9年(西暦1566年)段階ではまだ数えで僅か十一歳です。
彼が元服したのは永禄7年 (西暦1564年)ですが、それは父政景が野尻湖で宇佐美定満と共に溺死した事で急遽家督を継ぐ必要が生じた為でした。
なので、野尻湖溺死事件が発生していない事で父親の長尾政景が健在である当作品の世界線では元服していないという訳です。




