湖と雷鳴
武田家と上杉家の勢力のちょうど境目にあたる山道で長尾政景をはじめとする上杉方の出迎えを受けた信繁たちは、彼らに先導されて北国街道を進む。
ほどなくして、道の右側に鬱蒼と生い茂って視界を塞いでいた原生林の木々の隙間から、薄曇りの弱々しい陽の光を反射して光る水面が姿を見せた。
「これは……」
「野尻湖に出たようだな」
思わず声を漏らす昌幸に頷きながら、信繁が言う。
そのまま道を進み、より木々がまばらになった場所を見つけて馬を止めた彼らは、眼前に広がる巨大な湖を見渡した。
「ふむ……これはなかなか麗しき景色だな」
穏やかなさざ波を立てている湖面の深い蒼と、その背後に聳える山々の稜線を覆う積雪の白との対比の美しさに思わず目を奪われながら、信繁は感嘆の声を上げる。
「思っていたよりも大きゅう御座いますな。諏訪の湖ほどではありませんが」
彼の傍らでそう言った昌幸が、湖の中に浮かぶ小さな島を指さした。
「……あれが琵琶島でしょうか?」
「左様」
昌幸の言葉に短く答えたのは、それまで言葉を交わす事も無く集団の先頭を歩いていた宇佐美定満である。
「あの島の全域に築かれた城が、儂が殿よりお預かりしておる野尻城に御座る」
「島全体を城に……」
定満の言葉に、信繁は改めて島を見つめる。
――と、
「……どのようにすれば攻め落とせるかと考えておられるのですかな?」
「ん……?」
どこか刺々しさを感じる響きの声に信繁が振り返ると、そこには白髭に半ば隠れた口元を皮肉げに歪めている定満の顔があった。
無表情を装いつつ、隠し切れぬ感情を帯びた定満の目を真っ直ぐに見返しながら、信繁はふっと口元を綻ばせた。
「……さすが、上杉家随一の智恵者と噂に名高い宇佐美殿。某の心の内などお見通しのようですな」
「ほう……」
信繁の答えを聞いた定満は、僅かに白眉を上げる。
「これは意外ですな。てっきり、これから和睦しようという相手の城を攻め落とす方法を考えていた事を某に看破されて、泡を食って否定なさるのかと思っておりましたが」
「ははは……」
定満の言葉に苦笑しながら、信繁は頭を振った。
「お気を悪くなされたのなら、誠に申し訳ない。……ですが、城を見たら無意識に攻め落とし方を考えてしまうのが、武人の性というもので御座ろう。宇佐美殿なら……いえ、某が生まれるより遥か前から戦働きをなさっておられた宇佐美殿なればこそ、この気持ちはご理解頂けると思うが」
「む……」
信繁の返事を聞いた定満は、一瞬驚いたように目を見開き、それからニヤリと笑みを浮かべる。
「ふふ……確かに、貴殿の申される通りですな、武田殿」
「……っ」
それまでずっと仏頂面だった定満が、ここで初めて表情を緩めたのを見て、鍔迫り合いにも似た緊迫を孕んだふたりやり取りを傍らで固唾を呑んで聴いていた昌幸や長尾政景たちは、皆一様に小さく息を吐いた。
――と、
「……おい、源五郎」
小者に扮して徒歩で信繁に付き従っていた佐助が、声を潜めて昌幸の事を呼ぶ。
声をかけられた昌幸は、怪訝な顔をしながら小声で応えた。
「……ん? どうした佐助?」
「少し、まずいかもしれん」
訊き返した昌幸に、佐助は目配せで西の空を指し示す。
「まずい? 一体何が……」
そう言いながら、何気なく佐助の視線の先を追った昌幸だが、すぐに彼の言葉の意味を察して表情を曇らせた。
「確かに、まずいかもしれんな……」
西の空を覆っている雲が、いつの間に薄雲から分厚い黒雲に変わっている事に気付いた昌幸は、信繁の側に馬を寄せ、真剣な表情で彼に注進した。
「――畏れながら、典厩様。今のうちに屋根のある場所を探した方が良いかもしれませぬ」
「ん? 屋根のある場所……だと?」
唐突な昌幸の提案の意味を測りかね、胡乱げに訊き返そうとする信繁だったが、西の空から響いてきた“ゴロ……ゴロ……”という腹の底に響く低い音を耳にして、即座に状況を把握した。
「今のは……春雷だな。つまり、これから嵐になると?」
「左様に御座ります」
昌幸は、信繁の問いかけに小さく頷く。
「今の雷音の感じですと、まだ距離は離れておりますが、恐らく一刻 (約二時間)……いえ、早ければ半刻 (約一時間)足らずで、この辺りにも雷と共に強い雨……或いは雪が降り始めましょう」
「場合によっては雹になるかもしれぬな」
西の空を眇めた目で見ながら、定満が言った。
「この時期には良くある天気の変動じゃ。その者が申した通り、早めに雨宿りした方が宜しかろう」
「そうですな……」
定満の意見に同意した信繁は、周囲を見回す。
「この辺りに、雨風を凌げる大きな家などは……どうやら無さそうだな」
「残念ながら……」
信繁の言葉に、定満は表情を曇らせながら頷いた。
「ぽつぽつと漁師の家はありますが、どれも小さく、たとえ分散して雨宿りをしようとしても、これほどの人数にはとても足りませぬ」
「では、このまま先を急ぐべきですかな?」
「いえ」
問いを重ねた信繁に、今度は政景が首を横に振る。
「この先は、しばらく集落ひとつありませぬ。その途中で雷雨に追いつかれてしまっては、雨露を防ぐ手立てがございません」
「雨ならまだしも、雪や雹になったら難儀ですな……」
政景の言葉を聞いた信繁が、表情を曇らせた。
……と、
「……ひとつ、案が御座る」
そう口を開いた定満が、湖の方を指さす。
「あそこで雷雨が止むのを待つのはいかがですかな?」
「あそこ……?」
定満の言葉を聞いて、彼が指の先に目を向けた信繁は、彼が何を指していたのか気付いて、思わず声を漏らした。
「野尻城か……!」




