提案と疑念
「野尻城……?」
信繁の呟きを耳にした昌幸は、思わず表情を曇らせた。彼と同様、香坂昌澄をはじめとした武田方の人間も、皆当惑した様子で互いの顔を見合わせる。
(それは……大丈夫なのか?)
声には出さずとも、全員の顔がそう言っていた。
一方の定満は、信繁の言葉に「左様」と頷き、言葉を継ぐ。
「小城ではあるが、野尻城ならしっかりとした建屋がある。雨露はもちろん、たとえ吹雪や雹になっても、不自由なく凌げよう」
「し、しかし……」
定満の言葉に、昌澄がおずおずと声を上げた。
「あの湖の中に浮かぶ島までは、どうやって行くのですか?」
「ははは、異な事を訊くのう」
昌澄の問いかけに、定満はおかしそうに笑い、琵琶島の向かいの岸を指さす。
「当然、島まで泳ぐ訳ではないぞ。あそこにある舟着き場から小舟を何隻か出して湖を渡るのだ」
「小舟で……ですか」
「――おや?」
答えを聞いて思わず躊躇の表情を浮かべた昌澄に、定満がわざとらしく首を傾げた。
「もしや、疑っておるのかな? 儂が何か良からぬ計略を巡らすのではないか……と」
「あ……い、いえ、そのような事は……」
「――大変申し訳ないが」
慌てて首を横に振った昌澄とは対照的に、油断の無い目で定満の顔を見つめながら首を縦に振ったのは昌幸である。
彼は、全てを見透かそうとするかのように鋭い目で定満の顔を観察しながら、きっぱりと言った。
「その通りに御座る」
「! ほう……」
昌幸の答えにピクリと片眉を上げた定満は、まだ自分の四半の一も生きていない青年の顔に鋭い目を向けた。
だが、昌幸は老将の猛獣のような眼光に射竦められても気圧された様子も無く、逆に負けじと睨み返す。
……と、
「やめよ、昌幸」
見かねた信繁が、やんわりと声をかけた。
「お主もだ。控えよ、駿河守」
政景も、僅かに眉を顰めながら定満を制する。
「はっ……申し訳ございませぬ」
「……失礼いたした」
それぞれの主に窘められた昌幸と定満は、少し不満げな顔をしながらも、素直に頭を下げた。
それを見て小さく息を吐いた政景は、自分と同じような表情を浮かべている信繁に言う。
「……武田殿。上杉家家中の者が、大変な失礼をいたしました。私からもお詫びいたします」
「いえ。こちらこそ、無礼仕った」
申し訳なさそうに深々と頭を下げた政景に、信繁も慌てて頭を垂れた。
と
顔を上げた政景が、「それはともかく……」と切り出す。
「雨宿りの件はいかがいたしましょうか」
「む……」
「……正直、駿河守が申した案は、なかなか悪くないと思います」
柔らかな微笑みを浮かべながら、政景は居並ぶ顔を見渡した。
「この大所帯が入れるような建物など、この辺りには野尻城以外ありませぬゆえ」
「……畏れながら」
そう政景に声をかけたのは、香坂昌澄だ。
彼は、野尻湖の北岸にある白い雪が薄っすらと積もったなだらかな稜線を指さす。
「確か、あの山の上に城があったはず。そこはいかがでしょう?」
「野尻新城ですか……」
昌澄の言葉に、政景は少し迷う素振りを見せた。……が、彼が答える前に、定満が首を横に振る。
「それは無理じゃ。野尻新城は、城というよりは“城から離れた出丸”であるゆえ、大勢の客を招き入れられるほど広くはない。急拵えの為、曲輪の中の建物も掘立小屋に毛の生えた程度じゃ。それに……」
そこで一旦言葉を切った定満は、信繁……その隣に控えている昌幸の顔をジロリと見た。
「もしも、あの城の曲輪の配置や堀の切り方を見られでもしたら、後々の後悔になりそうじゃ。……特に、そこのいかにも抜け目無さそうな若造には、な」
「駿河守!」
「いや、お気に召さるな、長尾殿」
慌てて定満を窘めようとした政景を、信繁は苦笑いを浮かべながら制する。
「宇佐美殿がご懸念なさるのも、けだし当然の事です。何せ、我ら武田家と上杉家は、今の時点では和睦を調えるところまで到っておらぬのですから」
「……!」
「もしも、今回の話し合いが不調に終われば……我らは再び信濃を巡って争い合う敵に戻ってしまいましょう。そうなった時に備えて、ごく最近築かれた野尻新城の姿は可能な限り見せたくない――それは、この地の守備を任されている者なら当然考える事です」
「……両家の和睦の成就を願う身の私としては、そのような懸念など杞憂に終わると言いたいところですが」
信繁の言葉に、それまでずっと沈黙を貫いていた足利覚慶の使者――明智光秀が、些か憮然とした様子で口を開いた。
「同じ武人の身としては、宇佐美殿のお気持ちも良く分かります。ですから――」
光秀はそう言いながら、信繁の方に顔を向けた。
「私としては、宇佐美殿が仰った通り、湖を渡って野尻城に向かうのが一番かと思いますが、いかがでしょうか」
「ふむ……」
「なに、ご心配なさる事はありませぬ」
思案するように指で顎髭を撫でる信繁に、光秀は自分を指さしながら言う。
「何せ、前公方様の弟君が差し遣わされた私が同行しているのですから」
“武田家の使者を害する事は、甲越の和睦を望む足利覚慶――未来の征夷大将軍の意向に背く事に他ならないから、権威を重んじる上杉方が不埒な事を企む恐れはない”――上杉家の者がいる手前、口にこそ出さなかったが、光秀はそう匂わせた。
「そうですな……」
光秀の言葉に頷きながらも、信繁はなおも考え込む。
……と、
「……武田殿」
そんな彼に、政景が声をかけた。
「何の言質にもならぬかもしれませぬが、貴殿と供回りには何一つ危害が及ばぬ事は、私――長尾越前守政景が、この身と我が主である上杉弾正少弼輝虎の名にかけて、確と保証いたします」
「長尾殿……」
「ですから、どうぞご安心して野尻城へお越し下され」
そう言って、政景は力強く頷いてみせる。
少しの間、彼の目をじっと見つめていた信繁は、ふっと表情を緩め、小さく頷いた。
「相分かり申した。ここは、長尾殿のお言葉を信じ、宇佐美殿のご厚意に甘える事と致しましょう」
「……!」
「典厩様……っ!」
「言うな、昌幸」
慌てて声を上げかけた昌幸を制した信繁は、政景の顔をチラリと見てから、声を潜めて言葉を継ぐ。
「長尾殿がここまで……主の名までかけて、我らの身の安全を保障なされたのだ。ここまでされてなお応じぬのは、長尾殿の面目を潰す事になるし……何より、我が武田家が臆病者の謗りを受ける事になりかねぬ」
「ですが……危険です」
信繁の言葉に頷きつつも、不安を隠せぬ様子で、昌幸は政景の後ろに無表情で控えている老将をチラリと見た。
「特に……宇佐美駿河守などは」
「……それは分かっておる。だが、『虎穴に入らずんば虎子を得ず』だ」
そう答えた信繁は、昌幸と佐助に向けて小さく頷きかけ、「だから……」と続ける。
「頼りにしておるぞ、ふたりとも」




