雨宿りと良案
野尻城に入って雨宿りする事に決めた信繁たちは、西から迫り来る真っ黒な雲と時折鳴り響く雷鳴に追い立てられるように、急いで野尻湖の西岸に突き出た“立ヶ鼻”の船着き場で数隻の小舟に分乗し、湖を渡った。
立ヶ鼻から野尻城のある琵琶島までは、直線距離にして百十丈 (約二百メートル)ほどの距離がある。
信繁と同じ舟に乗り込んだ昌幸や昌澄は、同乗している上杉家の者たちが自分たちに向けて刃を向けるのではないかと、舟に乗っている間ずっと気が気ではない様子でそわそわしていた。
だが、信繁は臆する様子も無く、舟に同乗した長尾政景と穏やかな口調で談笑したり、湖や対岸の風景を物珍しげに眺めていたのだった。
幸いにも湖面の波は穏やかで、一行を乗せた小舟は無事に琵琶島の船着き場に到着した。
それとほぼ同時に、昌幸と佐助が予測した通り、ポツポツと雨が降り出す。
その為、信繁たちは息を吐く間もなく、政景と宇佐美定満の案内で足早に野尻城の本丸へ向かうのだった。
◆ ◆ ◆ ◆
「やれやれ。間一髪といったところだったな」
本丸に建つ奥御殿の一室で、用意された円座に腰を下ろした信繁は、外の様子を見ながら安堵の息を吐いた。
彼らが奥御殿に入って間もなく本降りとなった雨はますます激しさを増し、今では建物の屋根と庭の木々を滝のような音を立てながら叩いている。
その音を聞きながら、昌幸も小さく頷いた。
「左様に御座いますな……。もう少し遅かったら、我ら皆、舟の上に居ながらにして湖に落ちたように濡れそぼってしまっておった事で――」
昌幸の声は、眩い閃光に続いて上がった凄まじい轟音によって掻き消される。
耳を劈く雷鳴に思わず首を竦めながら、信繁は苦笑を浮かべた。
「或いは、雷に打たれて黒焦げになっておったやもしれぬな」
そう冗談交じりに言った信繁は、自分の向かいに座った宇佐美定満に向けて軽く頭を下げる。
「宇佐美殿。貴殿がこの野尻城に我らを招いて下さらなかったら、とんだ目に遭うところで御座った。感謝仕る」
「……!」
信繁から感謝の言葉をかけられた定満は、少し戸惑った様子で眉を上げ、それから「あ、いや……」と小さく頭を振った。
「別に、武田家の貴殿から礼を言われるには及びませぬ。覚慶様の使者殿や越前守様を雨に打たせる訳にはいかぬと思い、提案をしたまで。貴殿らは、そのついでに御座る」
「駿河守!」
定満の挑発めいた物言いを、政景が鋭い声で咎め、信繁に向けて深々と頭を下げる。
「……申し訳御座いませぬ、武田殿。当家の者が、大変不躾な事を申しました」
「いえ、別に気にしてはおりませぬ。ですから、どうか頭をお上げ下され」
政景の謝罪に、信繁は慌てて言った。
その声にホッとした表情を浮かべながら頭を上げる政景に頷き返した信繁は、部屋の外へと目を移す。
そして、凄まじい音を立てて降り落ちる雨に打たれる庭の木々を見ながら、下座に座る昌幸に尋ねかけた。
「昌幸……この雨はどのくらい続くと思う?」
「そうですね……」
信繁に続いて目を外に移した昌幸は、先ほど見た空模様を思い出しながら慎重に答える。
「かなり大きな黒雲でしたが、これほどの勢いで降るのは今のうちだけかと。おそらく半刻 (一時間)……いや、四半刻 (三十分)ほどもすれば、雨の勢いは大分弱まるかと存じます」
「そうか……」
「……ですが、完全に降り止むまでには、一刻 (二時間)はかかるかと」
「一刻か……」
昌幸の答えを聞いた信繁は、少し迷うように顎髭へ指を添える。
……と、
「――雨が止むまでに、一刻ほどかかるのでしたら」
口元に穏やかな微笑みを浮かべながら、政景が盃を持つように指を曲げた手を口元に寄せてみせた。
「それまで、この雨と雷を肴にして、軽く酒でも飲るのはいかがですかな?」
「ははは」
冗談めかした政景の物言いに、信繁も顔を綻ばせた。
「良い考えですな。是非に」
「て、典厩様……っ!」
快諾する信繁の傍ににじり寄った昌澄が、上ずった声で囁きかける。
「なりませぬ! 出された酒に何か混ぜ込まれたりしたら……」
「これ、大概な事を申すな、武千……ではない、源五郎よ」
狼狽えながら信繁を止めようとする昌澄を小声で制したのは、昌幸だった。
「気持ちは分からんでもないが、さすがに考え過ぎだ。前々からこの城に立ち寄る事が決まっていたのならともかく、こう急な来訪では、そうそう簡単に人を殺められるほどの強い毒酒など用意できぬ」
「ですが……」
「それに、酒は同じ片口で注ぎ合うのだから、典厩様や我々にだけ毒を飲ませるのは難しかろう」
そこまで言った昌幸は、信繁の顔に目を向け、念を押す。
「……当然、そこまでお考えの上ですよね?」
「まあ……な」
……実はそこまで深くは考えておらず、ただ「信繁たちの命は、自分と主君の名にかけて保証する」と告げた政景の言葉と彼の人柄を信用していただけだった信繁は、少し目を逸らしながら曖昧に頷いた。
そんな武田主従三名の小声でのやり取りを薄っすら察しつつ、政景は素知らぬ顔をして定満に命じる。
「そういう事だ、駿河守。すまぬが、酒の用意を頼む」
「……はっ」
政景の言葉に、定満は無表情のまま軽く頷き、立ち上がった。
「畏まって御座る。少々お待ち下され」
「申し訳ない、宇佐美殿。お手間を取らせる」
「……いえ」
すまなさそうに頭を下げる信繁に軽く首を振った定満は、僅かに口元を上げてみせる。
「戦場で何度も煮え湯を飲まされた相手と飲む酒の味がどのようなものなのか、楽しみに御座る」
◆ ◆ ◆ ◆
奥御殿の横にある台所まで自ら足を運び、酒の用意を命じた定満は、部屋に戻る途中でふと立ち止まった。
「……如何した?」
訝しげな表情を浮かべながら振り返った彼の目に映ったのは、板張りの廊下に片膝をついた若い男の姿だった。
「お主は確か、殿の……」
「お久しゅう御座います、駿河守様」
定満の誰何に凛と澄んだ声で応えながら、ゆっくりと顔を上げた男は、その美しくも凛々しい容貌に薄い笑みを貼りつけながら名乗る。
「上村伊勢松にございます。長尾越中守様に付き従って、ここまで参りました」
「……何用じゃ」
僅かに眉を顰めながら、定満は尋ねた。
「儂は、もう戻らねばならぬ。用件があるなら簡潔に申せ」
「はっ……」
少し苛立った定満に軽く頭を下げた伊勢松は、すっと彼の傍ににじり寄り、小さな声で囁きかける。
「この場では申し難きことゆえ、後ほど、少々お時間を頂きとうございます」
「……じゃから、どういった話だと――」
「殿からの」
「……っ!」
伊勢松の口から出た一言を聞いた瞬間、定満は息を呑んだ。
そんな老将の表情の変化に口角を僅かに上げながら、伊勢松は彼の耳元にそっと囁きかける。
「殿からお預かりした密書をお渡ししとう存じます。……詳しい話は、その時に」
彼がそう言った瞬間、
ひときわ眩い閃光が、真っ黒な雲に覆われた空を奔った。




