酒宴と遅参
「おお、戻られたか、宇佐美殿」
襖が開け放たれた広間の前で一礼してから入室した定満に、信繁が声をかけた。
それに対し、言葉少なに軽く頭を下げた定満が自分の席へ腰を下ろすと、信繁が傍らに置いてあった片口を持ち上げる。
「申し訳御座らぬ。お戻りが遅かったので、先に始めており申した。さあ、宇佐美殿もどうぞ」
「あっ……」
信繁から片口の先を向けられた定満は、慌てた様子で自分の前に置かれた膳から土器の盃を手に取り、酌を受けた。
白く濁った酒に満ちた盃を捧げるように軽く掲げた定満は、
「……忝い。頂戴仕る」
と短く言って、馥郁とした香りを放つ酒を一息に煽る。
乾いた舌と喉を潤す酒の濃厚な風味に、思わずほうと息を吐いた定満。
そんな彼に、早くも顔が赤らみ始めた政景が声をかけた。
「……それにしても、随分と遅かったな、駿河守よ。何かあったのか?」
「あ…………いえ」
政景の問いかけに、定満は一瞬口ごもったが、すぐに皺だらけの顔に苦笑を浮かべながら、自分の腹を擦る。
「申し訳御座らぬ。その……実は、少々腹具合が悪くなり申してな、ずっと厠に籠っておりました」
「あ、あぁ……そうだったのか」
定満の答えを聞いて曖昧に頷いた政景は、僅かに眉を顰めて、酒の肴として膳に載っていた焼き味噌に伸ばしかけた箸をそっと引っ込めた。
その一方で、信繁が置いた片口を手に取り、空になった定満の盃に新たな酒を注ごうとしていた昌幸が、ハッとした顔をして片口を傾ける手を止める。
「では……もう酒は控えた方がよろしいかもしれませぬな」
「あっ、いえ」
昌幸の言葉に、定満は慌てて首を横に振った。
「ご心配はありがたいが、もうすっかり平気に御座る」
「……そうですか。それなら良う御座った」
定満の答えに小さく頷いた昌幸は、改めて彼の盃に酒を注ぐ。
だが、注がれた酒をまた一口で飲み干す定満の顔を見ながら、信繁が心配そうに声をかけた。
「まだ、どことなく顔色が優れぬ様子。あまり無理をなさらぬ方が宜しいかもしれませぬぞ」
「……っ」
信繁の言葉に、定満はピクリと動きを止め、僅かに眉尻を上げる。
だが、すぐに元の表情に戻り、「……いえ」と静かに頭を振った。
「重ねて申し上げるが、本当にもう平気で御座ります」
「……左様か。差し出がましい口を利いてしまったようで、申し訳御座らぬな」
「いえ……この老いぼれめに過分なお心遣い、痛み入り申す」
信繁の言葉に対し、慇懃に頭を下げる定満。
その余所余所しい態度に、場は些か白ける。
「……ええと」
そんな気まずくなった空気をどうにかしようと、政景が信繁に明るい声をかけた。
「ところで……武田殿、酒の味はいかがですかな?」
「それはもちろん」
政景の問いかけに、信繁はニコリと笑って答える。
「美味う御座る。察するに、これは越後の酒ですな?」
「ええ、その通り」
信繁の答えを聞いた政景は、まるで自分が褒められたかのように嬉しそうな顔をして頷いた。
「この酒は、上様――我が主も大層お気に入りのようでしてな。戦場に赴く度に、必ず小荷駄で運ばせるほどです」
「左様に御座るか」
「この酒の美味さが分かるのならば、上様とも大層馬が合うかもしれませぬな」
そう言って、盃の酒を呷った政景は、「くぅ~……」と唸って僅かに顔を顰める。
「いや……確かにこの酒は美味いとは思うのですが……。上様と違ってそこまで酒が強くない私にとっては、些か辛味が強すぎて、今いち良さが分からぬというのも正直なところでして……」
少し困り顔でそう言った政景は、肴の焼き味噌を口直しに舐めた。
……と、それまで膳の上のものには一切手を触れず、ただ黙って信繁たちの話を聴いていた明智光秀が、初めて口を開く。
「……なれば、武田殿が酒のお相手をなさったら、案外あっさりと和睦の話が纏まるかもしれませぬな」
「ははは……さすがにそう簡単には……」
光秀が珍しく口にした冗談に、信繁は曖昧な笑い声を上げた。
もちろん、そんな単純に事が運ぶ訳が無いのは分かっている。分かっているのだが……、
――『……では、さらばだ、左馬助。貴様と酒を酌み交わせて楽しかったぞ』
一年半前、善光寺の宿坊の一室で女の姿をした上杉輝虎と酒を酌み交わした時の記憶が、ふと脳裏を過ぎる。
(あの時の上杉殿の様子を考えると、明智殿の言った事もあながち……)
そんな事をふと考えたところで、あの夜に見た輝虎の艶めいた顔も思い出した信繁は、途端に己の胸の内がざわめき出すのを感じた。
「……ところで」
胸中の動揺を隠すように、信繁は開け放たれた襖の向こうに目を向ける。
「先ほどまでに比べ、だいぶ雷も遠くなったようだな」
「そうですね」
信繁の言葉に外を見た昌幸も頷いた。
「雨も大分弱まって参りました。ただ……完全に上がるには、もう少し時間がかかるかと」
「では……」
昌幸の答えを聞いた政景が、片口を手に取りながら、信繁に向けてにっこりと笑いかける。
「それまでの間、もう少し飲りましょうか」
「そうですな」
政景の提案に、信繁も盃を手に取って応じた。
……と、その時、宇佐美定満が静かに立ち上がり、政景たちに向かって軽く頭を下げる。
「……申し訳御座らぬ。某は、少し席を外します」
「ん? ……あ、ああ。そうか」
定満からの突然の申し出に一瞬戸惑いかけた政景だったが、すぐにその意味を察した様子でコクンと頷いた。
「う、うむ。相分かった。……こちらは気にせず、ゆるりと用を済ますが良い」
「その……お大事になされよ」
「……いや」
政景と、彼に続いておずおずと声をかけた信繁の表情を見て、彼らが何を勘違いしているのか悟った定満は、当惑顔で訂正しようとしたが、すぐに(このままの方が都合がいいな)と考え直し、
「……失礼いたす」
と会釈して、そのまま広間を出たのだった。
◆ ◆ ◆ ◆
定満が向かったのは、厠ではなく自身の部屋だった。
閉め切った部屋の前で立ち止まった彼は、慎重に周囲の様子を窺い、誰も居ない事を確認してから、なるべく音を立てぬよう慎重に襖を開ける。
そして、念の為にともう一度周囲を見回してから、襖の隙間に体を滑り込ませた。
「……待たせたな」
後ろ手でそっと閉めながら、定満は薄暗い部屋の奥に向かって声をかける。
そして、薄闇に紛れるように平伏していた人影が顔を上げるのを待ってから言葉を継いだ。
「では……殿からの用件とやらを詳しく申せ。――上村伊勢松よ」




