道と残雪
海津城に入った武田信繁一行は、その後四日間逗留した。本来は三日間の滞在の予定だったのだが、出立の日に季節外れの吹雪が降った為、大事を取って一日置いたのである。
幸いにも吹雪は夜半には降りやみ、翌朝は前日とは打って変わって快晴となった。
海津城の本丸御殿を出た旅装の信繁は、雲一つなく晴れ渡った空を眩しそうに見上げる。
「この天気なら、今日中には上杉領内へ入れるか?」
「さあ……どうでしょうか」
彼に続いて外へ出てきた昌幸が、庭木の枝に積もった真新しい雪を見ながら、小さく首を傾げた。
「天は晴れていても、地には昨日の雪が降り積もっておりましょう。夏場ならば野尻城までは馬なら三刻 (約六時間)ほどで辿り着けましょうが……」
「今は雪で馬の脚が取られるから、もっと時間がかかるか」
「恐らくは」
信繁の言葉に応じたのは、御殿の前で信繁が出てくるのを待っていた城主の香坂虎綱である。
「夜明け前に善光寺街道へ放った物見の報告では、昨日の吹雪で道に降り積もった雪はほんの三寸 (約九センチメートル)ほどとの事ですが、春先の雪は湿り気が多う御座る」
そう言った虎綱は、快晴の空から照りつける初春の陽の光の暖かさを感じつつ、「それに――」と続けた。
「この陽気では、道に積もった雪はみるみる溶けて、道が泥濘んでしまいましょう。そうなれば――」
「馬が足を取られて、同じ距離でも夏場よりずっと時間がかかる……という事か」
「はい」
「……そうか」
自分の言葉に虎綱が小さく頷いたのを見た信繁は、少し表情を曇らせてから、本丸御殿の玄関先へ振り向いた。
「……そういう訳に御座る。明智殿」
彼は、最後に御殿の玄関から出てきた男に声をかける。
「出来れば今日中に野尻城まで到りたいとのご希望でしたが、もしかすると貴殿の意に沿う事は難しいかもしれませぬ。申し訳ない」
「……いえ」
信繁の詫びに、怜悧な顔立ちをした壮年の男――明智十兵衛光秀は、無表情のままで小さく頭を振った。
「確かに、一日も早く春日山城へ赴き、和与の話を進めて頂きたいところではありますが……かといって、無理をしては思わぬところで足を掬われる事態に陥りかねませぬ。かつて連歌師の宗長居士が詠んだ『もののふの 矢橋の船は 速けれど 急がば回れ 瀬田の長橋』という歌の通り、急いでいる時こそ慎重を期すべきかと」
「そうおっしゃって頂けると助かり申す」
昨日、本丸御殿の縁側に立って降りしきる雪を睨むように眺めていた光秀の姿を見かけていた信繁は、落ち着いた口調で紡がれた彼の答えを聞いて、心中秘かに胸を撫で下ろす。
……甲斐からここまで共に旅をしてくる内に、はじめは分からなかった、この明智光秀という男の隠れた性が段々と見えてきた。
“その落ち着いた喋り方と滅多に感情を見せない顔とは裏腹に、心の内にはいつ爆発……いや、暴発してもおかしくない程の激情を抱えている”――と。
この男と長く共にいると、まるでいつ火を噴くか分からない火山の麓で寝起きしているかのような気分になる。
(……昨年の暮れにこの男と共に越後へ行った孫次郎が妙に憔悴していたのは、それが原因だったのだな)
今年の正月に躑躅ヶ崎館で会った時に見た曽根昌世の顔を思い出し、信繁は思わず苦笑する。
だが、自分の顔をじっと見ていた光秀が胡乱げに眉を上げるのを見て、さりげなく口角を下げた。
「……なれば」
そう言うと、彼は持っていた漆塗りの陣笠を被り、顎紐を結びながら昌幸に声をかけた。
「晴れているうちに少しでも先に進むとしよう。山の天気は移り変わりやすいからな」
そう言いながら、小者が引き連れてきた乗騎の背にひらりと乗る信繁。
昌幸をはじめとした供回りと足利覚慶が遣わした使者である明智光秀も、彼に続いて馬上の人となる。
馬を落ち着かせるように手綱を巧みに繰りながら、信繁は自分に向かって深々と一礼している虎綱に向けて声をかけた。
「それでは、行って参る。世話になったな、源助よ」
「いえ、大した持て成しも出来ませず、申し訳ございません」
信繁の礼の言葉に謙遜しつつ応えた虎綱は、伏せていた顔を上げる。
そして、馬上の信繁をまっすぐに見ながら、真剣な顔で言った。
「……くれぐれもお気をつけ下さいませ、典厩様」
「ああ、分かっておる」
虎綱の気遣いの言葉に、信繁は苦笑交じりに頷く。
「道の泥濘みで足を滑らせて谷底へ落ちぬように気を――」
「それだけでは御座いませぬ」
冗談めかした信繁の返事に、虎綱はその端正な顔に浮かべた表情を一層険しくさせながら大きく頭を振り、周りに憚るように潜めた声で続けた。
「当主の上杉輝虎は此度の甲越和与に乗り気かもしれませぬが、越後は決して一枚岩ではありませぬ。加えて、我らと越後の十余年にも渡る因縁は、思っている以上に深う御座る」
「む……」
「足利覚慶様の御使者であらせられる明智殿も居りますから、主の意に背いて良からぬ事を起こそうとする無分別者は少ないとは思いますが……」
「……皆無とも言い切れぬ、という事だな」
信繁の言葉に、虎綱は無言で頷く。
それに対し、信繁は微笑みを浮かべながら「分かっておる」と返した。
「もちろん、油断はせぬ。だから安心いたせ」
「……差し出がましい口を叩きまして、失礼いたしました」
と、軽く一礼した虎綱は、おもむろに背後を振り返り、背後に控えていた嫡男の昌澄に目配せする。
それに応じて一歩足を踏み出した彼を指し示しながら、虎綱は信繁に言った。
「これより先は、我が息子の源五郎がご一緒いたします。奥信濃の道案内役として、存分にこき使い下さいませ」
「あ……いや、それには及ばぬぞ、源助」
虎綱の言葉を聞いた信繁は、少し慌てて頭を振る。
「海津城を出たら、あとは善光寺街道を北に進むだけだし、上杉の領内に入ったら野尻城から迎えが来て、春日山まで案内してくれるだろうからな。だから、お主の大事な跡取りに道案内をしてもらう事など――」
「ははは……」
信繁の言葉に、虎綱は苦笑しながら、緊張した面持ちの昌澄を見た。
「いや、実は、道案内とは単なる方便でして……のう、源五郎」
「はっ!」
父親に促された昌澄は、頬を紅潮させながら信繁と昌幸に向けて深々と頭を下げる。
「典厩様! 喜兵衛殿! 何卒、それがしも供にお加え下さいませ!」
「と、いう訳でして」
くすくすと笑いながら、虎綱が息子の背を押した。
「此奴が、どうしても典厩様たちとご一緒したいと駄々を捏ねまして。煩くて仕方ないので、連れて行ってやって頂きたいのですよ。ほら、お主も、本当に同道したいのなら、もっと真剣にお願いせい」
「お願いいたします!」
「いや、お願いいたしますと言われても……」
父親のけしかけに応じて、必死の様子で懇願する昌澄を見ながら困惑の表情を浮かべた昌幸が、信繁の顔をチラリと見る。
信繁も、彼に向けて小さく頷くと、昌澄を諭すように声をかける。
「源五郎……お主は香坂家の大切な嫡男であろう。我らについて来て、万が一の事があったりしては……」
「ええ、それは実に困りまする」
信繁の言葉に大きく頷いたのは、それまで昌澄をけしかけていた虎綱だった。
彼は、微笑を湛えたまま……だが、その目には真剣な光を宿しながら、静かな口調で信繁に言う。
「困りますので……私の元まで無事にお返し下され。必ず」
「む……」
虎綱の言葉を聞いて、即座にその意図するところを汲んだ信繁は、隻眼を見張り、それから大きく頷いた。
「相分かった。必ずやお主の元まで送り届けようぞ。儂自らがな」
「お頼み申しますぞ、典厩様」
ハッキリと言い切った信繁の顔を見ながら、虎綱は口元を綻ばせながら、深く首を垂れる。
(やれやれ……)
そんな彼を馬上から見下ろしながら、信繁は心の中で秘かに息を吐き、腰に差した太刀にそっと手を添えた。
(この来国長といい……帰って返さねばならぬ理由が増えていくな……)




