老臣と義兄
「……殿が直々に……ですか」
政景がそっと口にした呟きを聴き逃した定満は、ほんの僅かだけ眉間に皺を寄せ、唸るように言った。
「某はてっきり、自分が武田の使者殿を春日山まで案内する役目を仰せつかるものと思うておったのですが……」
その声色には、隠し切れない不満の気配が滲んでいる。
「……なるほど。殿は、老骨の某では春日山まで往く事は能わぬという御判断か……」
「あ、いやいや、そういう訳ではないぞ。勘違いするな、駿河守」
不穏な気配を察した政景は、慌てて首を横に振った。
「別に、上様はお主の年齢を慮って、代わりに私を遣わした訳ではない。――そう、むしろ逆だ」
「逆……ですか?」
政景が最後に付け加えた言葉の意味を測りかねた様子で、定満は訝しげに首を傾げる。
そんな彼に小さく頷きかけ、政景は続けた。
「確かに、今は足利覚慶様のお声がけに従う形で、当家と武田家が越甲和睦の成就に向けて動いておる。……だが、かといって武田を全面的に信用できるかといえば、今はまだそうではない」
「はい。その通りに御座います」
政景の言葉に、定満は即座に同意する。
「武田は、十余年もの長きにわたって、この奥信濃で当家と激しく争い合ってきた相手。しかも、当主の信玄は、敵を欺き出し抜く狡知に長けた男に御座る。たとえ、此度の和睦が成ったとしても、何だかんだと理由をつけて反故にし、再びこの奥信濃の地を自らのものとしようとするに違いありませぬ!」
「む……」
途中から気が昂ったのか、口角泡を飛ばす勢いで捲し立てた定満に、政景は僅かに眉を顰めた。
そして、なおも言葉を継ごうとする老将を軽く片手を挙げて制し、小さく頭を振る。
「……さすがに、それは些か決めつけが過ぎる。仮にもこれから和睦を結ぼうとする相手を、そのように悪しざまに言うべきではないと思うが」
「はっ……これは失礼仕り申した」
政景にやんわりと窘められた定満は、両拳を床に付けて、深々と頭を下げた。
「越前守様のおっしゃる通り、些か言葉が過ぎましたな。年を取ると舌に歯止めが効かなくなって困り申す」
「……」
言葉が過ぎた事は詫びたものの、吐いた言葉自体は否定していない。
その事実を敏感に察知した政景は、定満に自分の表情を読み取られぬよう、既に空になった椀を飲み干すフリをして口元を隠す。
そして、コトンと音を立てて椀を床に置いてから、「まあ……」と口を開いた。
「お主が申したほどではないにせよ、上様は武田の事を未だ警戒しておる。だからこそ、家中きっての智恵者であるお主を最前線であるこの城に据えたままにして、万が一にも武田が良からぬ動きに出ぬよう牽制しておきたい――そういうお考えの上での御沙汰だ」
“半分は“という最後の言葉は、心の中で呟くに留める。
それに対し、定満は少しだけ間を空け、それから小さく頷いた。
「……そういう事に御座りましたか。納得いたしました」
「うむ……分かってくれたなら良い」
定満の短い返事に、政景は僅かに表情を緩める。
だが、そんな彼の顔を探るような目でじっと見つめながら、定満は「……しかし」と続けた。
「どうして、武田の使者を迎えるだけの御役目を、わざわざ越前守様に?」
「……いや、なに」
政景は投げかけられた問いかけに再び気を引き締めつつ、表面では穏やかに笑いながら答える。
「武田方が、上様の御意向に従って、当主の弟である武田左馬助信繁を使者として遣わしてきたのだ。なれば、当家も相応の者を迎えに寄越すのが筋というものであろう」
「……なるほど」
政景は、輝虎の姉である綾姫を娶った、つまり当主の義兄だ。自分以外の兄弟が既にこの世に居ない輝虎にとって、当主の実弟である武田信繁と見合うだけの人物は彼しかいない。
(自らの義兄を迎えに寄越すとは、誰よりも“筋”というものに拘る殿らしい御差配だの)……と、定満はようやく腑に落ちた。
「それは分かり申した。……しかし」
“もしや、自分の秘めた内心を悟られたのでは……?”という疑念がいくらか融けた定満だった――が、また新たな不審を覚えて、再度政景に訊ねる。
「であれば、何故に越前守様が参られる事を事前にお知らせ頂けなかったのでしょうか?」
「ふ……」
定満の問いかけに、政景は口元を綻ばせた。
「お主も……いや、二十年近くも上様のお側に仕えておったお主ならばこそ良く知っておろう? 上様がどんな御気性なのかは」
「は? ……まあ、はい」
「要するに、いつもの気まぐれだ」
そう言うと、彼は拳を口元に当てておかしそうに笑ってみせる。
「急に思い立った様子で、数日前に馬でふらっと坂戸まで参られてな。その場で私に出迎えの御役目を仰せつけられたのだ」
今度は些か辟易した顔で、彼は自分の肩を揉んだ。
「なので、私は取り急いで用意を整え、雪道を搔き分けるようにしてここまで参った次第。――私が向かう旨を事前に野尻城へ伝えるべきではないかと上様に申し上げたのだが、上様は『急ぎの事ゆえ、伝令を立てる暇も惜しいし、別に駿河なら伝えずとも解るであろう』とお笑いになって、取り合わなかった」
「伝えずとも解る……ですか」
政景の言葉を聞いた定満は、「いかにも殿らしい」と笑うようでもあり、呆れているようでもあり、仄かな苛立ちも含んでいるような複雑な表情を浮かべる。
そんな彼の顔をチラリと見た政景は、さりげなく床に置いた椀を指さした。
「悪いが……駿河守、もう一杯頼めるか? 今度は温かい酒をな」
「おお、これは気付きませんで、不調法いたした」
ハッとした顔で政景に詫びた定満は、手を叩いて襖の向こうに控えていた小姓を呼び出し、てきぱきとした口調で命じる。
そんな老将の横顔を見ながら、政景は秘かに顔を曇らせた。
(どうやら……上様の勘は的を射ておったようだな……)
数日前に会った輝虎と交わした本当のやり取りを思い返しながら、彼は(なれば……)と気を引き締める。
(これ以上駿河守が妙な気を起こさぬよう、私が目を光らせておらねばな……)




