異状と凶報
「……やはり、ただならぬ異状が起こっているように御座います」
日付が変わるあたりでやにわに騒がしくなった野尻城内の様子を探りに行って、今ようやく戻ってきた昌幸が、襖を後ろ手で閉めながら、布団の上に真っ直ぐ背を伸ばして座っている信繁に向けて潜めた声で言った。
「上杉方も混乱しているのか、詳しい事は聞き出せませんでしたが、湖の方で何やらあったようで……城中の者どもが皆叩き起こされて、結構な大事になってます」
「そうか……」
昌幸の報告を聞いた信繁は、思わず眉根を寄せる。
「やはり……先ほど湖の方から聞こえた銃声が関係しておるのだろうか」
「恐らく……」
表情を曇らせながらの信繁の言葉に、昌幸は小さく頷いた。
「一刻 (約二時間)ほど前に遣わされた者より、長尾越前守殿と宇佐美駿河守殿が湖上で短筒の試し撃ちを行なう旨を伝えられましたが……もしかすると、その途中で何か変事があったのかも……」
「……だろうな」
昌幸の推測に同意しながら、信繁は顎髭を指で撫でる。
「考えてみれば、一番最後に聴こえた銃声が、それまでの音の響きと少し違っていたような気がする。心なしか、妙に音が籠もっていたような……」
「弾込めしている途中に、何らかの理由で短筒が暴発したか……」
信繁の後ろに立膝で控えていた香坂昌澄が、ふと頭に浮かんだ考えを舌に乗せた。
「もしくは……舟の上で何やら諍いが起こって、ふたりのうちのどちらかがもうひとりを撃った……?」
「……その可能性も、否定は出来ぬな」
昌澄が口にした不吉な推測に、昌幸も頷く。
「長尾越前守殿はともかく、宇佐美駿河守の方はなかなか難しい気性のようだった。年を取ると気が短くなるともいうから……」
「しかし、そうと断定するには、まだ情報が少なすぎる」
昌幸の言葉に、信繁が僅かに頭を振った。
「詳しい話は、いずれ上杉方が伝えに来るだろう。それまで、儂らはこのまま待っておれば良い」
「そうですが……」
信繁の言葉に頷きながらも、昌幸の顔には隠せない不安の色が浮かんでいる。
そんな昌幸に、彼よりもずっと青い顔色をした昌澄が言う。
「喜兵衛殿……万が一に備えて、典厩様のいらっしゃるこの部屋にもう少し人を集めた方が宜しいのではないでしょうか?」
「む……」
昌澄の提案を聞いた昌幸は、思案しながら部屋の中を見渡した。
この部屋に居るのは、城内の喧騒に気付くや慌てて自室から駆けつけてきた昌幸と昌澄、そして供回りの数名だけである。
もちろん、天井裏や床下にも乱破を数名潜ませているものの……昌澄の言う通り、信繁を守る警護としては些か心許ない人数だ。
――だが、
「いや、このままで構わぬ」
と、信繁が首を横に振った。
「こんな時にこちらの人間を一処に集めたりしたら、越後方が警戒するに違いない。和睦の交渉をする前に無用な軋轢を生まぬ為にも、ここは下手に動かぬ方が良いだろう」
「……そうですね」
信繁の言葉に少し躊躇しつつも頷いた昌幸だったが、「……ですが」と続ける。
「ひとりだけ呼び寄せても宜しいですか?」
「佐助か」
「ええ」
廊下と部屋を隔てる襖を僅かに開きながら、昌幸は信繁の言葉に頷いた。
「褒めるようで少々癪ですが、あいつひとりいれば大分心強くなりますから」
「だが、どうやって呼び寄せるつもりだ?」
「これで」
信繁の問いかけにニヤリと笑った昌幸は、襟を少し寛げながら「こほん……」と軽く咳払いする。
そして、細く息を吸い込んで――、
「……無用だ、源五郎。オレはもうここにいる」
「……え?」
唐突にかけられた低い声を聞いた昌幸は、口を半分開けたまま、目を瞬かせた。
同時に、開いた襖の隙間から、小者姿の男が猫のように素早い動きで室内に入る。
「何をしている源五郎。早く閉めろ」
「あ、お、おう……」
呆気にとられていた昌幸は、男の声で我に返って、慌てて襖を閉めた。
「戻ってきたのか、佐助」
「ああ」
昌幸の問いかけに短く答えた佐助は、小さく溜息を吐く。
「……見張る対象がいなくなってしまったからな」
「それは……」
「ああ」
息を呑む昌幸に、佐助は表情を曇らせながら頷いた。
「お前たちが考えた通りだ。……宇佐美定満と長尾政景が一緒に湖の中に落ちて――恐らく死んだ」
「……っ!」
佐助の答えを聞いて、信繁も眉間に皺を寄せる。
「それは……間違いないか?」
「この目で死体を確認した訳ではないが、野尻湖に落ちてからしばらく経っても上がってこなかったからな。この寒気に晒された湖の水の冷たさは、常人では心の臓が耐えられん」
そう言いながら、信繁の前にどっかと腰を下ろした佐助は、「特に……」と続けた。
「遠目ではっきりとは見えなかったが、長尾政景の方は短筒で腹の辺りを撃たれたようだった。あれでは、万が一にも助かるまい」
「やっぱり……!」
先ほど自分が口にした予測が的を射ていた事を知って目を丸くした昌澄だったが、すぐに状況の深刻さに思い至り、神妙な顔をする。
一方の昌幸は、真剣な顔で佐助に尋ねた。
「何故、宇佐美駿河守が長尾殿を撃ったのだ?」
「詳しくは分からん」
昌幸の問いかけに、佐助は憮然とした顔で首を横に振る。
「ふたりが乗った舟は湖の真ん中で、オレは湖畔の林の中にいた。さすがに距離があり過ぎて、ふたりが何を話していたまでは聞こえなかった。……ただ、何やら穏やかならぬ様子だったのは見て取れたが」
「お前は湖畔にいたのか……」
佐助の答えを聞いた昌幸は、意外そうな顔をした。
「てっきり、お前なら“潜泳の術”でも使って湖の中に浮かぶ舟のすぐ傍まで近付けるものかと思っていたが……」
「……オレもそうしようと思ったのだが、邪魔が入って出来なかった」
「邪魔?」
昌幸が、驚いた様子で訊き返す。
「お前ほどの乱破を邪魔する……いや、邪魔できる者がその場に居たというのか?」
「……ああ」
渋い顔で小さく頷いた佐助は、信繁の方に向き直り、居ずまいを正しながら言った。
「とりあえず話そう。オレが湖の畔で見聞きしてきた事を、ひとつ残らずな」




