湖中と幻視
「……駿河守」
秘かに帯に手を添え、差している脇差の感触を確かめてから、政景は定満に声をかけた。
「確かに、お主の言いたい事も分かる。……だが、思い留まってはくれぬか?」
「思い留まれ?」
政景の言葉を聞いた定満は、胡乱げな表情を浮かべながら訊き返す。
「何を今更……」
「お主が武田殿を警戒するのも、上杉家の将来の為に排さなければならぬという決意の固さも十分に伝わった。だが、そこを敢えて曲げてほしい」
一縷の望みにかける思いで、政景は定満を諭すように言った。
「今聞いた策……破れればもちろん、たとえ成ったとしてもお主は命を失うではないか。上杉家の臣のひとりとして、全体を支える太い柱の一本である駿河守を欠く事は看過できぬ」
「……非才の某に“太い柱”という斯様に勿体なき評価、真に嬉しゅう御座りまする」
政景の言葉に対し、無表情のまま慇懃に頭を下げた定満だったが、すぐに口を真一文字に引き結び、「然れど……」と続ける。
「些か長く居座り過ぎ申した。もう、新たな者に役目を譲り、某のような老いぼれは消え去るべきでしょう」
そう言って淋しげに薄笑んだ定満は、頭上に広がる満天の星を見上げた。
「……幸い、某の代わりに上杉家を支えられ得る有望な者も、先ほど名を出した神五郎 (直江景綱)や弥次郎 (柿崎景家)をはじめとして数多おります。斎藤下野 (朝信)や河田豊前 (長親)といったまだ年若き者らも……」
そこで一旦口を噤んだ定満は、政景の顔を真っ直ぐに見つめる。
「もちろん、越前守様、貴方もそのおひとりです」
「……」
「元々、そろそろ……というには些か遅過ぎますが、隠居を考えておりましてな」
ふっと視線を外して身を屈め、持っていた短筒に新たな弾を込めながら、定満は独り言つように話を続けた。
「ここ……野尻城での在番を最後の御勤めにするつもりでした。ですが――本日、あの武田信繁が僅かな供だけを連れて、我が懐に飛び込んできた」
「……っ」
「これぞ、神仏が某に与え給うた天祐。当家に対して最期の御奉公を果たせと、天が場を調えてくれたのです。……なれば、この千載一遇の好機を逃す訳にはいきますまい」
「駿河守……それは違――」
「それ以上は申されますな」
「……っ!」
弾を込めた短筒の銃口を突きつけられ、政景は見開いた目で定満の顔を見上げる。
そんな彼に冷たい光を宿した目を向けた定満は、低い声で言った。
「既に心を決めたのです。もう、某の事を止めようとはなさいますな」
「駿河守……っ!」
「ご安心下され。誓って越前守様にご迷惑はかけませぬ」
定満は、ふと表情を和らげる。
「先ほども申し上げた通り、信繁を殺めた事に対する咎は、全て某が引き受けまする。越前守様は、引き続き殿の傍で上杉家の繁栄に努めて頂きますよう――」
「そういう事ではないっ!」
政景は、定満の言葉に憤激して怒声を上げ、勢いよく立ち上がった。
その拍子に、湖に浮かぶ小舟が大きく傾ぐ。
「むっ……!」
「……っ!」
定満が体の平衡を崩し、政景の眉間に擬せられていた短筒の銃口があらぬ方向を向いた。
それを見た瞬間、政景は決断する。
(こうなったら……やむを得ぬ!)
もう定満の心は変えられぬし、その行動も止められぬ。ならば、いっそこの手で……そう結論を下した政景は、激しく揺れる小舟の上で立ち上がり、腰に差した脇差の柄に手をかけ――
「ぐぅ……っ!」
耳を劈く轟音と同時に手の甲と腹に激しい熱と衝撃を感じた政景は、力が抜けて膝を折る。
数瞬遅れて沸き上がった激痛に思わず目を落とすと――彼の右手は、半分吹き飛んでいた。
「が……はっ……」
思わず叫びかけた政景だったが、息を吸おうとした瞬間に更なる激痛が腹を襲い、その場でうずくまる。
震える左手で自分の腹をまさぐると、べったりと濡れた感触。
(撃たれた……)
脇差を抜こうとしたのを自分を見た定満が、すぐに体勢を整えて短筒を撃った――政景は、一連の顛末を瞬時に理解する。
……自分の右手を貫通した銃弾が、そのまま腹まで届き、彼の臓物に致命的な損傷を与えたであろう事も。
「……お許し下され、越前守様」
自身の鼓動の音だけがやけに響く耳に、定満のしわがれた声が聴こえた。
「然れど、これも上杉家の……殿の未来の為。この報いは、冥途で確とお受けいたします故……」
「……ぐぶ……っ!」
反射的に“違う!”と叫ぼうとした政景だったが、胸からこみ上げてきた血のせいで声にならない。
(寒い……)
初春の湖上の寒さとは違う、体の中からの寒気に政景は凍えた。
それと同時に、意識がどんどんぼやけていくのを感じる。
(これが……死か)
そう実感しつつも、政景は抗うように顔を上げた。
彼が顔を上げたのを見た定満が、ぎょっとした表情を浮かべる。
(……だが!)
次の瞬間、政景は最後の力を振り絞って舟床を蹴った。
そして、弾の切れた短筒を捨て、腰の脇差を抜こうとした定満の体にしがみつく。
「ぐっ! な、何を……っ!」
「……っ!」
狼狽えながら政景の体を引き剥がそうとする定満だが、政景も振り離されまいと末期の力を振り絞って懸命に抗う。
そして――ふたりの体は、互いに縺れ合いながら船縁を越え、激しい水音を上げて、ふたりの体が冷たい湖水の中に落ちた――。
(ご……ごぼっ……!)
初春の氷のように冷たい水の中で口泡を吹きながら、定満は懸命に水面へ上がろうと藻掻いた。
……だが、体にしがみつく政景のせいで、それも能わず――、
(こ……こんな事で……儂が……殿に……最後の……御奉公も……でき…………)
彼の意識は、そこで途切れた――。
一方――、
(ああ……私はここまで……か)
しがみついた定満の体から力が抜けたのを感じながら、政景の意識もどんどん薄らいでいく。
(まあ……良いか……)
不思議と恐怖や後悔はない。
(いずれにせよ、これで駿河守は止められた。私に才があれば、もう少しうまくやりようもあったのかもしれぬが……まあ、止むを得まい)
そう思いながら、闇よりも暗い水の中で微笑む政景の脳裏に、親しき者たちの顔が次々と過ぎっていく。
(綾……すまぬが、長尾の家はお前に任せた……気丈なお前なら、私がおらずとも立派に務められるだろう。――卯松……大きくなれよ。立派になって、私の分まで上様の御役に立ってくれ……)
そして、消えゆく意識の最後に政景が想い浮かべたのは……、
――『彼奴が妙な気を起こさぬよう、お主が余の代わりに目を光らせておいてくれ。――頼んだぞ、越前』
(上様……お約束を果たせず、申し訳ございませぬ……)
先日栃尾城で交わした最後の会話を思い返しながら、政景は主に詫びる。
それに対し、輝虎が微笑みながら小さく頭を振ったのが幻視えた――気がした。
(ふ……)
いつもと同じ“義弟”の朗らかな笑顔に、政景の口元も綻ぶ。
意識を手放す寸前、彼は幻の“義妹”に向けて、最期の言葉をかけた。
(それでは……おさらばに御座ります、お虎殿……。どうか、これからも末永くご健勝で……できれば、上杉家の当主としてではない……ご自身の人生を全う……できますように――)




